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関ヶ原の合戦。敗軍の兵のその後。

宇喜多秀家(岡山)、小西行長(熊本)、島津義弘・豊久(鹿児島)などは、遠方から関ヶ原に出陣しています。 兵(足軽)は、国元から引き連れてきたのですか。 そうであれば、敗戦後、国元へ帰ることができたのでしょうか。 敗戦後の兵はどうなったのだろうか、という疑問です。 よろしくお願いします。

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  • jkpawapuro
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回答No.3

宇喜多軍はほぼ壊滅なのでちりじりになってます。 部隊が壊滅したので多くのものは落ち武者狩りにあい死んだでしょうが、着の身着のまま見たいな状態で逃げ延びたものもいるでしょう。 小西軍も同じ。 島津軍は豊久は殿で戦死、義弘は退却に成功し数十名に磨り減りながらも懇意の豪商の世話になり大坂に潜伏、大坂城の妻とともに船で帰国してます。 ですので足軽で生き延びたものは一緒に薩摩まで船で帰国したでしょうが・・・ 島津って撤退戦の途中で捨てがまりをやってますのでね、足軽はほぼ全員戦死してますのでこのルートで帰国した足軽ってたぶん一桁の人数です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 関ヶ原の合戦の死者数は、まさにおおよそですが、1万人以下とされていますね。 大半の足軽は、生き延びたに違いないのですが、足軽の記録なんて残されていないとは思いながら質問しました。 「捨てがまり」とは知りませんでした。 こうまでして殿を守ろうとした彼ら足軽は、国元から連れてきたのでしょう。 これを知っただけでも質問した甲斐がありました。

その他の回答 (2)

  • oska2
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回答No.2

>兵(足軽)は、国元から引き連れてきたのですか。 支配地(根拠地)から出陣した足軽もいました。 殿>武将>家来>足軽ですね。 が、現地採用の足軽も多くいます。 「勝ち馬に乗って、一旗あげる」輩も、多く居ましたからね。 激戦時に「旗色」を見て、現地採用の足軽は寝返ります。 江戸時代、幕府は「下克上」を恐れていたので「朱子学」を基本としましたよね。 戦国時代・安土桃山時代までは、「主殺し」は一般的でした。 明智光秀なんか、誰も「悪人」とは見ていませんでしたからね。 関が原の金吾中納言の裏切り行為も、戦闘では普通の事でした。 が、朱子学の影響で「悪人」となったのです。 >敗戦後、国元へ帰ることができたのでしょうか。 勝者側は「落ち武者狩り」を行います。 目指すは「武将」ですが、「武将を取る事が出来なかった場合は、足軽の耳の数」で恩賞を貰います。 支配地から出陣して来た足軽は、上司と行動を供にします。 上司が自害すると、その首を支配地に居る奥方に届けます。 また、一緒に自害する足軽もいます。 現地採用の足軽は「我関せず」で、直ぐに武装を解いて中立者に変身! 確か、宮本武蔵も現地採用の足軽として関が原で戦っています。 残念ながら、敗軍側となりました。 が、熊本藩の指南役にまで上っていますよね。 これも、「我関せず」で武装を解いて中立者に変身!したから生き延びたのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど! 現地採用もあれば、国元から連れてきた者もいること、当然ですね。 現地採用者は、人夫・輜重兵みたいな存在だったのでしょう。 国元から連れてくれば、道中の費用もかかりますが、戦闘の訓練ができておれば強い軍団になります。 武蔵のことは知りませんでした。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.1

足軽の多くはその場限りのバイトのようなものです。負け戦になれば真っ先に逃げ出します。義理も何もありませんから。いざとなれば敵方に寝返ることもあったでしょう。負けた側にそのままいたところで報酬だって支払われないですから当然です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど! そうですよね。 両軍合わせて10万人を超す足軽がいたと思いますが、人集めが大変ですね。

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