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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:明治維新時の不可解な宗教改革は何だったのでしょう?)

明治維新時の不可解な宗教改革とは?

このQ&Aのポイント
  • 明治維新時の宗教改革について、なぜ不可解なのか疑問に思います。
  • 明治政府が浄土宗を免れさせた一方、真言宗を迫害した理由は何でしょうか?
  • また、天皇家が天台宗ではなく神道を信仰していることも不思議です。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ithi
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回答No.2

blackkigyou2017 さん、こんばんは。 徳川将軍家は元来三河にいる頃から浄土真宗を信仰していました。 だから、東本願寺は家康が江戸入りしてからの関係があるので、関係は良好でした。それから、上野の東叡山寛永寺(天台宗)、芝増上寺(浄土宗)は将軍家の菩提寺として歴代の将軍の墓所です。 慶応四年に神仏分離令というのが出ますけど、これは儒教や復古神道に基づく国家神道の先影として政府から公に布告されました。だけど、王政復古、祭政一致 のために理想的な新党国教化を目指し、神仏習合を禁止するためだったとされています。これがきっかけで廃仏毀釈運動が起きます。神官や国学者、それに先導された寺請制度に不満を持つ民衆たちによって、多くの貴重な仏教美術、仏像、仏画、仏具などが破壊された。またうしなわれた。しかし、今まで民衆に対して宣教を行ったことのない、神官や国学者では民衆はついてこず、復古的な祭政一致などできることではないという事です。宣教化に派仏教界の力がぜひとも必要を感じた明治政府は明治5年に島地黙雷の具申により、神祇省を教部省に再編成して、教育機関として大教院を設置、教導職として僧侶も任命することになました。これにより神道国家を目指すための神仏共同布教体制は出来上がりました。神道国家化のためにはキリスト教布教の排斥も絡んでいましたが、欧米列強野信教の自由をかえって、保証を求められ、明治8年大教院を廃止し、明治10年には教部省も廃止されました。 神仏分離令 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2 廃仏毀釈 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88 明治政府は天皇家を推したくせに天皇家の天台宗を迫害して信者がいなくなっている。 戊辰戦争の時に旧幕軍が輪王寺の宮(北白川宮)という皇族を旗頭にして戊辰戦争を戦ったことがあります。 天皇崇拝を推奨して天皇家の天台宗を迫害して、天皇家と縁がなかった神道を天皇家が信仰していたことに歴史を作り変えて、今の天皇家はなぜか天台宗ではなく神道をずっと信仰してたていで演じられている。 いいえ、天皇家は一番古い神道の神官の家です(なんせ天照大神の子孫というんですから)。延暦寺もはっきり言うと国家鎮護のためのお寺でした。(しかも鬼門筋です) 天皇家 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4#.E5.86.85.E5.BB.B7

blackkigyou2017
質問者

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ありがとうございます

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  • tzd78886
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回答No.1

明治政府、はっきり言えば薩長土佐は天皇を傀儡として利用しただけです。欧米視察した際、キリスト教が根本にあることを知りました。つまりキリスト教のもとに国民は集結していたわけです。 幕末までキリスト教は禁止されていた日本では、同じようにキリスト教を導入することは不可能なので、天皇家にその代りをさせようと画策したわけです。実際には政府の高官(薩長土佐)が行っている政治も、形の上だけ天皇のもとにやっているように見せかけるには新党と結びつけることが手っ取り早かったのです。 ですから、明治維新以降の「国家神道」と本来の日本人の生活に馴染んでいた神社は本来全くの別物です。それまで神社と自社は同じ敷地内にあるなど区別されていなかったものを、明治維新以降「神仏分離」として無理やり分けました。中国から来た仏教と混ざっているのでは具合が悪かったからです。

blackkigyou2017
質問者

お礼

ありがとうございます

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