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江戸時代のパトロンについて
ヨーロッパの画家は支援者(パトロン)がいて、発展してきたという話を聞いたのですが、日本の江戸時代の浮世絵師や作家にもパトロンがいたのでしょうか? 浮世絵師や作家(井原西鶴のような浮世草子)はモデルやネタ探しのために遊廓遊びもしないといけない?かと思うのですが、今の出版物と違い、基本的に作品は買い取り制で収入は最初の依頼料のみ、印税という概念がないため、後にいくら作品が売れて増刷されても作者の収入にはならないと聞きました(滝沢馬琴は別とし)。 遊廓通い、しかも、モデルになりそうな美女は太夫などの高妓の方が多いかと思いますが、売れっ子でそれなりに高給取りであったとしても、流石に高妓相手に遊廓通いを続けるには、揚代を支援してくれるパトロンがいないと厳しいのでは?と思ったのですが、どうなのでしょうか? また、パトロンになるのは、どんな身分(職業)の方が多かったのでしょうか?
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- ithi
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riko005 さん、こんにちは。 有名な版元の蔦谷重三郎なんかみたいな出版界の大御所。こういう人がパトロンになるんですよ。 蔦谷重三郎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A6%E5%B1%8B%E9%87%8D%E4%B8%89%E9%83%8E
- moritaroh
- ベストアンサー率56% (658/1173)
広範な意味で言えば画家も文筆家も同じ「作家」なので、私はそういう意味ですべてひっくるめてのことかと思っていましたが、作家系、というのは、文筆家、ということですね? ご質問の中で挙げておられる井原西鶴もそうですが、今でいう小説家のような位置付けでもありますが、同時に人形浄瑠璃の作者でもあります。すなわち脚本家や構成作家、という感じでもあったでしょう。 今でこそベストセラー小説などを1本書けば、印税収入でそこそこにはなりますが、かといって印税だけで食べていける小説家はごく一握りです。どちらかといえば映画化されたりドラマ化されるなどの方が収入として大きくなります。 つまり、文筆家の仕事は、やはり歌舞伎などの芝居や人形浄瑠璃として上演されることにつなげるものであったのではないか、と思います。 これは識字率の問題もあります。 絵などと違い、文章の場合は、相手が文字が読めることを前提にしていると思います。 いかに江戸時代が平和で、庶民の教育水準もある程度は向上したとはいえ、やはりすべての庶民が文字を読み書きできるわけではなかったと思います。そのため、文筆家という仕事自体が、文章そのものを売るよりも、演劇作品的に上演されるような仕事につなげる機会を第一にしていたのではないか、と思います。 ゆえに、文筆家として名を残した人が少なかったのではないかと思います。 ちなみに、パトロンという感覚は、見返りを求めることなく芸術などに出資する人です。言い換えれば熱烈なファンという感じですし、当時で言うなら遊女を娶る男性の感覚の方がパトロンに近いのかもしれません。 自身の店の繁盛など、何らかの見返りを求める商売的な算段があって「作家(絵師も含む)」を支援するのはパトロンではなく、作家側から言えば顧客、支援する側からはビジネスパートナーと言えるでしょう。
- hue2011
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No.2ですが、作者についてもっと教えろというなら、やりましょう。 どういう流通法だったかを考えてください。 現在のように大量に印刷して製本し、書店というものに並ぶわけではありません。 馬琴だけは別格で、このひとは出版されるのを皆が心待ちにして購入しましたので、店で予約販売をしました。 とはいえ今の書店ではありません。浮世絵やなんかを売っている場所です。 普通は、あやしい貸本屋というのがディストリビュータをやったのです。 昔の人が、自分の家が傾くほど本を積みあげるなんていうことはできません。立花隆だとか荒俣弘なんていうひとは江戸時代にはいなかった。 もちろん蔵においておくような人はありましたが、長屋に居る人間なんか、場所がありませんから。 だから、荷物を背負ってくる貸本屋がニーズがあったわけです。 もちろん、それが気に入ってほしいから売ってくれというひともいたでしょうが、たいがい一度読んで、せいぜいもう一度読み返すぐらいのことをして返します。 パトロンなんかいるわけなく、読者の支持だけです。貸本屋がくるくる回ってくれなければお金のでどこがありませんから、おかゆもすすれないということになります。 浄瑠璃の原作本などを書く人間は、興行的に収入が見込めますから、歌舞伎役者の頭目とかから値段を示されて創作依頼があります。 パトロンではなく、受注生産です。 近松なんかがそのくちで、その代り、当時は印税という考えがありませんから、一度書いたら収入はそれきりです。 次々に新たなものを創作していかないと食べられません。 こういう苦しい中書きたいというのは、民衆の支持がそこそこ聞こえてきて、自分に生きる満足感があるのでそれを心棒にして働くわけです。 こういう流通がいかに作者を貧乏にするか、は、紙芝居と貸本漫画で膨大な仕事をしても質屋通いがやめられなかった水木しげるなんていう人の書いていることを読むとわかります。 それだけで食べていくのは大変なので、大体本業をもっているのが普通です。本業が侍の人もいます。太田南畝なんかがそうです。 給料があれば、趣味的に創作をするのはなんとかなりますから。 取材がしたければ、幕府の隠密みたいな仕事をひきうけたら経費が出てきます。情報を収集して報告するということをすれば、諜報機関になりますので。 西鶴はそうじゃなかったかと私は見ています。 これは絵師でいうとおそらく広重がそうではなかったかと思われます。 西洋はどうだったかというとパトロンがあったはずです。 なぜかというと、異常に高価で、作り自体が贅沢を極めたような本がヨーロッパにはあります。 日本にはああいうものはありえなかった。 所詮紙を糸で縫い綴じたようなものに、ダイヤモンドをちりばめたりワニの革でつつむなんていう発想があり得ない。 そういう贅沢ものを可能にするのは、無駄に出てくることのできる資金ですから、それを出すのはパトロンです。
- ichikawa2017
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No.4です お礼を頂戴しました。 関西といいますか大阪新町と京都島原の情報はないか、とのことですが概要だけ説明させていただきます。 江戸の吉原というのは京都の島原を模倣して作られましたので基本的なシステムに大差はありません。 大きな違いは、島原では鑑札があれば遊女が街の外へ出歩くことができました。 比較的出入りが自由でした。 吉原にはこのシステムがありませんでした。 周りを掘で囲んで出歩くことが認められませんでした。 これを徹底していた為に大火の度に大量の焼死者を出していました。 全体的には江戸、大阪、京都の都市としての性格の違いがそのまま影響しています。 全国的には武家の人口というのは3%程度が一般的でしたが、江戸は人口の50%が武家でした。 参勤交代で出府してくる武家も全員が単身赴任でした。 結果として相対的に女性が少ない街でした。 女性は結婚相手次第で簡単に武家身分になることができました。 経済的に余裕のある町人の娘は、行儀見習いとして武家屋敷や大名屋敷に奉公に上がっていました。 このあおりで町人の若者は相手をしてくれる女性に恵まれていませんでした。 結果的に吉原も性的な娼妓が主体となっていました。 京都は朝廷があり公家が暮らしていました。 公家諸法度で公家は文化活動が義務付けられていました。 結果として京都の町人にも文化活動が浸透していました。 島原も文化サロンとしての性格が強い遊郭でした。 妓楼で俳諧や連歌の集まりなどが頻繁に開かれていました。 女性なども出入りしていました。 遊女にも娼妓よりも教養が求められました。 最高位の太夫などは公家と互角に付き合えるだけの教養を身に着けていました。 吉原の花魁も教養を身に着けていましたが桁が違っていました。 極めて格式の高い遊郭でした。 庶民にはけむたいということになり客離れが起きて江戸時代の中期以降衰退していきました。 面倒な手続きなど無い祇園などが栄えました。 ということで手軽な書籍が少ないのも止むをえません。 大阪は町人が主体の街でしかも商家が多いという特徴がありました。 客も実利本位で娼妓は娼妓、芸妓は芸妓と割り切っていました。 料理屋の座敷へ芸妓を呼ぶということも多くその場にそぐわない七面倒な教養よりも歌や踊りなどの芸技の巧者を大切しました。 娼妓も手軽な私娼で充分でした。 吉原のように両方を取りそろえた妓楼よりも市中で目的に応じた店を使うようになりました。 人口のわりに新町が吉原や島原よりも規模が小さいのはこのためです。 結果として新町についての書籍が少ないのも止むをえません。
- ichikawa2017
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>日本の江戸時代の浮世絵師や作家にもパトロンがいたのでしょうか? いませんでした。 ヨーロッパでは、富豪が教会堂を寄進するということが行われていました。 聖書に、天国へ財を積めとか富んでいる者が神の国にはいるよりはらくだが針の穴を通る方がもっとやさしいなどと記載されているように、教会への財の寄進というのはキリスト教の基本的な教義に基づいて行われたものです。 この際に教会堂の内部を装飾する画家が必要でした。 この画家を養育育成していたのがパトロンです。 絵を額に入れて部屋の装飾に使うという文化は日本では発達しませんでした。 ヨーロッパでは、この額へ入れる絵として肖像画が好まれました。 この王侯貴族の肖像画を専門に描いていたのが宮廷画家と呼ばれる人達でした。 王侯貴族はこの宮廷画家を養育育成していました。これもパトロンです。 日本では壁画や額入りの絵画は発達しませんでした。 日光東照宮の鳴き龍のよな寺院の装飾はありましたが、絵師としては臨時の仕事でした。 絵を飾るものとしては床の間に飾る掛け軸(掛幅)や色紙ていどでした。 一方で襖、屏風などの調度品に絵を描く文化は発達しました。 幕府や大名家には御用絵師と呼ばれる人達がいました。 士分として俸禄が支給されていました 幕府や大名の屋敷の襖絵や屏風絵を描いていたのが、この御用絵師です。 最大の御用絵師は幕府の御用絵師だった狩野派です。 秋田久保田藩のように秋田蘭画と言われる独特の画風が生まれたこともありました。 藩士が絵師になることもありました。 このような形態をパトロンと呼ぶか否かです。 浮世絵というのは基本的には飾るもではなく手に取って楽しむものでした。 現代の写真週刊誌のようなものだったとお考え下さい。 浮世絵に文章が書きこまれているのはこのためです。 商品として販売することが目的でしたので、現在の出版社のような版元(地本問屋)というのが発注していました。 絵師の生活を保護することはありませんでしたが、頻繁に出版していましたので、絵師もこれでなんとか生活していました。 作家も非常に広い範囲の人達がいました。 現在の学術書のようなものは藩校と呼ばれる所に勤務していた儒者などが書いていました。 僧侶なども書いていました。 この類のものは、印刷されるよりも必要とする人が筆写することで流布していました。 金になるようなものではありませんでした。 現在の大衆小説のようなものとしては、読本、草双紙(絵草紙)合本などというものがありました。 現在の出版社のような書肆と呼ばれる人が発行していました。 現在も出版社が作家に発注するのと同じように書肆が作家に発注していました。 書肆が作家の生活を保障することはありませんでしたが、作品が売れれば次々発注していました。 この絵双紙と浮世絵の境界が判然としません。 現在は1枚から数枚のものが浮世絵として扱われています。 >流石に高妓相手に遊廓通いを続けるには、揚代を支援してくれるパトロンがいないと厳しいのでは?と思ったのですが、どうなのでしょうか? 自分が体験して直接取材しなければ書けないというものでもありません。 基本的な知識としては、遊女評判記、吉原細見などというガイドブックが販売されて流通していました。 花魁の揚げ代に不自由しない十八大通と呼ばれる人達がいました。 札差という職業の人が主体でしたが中には吉原の妓楼の経営者もいました。 要は金に困らない富豪で遊び好きの人達です。 このような人達から取材すれば充分です。 当時吉原というのは流行の発信地でした。 酒席などで吉原の話題には事欠きませんでした。 少しでも遊び心がある若者にとって吉原内の習慣など常識でした。 わざわざ大通を訪ねなくてもこの手の話だけで予備知識は充分手に入りました。 現在でもドキュメンタリー作家でもない限り一々直接取材などはしていないのではありませんか。 仮名手本忠臣蔵も大石内蔵助に直接取材して書いたわけではありません。 まして、江戸城中にいたわけでもなければ討ち入りの現場にいて体験した訳でもありません。 >パトロンになるのは、どんな身分(職業)の方が多かったのでしょうか? 絵師や作家ではありませんが歌舞伎役者のパトロンは沢山いました。 金に不自由しない十八大通のような人達でした。 パトロンではありませんが相撲力士を抱えていた大名がいました。 参勤交代の大名行列などにも連れ歩いていました。 現在も横綱の土俵入りで太刀持ちがいたり、弓取り式がおこなわれるのはこの名残です。 弱くなれば放り出されていましたが、抱えられた力士の身分が度々問題になりました。 町人であれば町奉行所の支配をうけますが、大名家の家臣の武士であれば町奉行所の支配をうけないことになります。 治安を維持する上で重要な問題となります。 最終的に浪人ということで玉虫色の解決をしていました。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11204/34805)
あまり詳しくはないですが、江戸時代の絵画などの芸術は狩野派などの武士階級・お寺相手の「高尚なお芸術」と、浮世絵などの「大衆向け芸術品」に分かれていたと思います。 武士・お寺相手の高級品分野は、新規参入が実質不可能です。その代り、大名家などから一定のペースで仕事がきますから、これは公共事業みたいなもの(大名側も好きでやっているわけではないが、家の格を保つためにやらないといけない)ですね。好景気に沸くということもないでしょうが、倒産の危険もありません。 大衆向け分野は、他の方も指摘しているように「ギョーカイ人」です。一代で成功した人がグラビアアイドルを集めて合コンをしたがるような感じでお大尽という人たちがパトロンになるという部分があったと思います。 よく地方の旧家の土蔵から「誰々の肉筆画が発見された」なんてのがありますが、あれはそういうお金持ちの人がその人を呼んで描かせるわけです。もちろん渡航費とその他の費用、滞在費に絵を描いてもらったときの料金としてのお駄賃なんかは全部その呼んだ人の負担となります。 江戸時代の商人の富豪っぷりというのは、現代の我々の想像を絶しています。なにしろ、法人税が一切かからない!儲けたら儲けた分だけ、全て自分の儲けです。これを不動産業で考えてみてください。土地持ち、ビル持ちの人が手に入れたテナント料などが税金をとられないで全部懐に入ると考えると、土地持ちは寝てるだけでガンガンお金が貯まっていくことになります。 その代わり大名(時には幕府)から金を貸せといわれると断れないし、賄賂を要求されたり事業を命じられます。そういうのに従わないと、あるいは従っても幕府に目をつけられてしまうと淀屋のように「その贅沢目に余る」という無茶苦茶な理由で全財産が没収されてしまいます。ちなみに淀屋さん、天井を全面ガラス張りにしてそこに金魚を放ったらしいです。天井を見上げると巨大なガラス金魚鉢!まあなんて風流なのかしら・笑。 アニメやドラマで登場した場所をファンが訪れる聖地巡礼ってありますよね。ああいうのは江戸時代にもあって浮世絵なんかに描かれたところを人々が訪れるっていうのがあったんですよ。上野の谷中にあったお茶屋のお仙ちゃんという看板娘が美人画に描かれたら、お仙ちゃんに会いに客が押し寄せたなんてエピソードもあるんですね。そう、江戸時代も現代もあまり変わらないのです。 当然そうなれば、人気のクリエイターにネタにされたら謝礼を支払うところも出てくるわけですよ。あとあれですね、ほら、風俗の体験ルポ記事なんてのは記者がお金を払うわけがないですよね。記者も慣れていればいちいちプレイをしなくても話を聞くだけで記事を書くこともできましょう。そういうことだってありますよ。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 確かにライターの方などには実際、現場で自分で体験取材する方もいれば、体験者の話を聞いて、それを元にという方もいますね。
- hue2011
- ベストアンサー率38% (2801/7249)
今でいうと、絵師も作者もギョーカイ人なんです。 わざわざ吉原に、お金を払って客としていくのじゃなく、こんちはといって入っていってデッサンさせてもらうのです。 こういうことをさせておくと、自分の絵を、本体よりももっと美しくして描いて市中に売ってくれるのですから女たちは歓迎します。 そしてセンセイセンセイといってお酒やちょっとした料理を自分で買ってごちそうしてくれるんです。 歌舞伎役者でも同じことで、自分のキャラクタグッズを企画してくれるのですから、センセイということになります。 当然これは歌麿レベルの方向を目指す絵師の話です。 そういうことをしないでリアリズムとかデフォルメで描く人は、モデル本人が怒りますし、当然誰かわからないし、顔もわれないことになります。 こちらは相当お金を持っているか、パトロンがいないとできません。 写楽がそうです。 この人は、やっぱり別のことで食っていける人でないとできない仕事をしました。 なお、笑い絵とか枕絵の類は、必ずしも誰をモデルにするというわけではありませんが、そこに顔を使われたら花魁なんかは喜んだと思われます。 自分を対象にしてそういう妄想をされることは商売繁盛につながりますから。オナペット女優というわけです。 そういう絵を描いてくれたら、やっぱり来た時にごちそうします。 貧乏を楽しみ、生活はどうでもいいやという思想で統一し、リアリズムデフォルメが許されたのは北斎です。 これは貧乏仲間の友達たちが支援してくれ、飢えずに済んだ。 西洋風の貴族社会のパトロンの考えなら、北斎は宮廷画家として誘われた筈ですが、日本の武家社会はそれほどリッチじゃないのでそういう人はでてこない。 贅沢禁止なんかを美風と考える波がある社会では、栄養をたっぷり与えて文化を熟成させるという方向にはなかなかいきません。 そのかわり出版元がいて、こちらはビジネスマンなので、売れる企画を持ち込んだりして自分がもうかる方向に画家を持っていこうとしたわけです。 まず経済があってそこに文化が咲いたのです。 貴族社会があってそこに発生したのではないのです。
お礼
回答、ありがとうございます。 浮世絵師については、ネットや本も沢山あるので、ある程度はわかるのですが、作家系の方々のことは、あまり見かけなく、作家について詳しくご存知でしたら、ご教授願います。
- moritaroh
- ベストアンサー率56% (658/1173)
日本には明治になるまで「芸術」という考え方や「画家」という職業の概念がありませんでした。 ゆえに画家をパトロン的に支援する、といった考えもほとんどありません。 また、その時代「画業」は個人ではなく弟子も含めた集団で行うもので、個人のみの職業ではありません。工房で複数人に作業を分担して行うので、言い換えれば今日に名前の残っている画家の多くは工房の長、すなわち「社長」とか「デザインディレクター」に近いです。 仕事の流れは、原則的には自ら武家や寺院などにセールスを行う仕事を契約してくる、という今日のデザイン会社のような在り方とほとんど変わりません。 たとえば城や新しい寺の建築計画があれば、建築家や表具師、工芸家などとともに現場に入り、内装のデザインを担当していた、という感じです。 江戸時代になると顧客の幅が増え、武家や寺院以外にも民間の商店主とも取引が増えます。 浮世絵師は言い換えればグラフィックデザイナーで、遊郭などは「取引先」のひとつ。 遊郭のオーナーが自店舗の広告を出して欲しい、ということで浮世絵師に依頼していたのです。そのため絵師自らがお金を出さずとも、接待や取材などで遊郭に出入りすることは可能だったのでしょう。 なお、浮世絵は版画です。版画の世界はかなりの分業が進んでいます。 絵師の原画をもとに、彫り師が木版を制作し、刷り師が印刷するのです。絵師が彫り師も兼ねている場合もありますが、たいてい刷り師としてのプロも存在していたのです。 で、それらの経費(デザイン料や印刷料)をひっくるめて顧客である遊郭などが支払っていたと思われるので、そもそも印税的な収入が発生しない仕組みなのです。 絵師が好きなように描いて作品を売っていたのではなく、遊郭や芝居小屋などの顧客があってなりたっていたので、絵師は画家ではなくデザイナーです。 もちろん有名絵師となれば、自らが好きに描いた絵を売ることもあったと思いますが、逆に言えば、無名絵師でもそのような個人での作品で巷で評判になれば、大口の顧客として遊郭などの仕事を勝ち取ることもできたので、個人の自由な制作のように見えるものも、販売や印税収入を考えることよりセールスプロモーションに近い意味合いだったのではないかと思われます。
お礼
回答、ありがとうございます。 浮世絵師については、ネットや本も沢山あるので、ある程度はわかるのですが、作家系の方々のことは、あまり見かけなく、作家について詳しくご存知でしたら、ご教授願います。
お礼
詳しい説明、ありがとうございます。 吉原はネットや専門書が沢山ありますが、島原や新町についてはあまり見かけないため、関西地方の遊廓にもお詳しければ、ご教授願います。