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日本にはなぜ城壁都市がなかったのか?
いろんな国に海外旅行をすると段々と気づいてくる事ですが 外国の都市には、ほとんど例外なく都市の周りに 城壁が作られている跡があります。 例えば、北京、西安、など中国では歴史ある都市では ほとんどですし、 ドイツのロマンテックなローテンブルグもそうですし タイのチェンマイもそうです。 イランの街もそうです。 つまりかって戦争に関わった歴史ある街は 城壁が当然のようにあったということです。 ではなぜ、日本の都市には城壁が必要なかったのでしょうか? 日本人だけが戦争が嫌いというわけではなさそうですし・・ よろしくお願いします。
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城壁都市というのは、都市そのものが国であり経済単位です。また城壁都市での戦争とは、同盟国(同民族)の覇権争いであったり、異民族の侵入対する戦いであったりしました。 日本の戦いは、応仁の乱以降全て「日本国」の覇権を争う戦争ですので、上記の点に照らし合わせば、平安以降日本は、日本列島全体(北海道を除く)がすでに城壁都市と同じ単位になっていたといえます。 また、国家の構成員の違いも重要です。 城壁都市の構成員は民主的な国家なら選挙で選ばれた代表と市民そして奴隷、王国なら国民と奴隷で、いずれにしても国民は自国(城壁国家)のために兵として参加することが義務であり、また奴隷との最大の違いで名誉なことでした。 日本の場合は、応仁の乱以後はすべて天下取りのための戦争ですから、実力のある物同士が戦争を行いますが、実力があっても農業に力を注ぎ参戦しない有力者もいましたし、百姓身分の人は原則的に徴兵されることはありませんでした。 日本が城壁国家でないことが原因で、世界的に見て奇妙なことが起こっています。それは国換えです。たとえば姫路城は1346年に築城されていますが、このころは南北朝が対立している時代で、その後戦国時代を経て、江戸時代そして現在までこの城は同じ場所に立っています。 しかし城の主は様々な理由で何人も変わっていますが、領地とそこに住む住人(百姓・町人・漁民など)はそのままで、まさに「お上」が変わるということになります。 城壁国家なら、城主と城(国民)は一体ですから城の主が替わるということは、敵に侵略されて国民を含めて総取替されたされたか、降伏して相手国の支配下になったかということで、所有そのものが変化しましたし、場合によっては全員虐殺されて城もなにもかも跡形もなくなってしまうということもおこりえます。 つまり日本は平安期に、天皇を中心とした国家体制が確立し、その後政権を誰が担当するかで戦争をしても、(島国ですから)異民族の侵入は原則的になかったということです。 更に平安時代には国家統一のために天皇家をはじめ、貴族や武家も各地に散って政治を行っていましたので、日本列島隅々まで同じ民族としての気分が醸造され、戦争を行ってもそれは覇権争いであって「侵略」ではなかったのです。 このようなことなら、城壁を作り城=国ということをする必要はありませんし、国換えで領地と領民をそのままに、「お上」だけが変わってもだれも文句を言わないことにつながったのです。
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- Yelm
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戦国時代の領民は、領主の築城や補修の手伝いをする見返りとして戦時には総構に避難する権利を認められていました。 虐殺は行われなくても、略奪や雑兵の狼藉はしょっちゅうであり、領主と領民は双務的な関係(領民の安全を保護する見返りに税を納める)であったことから商工民を守る必要があったのです。 このため純粋な戦闘機能が目的のいわゆる「境目の城」はともかく、領域の支配のために築かれた「根城」は多くの場合、外郭部に領民を収容する施設がありました。 なお総構に入れなかった領民は通常、占領軍に金や兵糧を提供する事でお目こぼしをしてもらうのが一般的でした。
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ありがとうございます。 当時の事情の一端が分かりました。
- PENPENMAKKY
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政争による内戦が日本における戦争です。彼らの目的は政敵抹殺であって領民は自分の統治下に置きたいわけです。 外国は他民族との戦争であって、領民を含めた地域の制圧・支配又は民族抹殺が目的なので、領民は皆殺しに遭う危険性があります。 つまり海外では領民は城壁の中で暮らさねば殺される可能性があるのに対して日本はその可能性がないから日本には城塞都市がないのです。
お礼
ありがとうございます。日本の場合は単一民族で 異国民との戦いでないので 戦争で勝利しても民衆をそのまま活用して統治した方が 農作業の生産性の向上が図れるという理由ですね。
- jamiru
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蘇我氏が城塞都市を築いてみたけど大将である蘇我入鹿はテロに倒れてしまった。 大将が倒れては城砦なんかひとたまりも無く消滅。 自然の要害と、交通の要所が日本の場合はそれほど距離が無かったのかもしれませんね。
- yakyutuku
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小田原が例外であることは間違いありませんが、その後大坂であったり江戸城の防御線(こちらが完成を見るのは18C)であったり、町全体を防御線で覆う都市が出ていることを考えると、例外というよりさきがけと見るべきでしょう。ではなぜ、戦国後期ま都城制が見られないかというと、一言で言えばそれだけ強大な敵がいなかったからです。 戦国後期以前は、農閑期の短い期間、山城にこもって耐えれば敵は逃げ帰ったのです。戦国後期になると毛利、武田、上杉、織田、徳川といた巨大大名が生まれます。彼らの特徴は、単純に兵力が大きいだけでなく、強力な黒鍬部隊(土木部隊)と輜重部隊を備えており、遠隔地に大軍を派遣してもなおかつ街道を整備し、兵糧を補給しその地で長期にわたって戦えることです。こういった強力な大名の出現により、強大だ防御力を誇る城の必要性も生まれたのだと思います。 日本で総構えのさきがけとなった小田原城などは特に、関東管領家、上杉、武田といった巨大勢力の攻撃にされされました。だからこそ、巨大な総構えが必要だったのではないでしょうか?
お礼
ありがとうございます。 なるほどね。強大な敵がいなかったし、農作業に忙しくて 徹底的に戦争にかまけているヒマはなかったわけですね。 城壁のない、無かった日本は幸せですね。
- caesar-x2
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”大和国がその当時では世界の中でも有数の都市です”とは・・・・ どういう意味でしょうか? 飛鳥京か、藤原京のことかな。 藤原京は中国を模倣して作られた城郭都市もとい都城の一つですが、 いわゆる都市として発達したものではなくて、 国家が律令の府として造った人工都市ですから、平城京とは同種だが、 博多や堺のそれとは違う。 平城京などもそうですが、その城壁は形式的なもので、 大通りがあって、むしろ戦闘用ではなく行政用。 近世に入るまで、日本の人口は非常に少なく、 耕作面積も限られていたので、都市の発達は、 他の国、特に中国などと比べれば、かなり差がある。 物流が本格的に活発になるのは、江戸時代だし、 人口爆発がおきたのも戦国前後。 都市の発達は人口と流通に直接影響するので、 それを抜きに考えるのは全く可笑しい。 小田原や大坂の城壁は、日本で稀なほど本格的なものであって あなた達が認めようが認めまいが、事実は揺るぎません。 城壁の外にも町が広がっていたものの、 基本的には城郭都市であって、包囲されても何年も (小田原の想定は農閑期の一~二季節ぐらいだが)活動できるように 設計された稀有の城です。 日本に城郭都市が見られないという話から入ったのに、 あるといったら、それは例外だというなら、 どういう基準の例外なんでしょうか・・・。意味不明なんですが。 日本に城郭都市がないという前提で話を進めたいなら、 それは本末転倒。
お礼
ありがとうございます。 ご見解ありがとうございます。 いろんなみかたもあるものだと思いました。 平安京にしても平城京にしても、あの当時では 世界有数の大都市のはずですが・・ その後の日本の都市もおして知るべしだと思います。 9キロメートル程度の小田原は、城壁都市と言ってもいいかもしれませんが、大阪はあくまでも大阪城周辺だけの城壁ですが・・ 日本には、全く城壁がないとはいいませんが それはあくまでも例外中の例外だと思います。
- shanshan47
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質問者のイメージされている「城壁」に当てはまるかは分かりませんが、日本でも秀吉が京都を御土居で囲っています。 ご参考まで。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%9C%9F%E5%B1%85 http://www.eonet.ne.jp/~mangosteen/Odoi/Odoi.html
お礼
ありがとうございます。 それなりの意志を持って作ったのでしょうが 実際上このような土塁でどれだけの役目がはたせたのでしょうかね。
白村江の戦いで日本が負けた後に 天智天皇が九州北部に水城を築いたという記録がありますね。 大陸の連合軍の侵攻に備えて作られた 日本では最初の城塞都市といえるかもしれません。 大陸で言うところのものとは少し違うかもしれませんが。 http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/mizuki/mizuki1.html 海外からの侵攻では、奴隷か虐殺かということもあったでしょうから やはり、住民ごと守るための防衛施設が必要だったのでしょう。
お礼
ありがとうございます。 水城城は、都市城壁というよりも 戦争にそなえた防御壁と言った程度ではないでしょうか。 その城壁にしても、日本の歴史の中でも例外的なものですから 日本に城壁がない理由を探るとおのずと 日本人とは、なにかが見えてくると 思いました。
- caesar-x2
- ベストアンサー率46% (251/542)
最大の理由は、日本では都市が発達していなかったからです。 日本で都市と呼べるほど成長していたのはごく限られた地域だけでした。 京都、平安京も城郭都市ですが、戦乱で荒廃しました。 博多、堺などは古くから発展した都市で、堀で陸と区切られ、 島のようになっていて、これも城郭都市の形態をしていました。 大都市が存在しないと、城郭都市は存在できません。 というのも城郭都市を築くには豊富な財力が必要だからです。 都市が発達するには、貨幣経済の発展と、 物流、インフラ網の発達が不可欠。その点において日本は 甚だ遅れていて、貧しい農業国だった日本においては 近世になるまで城郭都市が出現しなかったというわけです。 近世になってようやく金と物が都市に集中するようになり、 国家(領国)が中央集権的に発達する過程で 首府機能をもつ都市の重要性が増してきたので 小田原や、大坂、などのような城郭都市が出現したのですが、 江戸時代になると、幕藩体制化で、公儀に歯向かわないという意味合いから 意図的に防備を固めないようになったので 全国的に城郭が軍事的施設から行政的施設に移行し、 いわば張子の虎になったことから、城郭都市も消えていったわけです。 そして明治になると、もはや城郭は時代遅れとなっていたので その後も登場しなかったというわけ。
お礼
日本に大きな都市がなかったのは 誤りだと思います。 歴史ある大和国は、その当時では世界の中でも 有数の都市です。 それに近世には城壁があると小田原や大阪を例にだしていますが あれがはたして城壁と言える代物かどうか・・・疑問です。 仮に城壁だとしても例外中の例外的なものでしょう。
- Willyt
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確かに大坂城や小田原城のように町ごと濠の中に囲い込んだ城もありましたが、これは例外です。平城京、平安京は中国の城郭都市を模して建設されましたが、城壁を真似て作ることはありませんでした。 これは日本の戦いが大陸の殺戮戦から見れば喧嘩に毛の生えたようなもので、当事者同士の殺し合いだけで民衆にまで殺戮が及ぶことは、比叡山の焼き打ちや長島一揆征伐等、極く一部の例外を除いて、無かったことがその理由だと考えられます。 関ヶ原の合戦は例外的に大量の死傷者が出た戦いでしたが、近郷近在の農民が弁当を持って見物に出かけていたという記録が残っているそうです。双方併せて20万を超える大軍のぶつかり合いでしたが、戦死者は2千人くらいだったそうです。100人に一人以下です。 成吉思汗がブハラでやった殺戮は数万の市民の皆殺しです。大陸ではそのくらいのことはよくあることだったのでしょう。
お礼
ありがとうございます。 日本の統治者があまり残虐でないのも幸いしているのですね。 平安京なんか 城壁以外は、ほとんどまねしているのに・・・ 昔から日本人は、平和好きつまり穏やかなのでしょうね。
- kenpa79
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城壁は城の周りのお堀に水がはってある石の外壁 街を守るのとは違います。 同じ民族なので民衆を殺戮する必要はなく領主一族から領土を奪えばよいからでしょうか。 戦うときは武士のみで民衆は人質にもならず街を燃やしたり略奪する必要がなかったからでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 同じ民族というのも キーポイントなきがしますね。 それに単一民族だから日本人は あまり戦争でも残虐にならずに 皆殺しも少なかったのでしょうね。 皆殺ししたら その後農耕民族だから田畑を耕す人手が いなくなるからねぇ~
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お礼
ありがとうございます。 異国の侵略でなくて 同じ民族同士が覇権をあらそう お上同士の戦いが 城壁の必要性をなくしている 原因だと理解しました。 同一民族で穏やかな国民性が政権が変るたびに 虐殺が繰り返される他国と比べて ほんとうに良かったと思います。