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○○宿

東海道や中山道などの道沿いには 「○○宿」と言う看板がありますが 要するに昔はホテル街だったという事でしょうか?

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回答No.8

九州の唐津街道と長崎街道の主要宿駅(宿場)である黒崎宿(現・福岡県北九州市八幡西区)の状況について見てみると、この宿駅を描いた嘉永四年(1851)の絵図によって、宿駅特有の景観を構成している建物は次のようなものが挙げられます。 (人馬継所)問屋場とも呼び、荷物輸送の事務をとっていた。 (御茶屋)本陣とも称し、長崎奉行・日田郡代・九州諸大名の休泊所に充てられていた。 (町茶屋)脇本陣とも呼ばれた。幕吏・オランダ使節・長崎町年寄の休泊所となっていた。黒崎宿には八幡屋と関屋の2軒があった。 (制札場)高札の掲示場 (代官所)代官(藩吏)は宿駅の一切を管掌し、代官の下に宿駅の者から選任した3~4人の下代が置かれ、代官を補佐した。 (番所)黒崎宿が豊前国小倉藩との藩境に近いところから、特に設けられた。福岡藩ではこの他、対馬藩肥前国飛地領に近い原田宿と、中津藩筑前国飛地領に近い前原宿にも番所が設けられていた。 (旅籠屋)一般の旅行者が利用した休泊所で、黒崎宿には長崎屋・桜屋などがあった。 この他、福岡藩領の主要宿駅には宿駅の両端に構口(かまえぐち)と称していた石垣が設けられていました。

CGBRSCVTLHNE
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その他の回答 (7)

回答No.7

要するに宿場町って事です 旅館(当時は旅籠(はたご)と呼んでましたが)が多く集まった町の事です

CGBRSCVTLHNE
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  • meido2010
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回答No.6

最近は時代劇が放送されなくなったから、江戸時代の宿場町がどのように 管理運営されているかが知られなくなりましたね。 水戸黄門や影の八州などの時代劇なら、必ず出てくるのが宿場町です。 宿場は大まかに言って城下町、門前町とは違い旅人が宿泊する目的で滞在 するための町ですね。その点で言えばホテル街というのも一概に間違いとは 言えません。しかし大きな違いはそれだけではなく物資の流通の拠点とも なる町だと言うことです。宿場町には旅人だけでなく商人が物資を買い付け に行く途中に寄る場合もあるし、そこで荷を連携する手立ても設定しなくては いけません。 例えば、京から江戸に下り物を運ぶ場合に一つの流通業者では無理で、いく つかの業者を経なければなりません。それは関所の手形の問題もありますし、 それを持っている業者は関所の近くの宿場町にいますので、そういう業者に 頼んだ方が利便性が良いのです。 ちなみに「くだらない」とは京から江戸に下る物ではない。と言う意味です。 それから、城下町とは殿様の居る城の周りの町です。門前町とは寺社仏閣の 周りで開けた町ということです。

CGBRSCVTLHNE
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  • takuranke
  • ベストアンサー率31% (3923/12455)
回答No.5

>要するに昔はホテル街だったという事でしょうか? ちがいます、宿場町の宿場は「やどや」ではないです。 宿場は、駅逓事務を取扱う為に作られた施設で、この駅逓事務の取り扱いがいないところは宿場町とは言われませんでした。 また街道の要所に作られたため利便性があるので、商店や、旅館(旅籠や木賃宿)、遊興施設藻作られるようになりました。

CGBRSCVTLHNE
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回答No.4

大陸から律令制が導入された当初は官道として、現在の高速道路に相当する道幅が広く直接的な道によって中央と地方とが結ばれていました。 中央からの伝令を地方の役人に伝えたり、地方からの租税や兵役を集める上での重要な道であり、現代のサービスエリアに相当する馬を休めたり乗り継ぐための「駅」が設置されていました。 しかし、集落の有無や地形を無視した直線的な、広く長い道を維持するための労役が重くのしかかり、律令制の終焉と共に、道は荒廃し存在も忘れ去られてしまいます。 現在の高速道路の多くが当時の官道のルートに沿っているのは、偶然と言うよりも必然だったのでしょう。 その後は集落間を結ぶ地形に沿った自然発生的な道を中心に街道が整備され、参覲交代制と共に駅としての機能と本陣、脇本陣など宿場としての機能を兼ね備えた宿場町が幕府の支援のもとに設置され、庶民の間で伊勢参りなどの旅行が許されると、旅籠や木賃宿、茶屋など庶民向けの施設と共に発展しました。 当時の街道の多くは後に国道として整備されています 東京にも新宿、原宿、三軒茶屋などの地名が、街道の宿場町の名残りとして残っています。

CGBRSCVTLHNE
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  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.3

 「ホテル街」というと、ホテルがたくさん集まっていて、若干の食道や飲み屋など宿泊者向けの店が集まったような「町の一区画」、というイメージを持つのですが、質問者さんはどういうイメージでしょ?  私と同じイメージなら、ホテル街と○○宿は、別物です。  ○○宿というのは、基本的に、一個の「町」です。  ホテルがメイン。付属物として、そこに米や野菜を納入する農家が付いたり、飲み屋・酒屋があったり、男の遊び場があったり、それをまとめる自警団のようなものや、○○宿を運営する自治組織があったりする、町です。  その土地を領有する殿様の家臣も来ていたりしますが、たいていは、一番大きなホテル(本陣)のオーナーが宿場町の「長」をやって、その下に有力者たちによる議会やカネを集めたり盛り場を管理したりするためのキチンとした行政組織も存在しています。  高札場などもあって、殿様の命令や合議で決まった町の運営方針などを掲示しています。  くどいですが、○○宿は「町の一区画」「特定の場所」ではないんです。それ自体が「ホテル業」を基本的な地場産業とする地方自治体(町)なのです。

CGBRSCVTLHNE
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  • tpg0
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回答No.2

こんにちは。 私は、旧日光街道(旧国道4号線)近くに住んでる者です。 私の住む近くにも「〇〇宿」と言われる所がありますが、昔は宿場町だったそうですから現代風に言えば正にホテル街でしょうね。

CGBRSCVTLHNE
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ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.1

CGBRSCVTLHNE さん、こんばんは。 そうですね。ホテル街なんて30年位前のイメージですが、明治初めまでの大体160年くらい前まで、宿場町だったところだと思います。おそらく、町の通りの両側に元宿屋が軒を連ね、名残りみたいに格式の高い宿屋である本陣を記念館みたいにしていませんか?後は特殊なところで、関所跡があったり、4kmごとに植えた一里塚の木の大木があったりするところです。

CGBRSCVTLHNE
質問者

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