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人生に結果が出る
人生には結果が出る、と思われますか? いろいろ考えていて、気になったので質問させていただきます。 若いころからその分野では権威だった人が、あることで躓いたことにより、自ら命を絶ちました。 (その人は50代で、つまずいてから数か月後に命を絶っています) それについて、ネットの外野の感想の中に、 「それまでは名声をほしいままにしてきた人生だったのだから、最後つまずいても、十分いい人生だっただろう」 というものがありました。 私もそう思います。 その人が躓いたのは、プライベートでではなく、専門としてきたその分野でです。 それまでの実績も否定された、とまではならなかったと思われますが・・その躓きは、その人の名声に大きく傷をつけたと表現しても間違いではないと思われます。 「人生に結果が出た」という言葉が、頭に浮かびました。 それでも私は、人生のうちのほとんどの時間を、周囲に高く評価されて過ごしてきた、それだけでうらやましいと思ってしまいます。 皆さんは、どう思われますか?
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- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
lovemomonga様、こんばんは。 「自ら命を絶つ」とは、尋常ではないと思います。 >「その人が躓いたのは、プライベートでではなく、専門としてきたその分野でです。」 それでも「絶命」は、ちょっと >「それでも私は、人生のうちのほとんどの時間を、周囲に高く評価されて過ごしてきた、それだけでうらやましいと思ってしまいます。」 「周囲に高く評価され、」挙句「躓いた」。それでも羨ましいですか。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
人の生きる目的は、精神的充足量の最大化です。 (意志の強さ×達成度×その感受性×深い認識力×人生の通算) なぜなら、生きる事は意志の「結果」だからです。 では、その「人生の通算の最大化」とは、最後に出るもの でしょうか? それは、日々の充実感の積み重ねです。 それは決して刹那的な快楽主義ではなく、強い意志を展開 する広い認識(長いビジョンを含む)、その結果を感じる 鋭い感性(意味を把握する深い認識を含む)に基づく、 「幸福感」とも言うべきものです。 山の頂点が目的ではなく、一歩一歩の歩みの満足感が目的 である時、死ぬ最期の一瞬まで(最大充足化の)可能性は 尽きる事なく、自殺はこうした生きる本質ではない何かに “生かされた”錯誤の結果に過ぎない。
お礼
お礼が遅くなり失礼しました。 ご回答ありがとうございました。 ご回答を、下記の点にひきつけられてしまいましたが、、 >山の頂点が目的ではなく、一歩一歩の歩みの満足感が目的 である時、 人間を、 山の頂点を目的とする人 一歩一歩の歩みの満足感を目的とする人 に大別できるとしたら 私は、自意識では、後者タイプです。 なので、最後躓いても、人生のほとんどを順風満帆で過ごしてきたこの人の人生を、うらやましいと思ってしまうのです。 前者タイプでは、試練や苦しみは気づきの元であり、貴重な経験だと思いますが、試練や苦しみよりも、順風満帆な人生で過ごすことの方を、求めてしまっています。 でも心のどこかで、 自分は前者タイプを目指さなければならないと思っているようです。 そして、「躓くめぐりあわせがやってきて、そしてそれを乗り越えられなかった」この人の人生を、多分私は否定しています。 前者タイプの人生と後者タイプの人生は、必ず矛盾するものではなく、両方叶えられたらよいと思いますが、小人には、どちらかしか手に入らないようです。 前者タイプの人生を歩むために、後者タイプの人生を絶たされることもあると思います。 自分が、前者タイプの人生(頂点を目指す人生というより、苦しみで成長していく人生)を歩むしかなさそうだと知っても、後者タイプの人生への未練があります。 後者タイプの人生への未練はどうやったら断ち切れるのでしょうか。 お考えをお聞かせいただけたら幸いです。
- stmim
- ベストアンサー率24% (57/236)
人生の結果がでるということは考えていません。 大概の人生は中途半端で終わるものです。 それでいいと思います。 仕事でつまづいて自殺してしまったというのは残念なことですね。 私は別に他人の評価がそれほど欲しいと思わないのでその人の人生がうらやましいとは思わないです。逆にダメだとも思わないです。 人生はひとそれぞれ。自分でいい人生だと思えばいいだけです。
お礼
お礼が遅くなり失礼しました。 とても参考になりました。 ありがとうございました。
- bgm38489
- ベストアンサー率29% (633/2168)
結果を追い求めていくことが人生なのであって、失敗して躓いてもそれでもやり直していくのも人生。 自分の頑張ってきた躓いた時点で結果が出てしまった、ということはないと思います。 この人の場合、躓いたから自殺した、それが結果です。 むしろ、結果(成功)を追い求めていった過程、これこそが人生の結果といえるのではないでしょうか。
お礼
お礼が遅くなり失礼しました。 この人は、人生の途中だったと言えるということですね。 とても参考になりました。 ありがとうございました。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
終わりよければ総て良し、であって、途中がいくら よくても、終わりがお粗末なら、本人は不幸だし、 世間の評価も違ってくるのではないですか。
お礼
お礼が遅れてすみません。 ご回答ありがとうございました。 >途中がいくら よくても、終わりがお粗末なら、本人は不幸だし、 半分同意ですが、半分はまだわからないと思っています。 そう思うのは、私が、 「人生の時間のうち、どれだけ多く、幸せを感じられる時間・時期を過ごせるか」 に重きを置いてしまっているからですね。 なので、最後の数か月は沈んでしまっても、それまでの人生は、順風満帆に過ごせてきた、なので、トータルで見れば、結構満足なのではと思ってしまいます。 しかし一方で、「終わりよければ総て良し」という言葉は、とても深いと思ってもいます。 うまく言葉にできないのですが、、 「人生の時間のうちどれだけ多く幸せな時間を過ごせたか」より、「最終的にどこに辿り着いたか」の方が、重要であると考える気持ちが、心のどこかにあります。 「終わりよければすべてよし」この言葉は、 「最終的にどこに辿り着いたかで、その人のそれまでの人生が決まる」ということを差しているように、私は解釈しています。 ゆえに、 ずっと順風満帆で過ごしてきたが、躓いた、それは、 躓くまでの人生の真の評価が露わになったということだと、思ってしまいます。 そう思っていても、 「幸せを感じられる時間・時期を過ごしてきた」ことを、うらやむ気持ちが消えません。 どう考えたらいいのでしょうか。 アドバイスいただけたら幸いです。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
君がその人生を羨望するのは、君自身がそのような志を持つからだ。 くたばっちまって何年たつか知らないが、そんな有名人ならネットで検索するともはや本人にはあの世からクレームをつけることのできない、生前の事実が見つかるだろう。 その情報は、わざわざ閲覧するものはいなくなるかもしれないが、千年の記憶の墓標として人の歴史が続く限り残る。 やあ、君の死後、幸福な君が天国に行って、雲の上からそんな足どりが君の生きた証だと眺める気分を想像したまえ。 しあわせかい?
お礼
お礼が遅くなり失礼しました。 確かに私はそのような希望をもっています。 実際叶いませんが・・・ 以前、自分の死後に自分のpcの中身をどう他人に見られずに処分するかというテーマについて、「自分の死後のことなんてどうでもいい」 と言っている人がいました。 私はどちらかというとそちらの方かもしれません。 しかし、例のその人は、一目置かれる人生を送ってきた分、自分の躓きについて人々に話のタネにされ続けることは、苦しいかもしれませんね。 とても参考になりました。 ありがとうございました。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
lovemomonga さん、こんばんは。 それでも私は、人生のうちのほとんどの時間を、周囲に高く評価されて過ごしてきた、それだけでうらやましいと思ってしまいます。 皆さんは、どう思われますか? うらやましいとは思いません。人間の欲にはきりがないといわれるし、人生50年というのは100年以上の昔のことです。今では60年、いや80年といわれています。つまり、その位権威として名声をほしいままにしないとつまりませんね。
お礼
お礼が遅くなり失礼しました。 私は、人生のうち、一時でも(この人の場合は、若年から、亡くなるまでの長い間ですが)、名声を得られたら、いい人生だと想像してしまいます。 志が低いのでしょうか・・ 近年亡くなった、世界的に有名な音楽家は、若年から亡くなるまで、その地位と名声は揺らぎませんでした。 この音楽家と、この例の人は、何が違ったのでしょうか。 とても参考になりました。 ありがとうございました。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
人生に結果が出るかもしれませんが、それは50歳戦後ではないでしょう。 早くとも七十代後半、場合によっては九十歳以降に結果が出ると考えるべし、と思います。
お礼
お礼が遅くなり失礼しました。 確かにこの人は、人生の「途中」だったと言えます。 躓いても、そのまま歩み続ければ、名誉挽回もあったかもしれませんね。 命を絶ってしまったから、その可能性はゼロになってしまっただけで・・ とても参考になりました。 ありがとうございました。
お礼
お礼が遅れてすみません。 ご回答ありがとうございました。 私がうらやましいと思ってしまうのは、 多分「人生の中で、よい思いができた」と思ってしまうからです。 つまりは、何かを成し遂げることよりも、よい思いをすることの方を求めているということなのでしょう。 それはいけないのでしょうか。 しかし一方で、何かを成し遂げられるほど、全力で取り組んだ、ことの方に意味を見出してもいるようです。 最後につまづいたこの人の人生を、どこかで否定する気持ちもあるようです。 どこを目指して生きていけばいいのか、迷うところです。