哲学は科学とは違います。
科学ならば、何か仮説を立てて、それを検証できれば、答えは出ます。
そして科学は古い昔に戻ったりしません。
ただ、前に向かって発展して行くだけです。
ところが、ご承知の通り、哲学だったら、今もって2500年前の古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスの問題を今でも、やっています。
たとえば、古代ギリシャで、「存在とは何か?」「私とは何か?」「どうしてあるのであって、ないのではないのか?」「善とは何か?」「徳とは何か?」「正義とは何か?」・・・という問題が問われましたが、依然として今も、それを問題にしています。
ぜんぜん答えがない、というより、いろいろな答えが出たけど、これと言って、それで決まり、というわけでもない。
私は哲学とは、私たちのものの考え方の根底とか前提を疑い、その「信念体系」を別な「信念体系」に変換することにあると思っています。
私たちが常識のように思っていること、当たり前のように思っていること、それが一つの「信念体系」であり、絶対的なものではないということを見いだす、それが哲学の役割だと思っています。
では、今の私たちにとって、ものの考え方の根底に横たわっている「信念体系」がどのようなものか、一つの例としてあげましょう。
今の私たちは人間には「内と外」とか、「内面」があり、私たちの知りたい実在は心の外にあり、そして実在についての知識は心の中にある、と思っています。
そして認識と言ったら、「外の世界」の事象が私の「内」の鏡に写り、それを自我とか主観(主体)によって表象することと思っています。
人間の「外」には物体(物質)からなる世界があり、人間の「内」には自我・主観(主体)・意識・自己意識、そして「内と外」の区別があると、そう思っています。
それは当たり前だと思っています。
そのような世界の「描像・ピクチャー」が出来たのは、17世紀のデカルトが、心と身体を分離し、心を人間の「内」に、身体(物質)を人間の「外」にあると言ってからです。
だから17世紀以前の西欧では、今の私たちのような考えはありませんでした。
古代ギリシャのアリストテレスの「プシュケー論・魂について」という本を読むと、古代ギリシャ人は「魂」を今の私たちのように肉体の「内」にあると考えていなかったことが分かります。
そもそも、古代ギリシャ人には人間の「内と外」という区別がないし、人間が「内面」を持っているという発想がありませんでした。
そして日本の評論家・柄谷行人は「日本近代文学の起源」で、日本人に「内面」があるように思われるようになったのは、明治の言語改革の結果であって、明治以前の日本人には「内面」などなかった、と言っています。
つまり、人間の「内と外」とか、人間の「内面」は、人間ならばいつの時代でもあったのではなく、それができたのはつい最近だ、ということです。
そして20世紀の偉大な哲学者ハイデガーとウィトゲンシュタインは、もはや自我・主観(主体)・意識・自己意識という言葉を使わななくなりました。
人間の「内と外」の区別という考えを放棄したからです。
このように哲学は私たちが自明のように考えているものの考え方と、そのものの考え方を作っている概念装置、近代で言えば、自我・主観(主体)・意識・自己意識があるということを疑い、破壊して、放棄すること、そして新しい「信念体系」に転換すること、それが哲学の役割です。
だからもう私たちは、自我があるとか、主観・客観とか、意識・自己意識があるとか、主体があるとか、そのような考えを放棄して、もう使わないようにしよう、ということです。
また、人間に「内と外」の区別があるとか、私には「内面」があるとか、そういう考えも放棄しようということです。
お礼
ありがとうございました。