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ダーウィンの進化論は偶然?必然?
- 人間は機械を作成し調和と秩序を形成しているという思考と進化論の関係について考える。
- 現在の自然科学では神を廃し目的論を否定しており、進化は偶然の結果とみなされている。
- しかし、進化は偶然ではなく必然であるのか、それとも偶然の中で秩序と調和が形成されるのか疑問がある。
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大昔は進化論に興味を持っていましたが最近すっかりご無沙汰なので、古い知識と断片で失礼します。 進化論とはそもそも”論”とあるように科学の理論と言う程根拠があるものではなく、推論や思想によって成り立っているものだと思います。それでいろいろな宗教観や哲学と結びついたりして時には大きな議論の的になっていたわけですが、最近はDNAによる測定や、遺伝子が他の動物からもウィルスを通じて変化する家庭などが明らかになってきて、推論にしてもずっと科学的なアプローチが行われていると思います。 ダーウィン以前にもラマルクなどの進化論があり、ラマルクは動物の進化がある目的を持ったものだと言う主張をしました。それに対してダーウィンは、必然によって進化していく説を唱えました。いずれにしても、キリスト教的な考え方からすると、人間が猿から進化したなどと言うことはあってはならないのですが、あえて認めるとしても、ラマルクの「目的論」だけは認めるわけにいかないと言う事になりました。神が人間を猿から作ることを意図してやるはずが無いからですが、良くわからないですね。いずれにしてもキリスト教社会の中での進化論は禁句に近かったもののそれでもまだダーウィンの進化論が都合が良かったところがあります。 日本では今西錦司が独自の進化論を打ち立てたのですが、こちらは目的論的です。キリスト教国じゃないのでその辺気兼ねがありません。ものすごく簡単に言うと、ダーウィンの進化論の様に偶然に頼っていたらいくら膨大な時間があっても今の様に進化しきれないだろうと言うことと、ちょっとずつ偶然に変わって行くような悠長なことは許されないだろうと言う事です。例えば、爬虫類が鳥になる仮定で、羽みたいな物を偶然持った個体が出てきたとして、それが広がるにも時間が掛かるし、ろくに飛べもしなければ地面を走るにも邪魔見たいな中途半端な状態は厳しい自然界では許されず、ある時にある種が一気に羽を持って飛べるようになるくらいの変化が必要だと。だから生物にはある方向に進化する仕組みがあらかじめ備わっている。 実は私にはこの科学と哲学と宗教を一緒くたにした議論が分かりづらかった。あらかじめある方向に進化する仕組みって何だと。すごく宗教的で非科学的に思えたのです。 ところが、ある動物に蔓延したウイルスがその動物の遺伝子のコピーを持って全く別の種に感染し、その遺伝子のコピーが移植されることがあることがわかっていて、進化が突然、一気に進む仕組みがありうることがわかっています。 こう言う状況を、「偶然」と呼ぶか「必然」と呼ぶかは、まだ哲学的な話もまじると思いますが、科学的に言えば、どの方向に進化するかを予測することも法則化することもできないでしょう。その意味では「偶然」といったほうが良いでしょう。ただこの「偶然」はダーウィンの言った「偶然」とは全く仕組みの違うものだと思います。
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- KaitoushaA
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偶然です。木の葉蝶は、突然変異で羽が木の葉の様な蝶が生まれ、捕食者に見つかり難くなり、増えました。環境により適応する生物が生き残る確率が上がり、進化することになります。
お礼
KaitoushaAさん おはようございます。 早速の解答に感謝いたします。 確かに、DNA の突然変異というのは、偶然と思います。 ところで、DNA というのは物質です。 生物において、DNA という「物質」は偶然による変異を起こしますが、「自然」という自然淘汰というものは、偶然としますか?必然としますか? その件に関してにKaitoushaAさんの御見解があれば、再回答ください。
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お礼
92128bwsdさん こんにちは。 長文の貴重なご回答に感謝いたします。 現在でも進化は連続的と考える科学者は、中間種となる化石の発掘に躍起になっていますし、グールドは進化における突然変異は大きな変化であり、中間種などなく、ただ、その大きな変化が進化を考えるにあたる、長い時間の間においてあたかも、断絶的な大きな変化がなかったように、見えるに過ぎないと説きます。 また、グットウィンは形態学的に SF に出てくるような、巨大な蜂は飛ぶことが出来ないから、そんな進化はないと説きます。 日本でもブームになりましたが、ドーキンスは社会進化学というのを考えています。 ダーウィンの進化論は、すでに定説化し、特に日本では、否定すると、科学を知っているのかと馬鹿者扱いされることでしょう。 しかし、哲学を学んでいるうちに知ったのですが、「適者生存」という言葉を造った、スペンサーは、明治・大正時代に実証主義哲学として、庶民が好んで、こぞって読まれ、スペンサーは日本における自分の著書の売れ行きに喜び、日本版の著書にメッセージを書いたそうです。庶民も哲学を読んでいました。 この時代は、日本が海外列強に追いつけと、躍起になっている成長期ですから、西洋で生れた実証主義哲学が流行るのもいいと思いますが、現在における日本は、成熟期に達し、過去のような右肩上がりの成長は見込めないと思われます。 そして、成熟期の現在になって振り返ると、日本という国は、果して、独自の国としての哲学を持っているのかと言うと私は、はなはだ疑問です。 新渡戸稲造が現在生きていても「武士道」は書けないと思います。戦後、日本は捨てました。 宗教観も、ほとんどなく、すがりつくのは科学立国日本です。 私は科学を否定しませんが、たまに道徳的に批判的に見て、暴走を抑えるという、行為も必要なのではないかと思います。 教科書に書いてあるから、ダーウィンの進化論は絶対的真理であるではなく。 もう少し、質問を開けておきたかったのですが、お礼を書くのが大変なので、進化論の歴史とポイントをあげてくださった、92128bwsdさんをベストアンサーにいたします。 他の回答者の方々と共、感謝申し上げます。