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宗教の意味
いわゆる「宗教」Religion は、神との契約、という意味なのでしょうか? それでいくと 一神教の絶対神との個人の契約であり、ギリシャ・ローマ教などのいわゆる多神教は「宗教」とは言えないのでしょうか? また仏教も、釈迦は「目覚めた人」の意味であり、お釈迦様は絶対神ではなく、契約もないので、本当の意味では「宗教」ではなくて「哲学」なのではないのでしょうか???? Religionの語源、「宗教」という言葉の正確な意味・解釈が知りたいです。 よろしくお願いいたします。
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ユダヤ・キリスト教のような「創唱宗教」にとって宗教といえば、神との「契約」ですが、日本のような「自然宗教」の場合、宗教は「契約」ではありません。 ユダヤ・キリスト教は神が世界や自然を「創造」したと言っており、人間はその神の被造物ですから、人間や自然が存在するのは、神との「黙契」とみなされています。 ところが日本神道では、神が人間を「創造」したとみなされておらず、神とは自然ですから、人間もまた自然であり、両者は一体のもの、区別できないと考えられています。 区別がないのですから、当然、「契約」なんか必要ではありません。 「契約」ということは神と人間は違うということ、区別があるということで、区別があるから「契約」が必要ということになります。 宗教はすべて「創唱宗教」とは限りません。 日本のような「自然宗教」もあります。 仏教の場合、仏陀という教祖がいて、それが唱えた宗教という意味で「創唱宗教」だと言えますが、日本神道の場合、そのような教祖はいません。 つまり誰が作ったか、分かりません、「おのずからなった」ものです。 「おのずから」とは自然という意味。 それに対てしてユダヤ・キリスト教の神は「創る者」であり、人間は「創られた者」です。 この「創る者」と「創られた者」の二元論は古代ギリシャの質料(ヒューレー)と「イデア」あるいは「形相」の二元論に基づく考えです。 主客二元論。 古代ギリシャ以前にはイオニア自然哲学の自然の一元論がありますが、古代ギリシャはそれを否定したのです。 日本の場合、そのイオニア自然哲学の自然の一元論を否定することなく、温存しました。 丸山真男は「忠誠と反逆」という本の「歴史意識の古層」という章で、日本の存在観は「なる」「生成」なのに対し、ヨーロッパは「作る」「存在」であると言っています。 イオニア自然哲学は植物の生育をモデルに自然の一元論を唱えましたが、ギリシャは物を制作する、という物理的自然をモデルとする二元論になりました。 この考えがユダヤ・キリスト教に受け継がれ、神を「創る者」、人間をその神によって「創られた者」という二元論になったのです。 自然と人為との対立、それが日本の「自然宗教」と西欧の「契約宗教」を分けたのです。 よく日本人はこういう言い方をします、何か仕事をして責任を問われた場合、「そうしたのではなく、そうなっています」と。 「そうなっているのだから、仕方がない、私の責任ではありません」と。 日本人には主体なんて考えはなく、「おのずから成っている」といいます。 「作った」のではなく、「おのずから生成した」と。 作る職人・大工がいたからではなく、「おのずから出来上がった」と。 日本人の「心性」には、依然として、植物の生育をモデルとする存在観が残っています。 日本という国は、ひじょうに古いのです。 あるいはひじょうに古い考え方を「温存」しているのです。
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- 雪中庵(@psytex)
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歴史的に見るならば、それまでのアニミズム宗教の、 「世界の起源」や「死後の世界」といった、理解の外の ものに対する説明や、人力の及ばない事に対する祈りと しての役目に対し、社会組織の発達や分業化において 個人の意識の自己チューさが社会化に障害となってきた がゆえに、個人の意識に社会性を強制する為のモラルと しての役目が求められ、為政者の道具として普及した ために、キリスト教、イスラム教、仏教といった世界 宗教は、ほぼ同時期に広まったのです。
- jing0708
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あくまでも学門的なことでよろしいでしょうか。学部学生のときに教養で宗教学を学びましたが、そこにはこうあります。 ・Religionの語源 ラテン語 religio 古代ローマにおいては感情を意味し、次第に感情を引き起こす行動(冠婚葬祭)、その後儀礼という意味へ変遷した。そのため転じて一般生活とは異なる修行的宗教生活のことを指す。 ・religio自体に対する語源 <ルクレティウス説> ルクレティウス(BC99-55)は共和制ローマの哲学者。彼はreligioをligare(結ぶ)から来るとし、Re(再び)Ligare(結ぶ)という意味であり、神と再び結ばれることを指すと言われる。この説はキリスト教学者が好んで使用し、キリスト教正当化に用いられた。 <キケロ説> キケロ(BC106-43)は共和政ローマの政治家。彼はreligioをrelegere(整理・整頓)から来るとした。厳粛な儀礼においては整理整頓が尊ばれ、また言葉の変遷にある冠婚葬祭などについては当時の土着信仰に基づき整理整頓が為されていたからである。 とあります。ここで覚えておかなければならないのはルクレティウスは様々な自然現象を神の行為であり、恐怖であるというアミニズム的な信仰者で様々な著書を為しているということです。 ここで着目すべきは、彼の著書はキリスト教正当化のために都合の良い部分だけ抜粋され利用されているという歴史です。彼は元々、様々な神々との契約であることを指しているにも関わらず、一神教であるキリスト教がそれを唯一神との契約であると歪曲させています。 要は、語源の説を訴えている人たち自体が元々ギリシャ・ローマ土着の信仰の人ですから、一神教なんていう話になるわけがないんですね。 次に仏教ですが、契約してますよ。 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)ってありますよね、あれの南無とは帰依するという契約を示す文言です。つまり 南無阿弥陀仏なら阿弥陀仏に帰依します。 南無妙法蓮華経なら蓮華経に帰依します。 という具合です。 まぁ宗教は本来哲学ですから。現世利益を求めて祈ればいいってもんじゃないですからね。その点をあまり厳密に区別する意味はないと思います。
いわゆる「宗教」Religion は、神との契約、という意味なのでしょうか?」←全く違います・・ 理由は大きいが 此処で それを言う必要が無いのも判るので 敢えて言わない・・