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日本の宗教
日本は一応仏教国とされていますが、各宗教の総合計が、総人口の二倍位あるといわれているし、四月六日の、お釈迦様の誕生日は問題とされナあいけれども、十二月二十五日のイエス・キリスト様の誕生には意味もなく騒ぐ、意味がないからいいと言うものではない、また、子供が生まれると神社に行くけれど、死ぬとほとんど仏式・・・。 本当に、一つの宗教を厚く信仰しているのであれば、絶対に、ほかの宗教の儀式を生活の一部として取り入れないと思う、信仰とはそんなにいい加減なものではない。 仏教が日本人の人生観にマッチしたものであるなら、偉大な指導者がいれば、現在のように「葬式仏教」とは言われないで済む筈です。 日本人に、本当の意味での信仰心を持つことはできるのでしょうか。
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日本人だからといって、同じ人間である限り、正しい信仰心を持つことができると私は思います。 私は仏法者として、 新年は神社に初詣なんか行かずに、同志と祝います。結婚も絶対に仏前です!当たり前ですよね。新しい人生のスタートを誓うのですから。信じてないモノに誓うなんて、これほどアホらしい事はありません。死んだときも、同志に送られたいです。かなり先の話ですけど(笑) >一つの宗教を厚く信仰しているのであれば、絶対に、 >ほかの宗教の儀式を生活の一部として取り入れないと >思う、信仰とはそんなにいい加減なものではない。 私もこの意見には全くもって賛同します。 ただ、宗教は長い歴史によって文化と融合してる面があることも否めません。 例えば、 一十百千万億などの10進法(漢字あってるかな?)は仏法からきたものですし、他にもたっくさんあります。 仏法に限らず、キリスト教も儒教も。 なので、生活の一部には取り入れないというのは、ちょっと不可能かと。知らず知らず取り入れてます。 それに、日本人って「イベント好き」なので、クリスマスくらい楽しく騒いでもいいんじゃないですか? ・・・ダメ?(笑) 私は何があろうと仏法を信じています。正しいと確信しているからです。 だからといって、他の宗教は一切ダメなんてそんなことは思いません。人を不幸にするエセ宗教や、カルトは絶対に許しませんが。 宗教の目的は、個人の幸せ、ひいては世界の平和です。 宗教が違うからといっていがみあうのではなく、互いを認めあって、それぞれのやり方で平和を目指していけばいいんだと私は思います。 だから、私はキング牧師を尊敬してますし、マザーテレサも尊敬してます。決して簡単に真似などできない平和行動を展開された方々だからです。 クリスマス・ソングも、ミサの曲も、美しいものは美しい。 ある愚かな僧が、「ベートーベンの第九は邪宗だ!」なんてほざいたことがありましたが、くだらないです。 ちょっと話がそれましたが、 日本人の宗教観は確かに貧しいですが、ただ一つの信仰する宗教のために殉教した方だっています。 第二次世界大戦当時、国家は天照大神をかかげ、諸々の宗教団体に神札を受けるよう強要しました。 「絶対に受けない」と答えたために、3人の宗教団体のトップが投獄されました。 どういった経緯がわかりませんが、後、2人は釈放。 最後まで神札を拒否し、戦争を否定したために殉教されたのが、創価学会初代会長、牧口常三郎氏ただ一人です。 日本での評価はいざ知らず、創価学会は世界から賞賛を浴びています。 これは、調べればすぐ分かることでしょう。 初代会長の精神を受け継ぐ創価学会の方々は、日本人ですが、真の信仰心を持っておられますよ。
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お礼を頂き、ありがとうございます。 豊かで平和な生活の中にも苦悩は当然存在しますが、その苦悩というのはやはり生命の危機という事態での苦悩とはかなり質が違うでしょう。これの解決には現在では多くは心理カウンセラーや各種のセラピーの方が信頼を集めているように思います。個人の苦悩というのはそのレベルで救われるものも多いのではないでしょうか。自分の過失で子供を殺してしまった、とか、死んでも償えないという重荷を背負っている人もいるでしょうが、そのような救い用のない苦悩を抱えた人は少数派でしょう。 また、宗教はいろいろあるものを比較検討して一番自分が納得したものを信心する、などという理性的な判断とは別の所に入り口があると思います。各宗教のそれぞれの信者は、のちに別の宗教と出合っても、こっちのほうがいいから乗り換えた!という人はほとんどいません。お前の神は間違っている、などとして、殺し合い(戦争)をしてまでも相手をただそうとします。これまでの人間の歴史で最も多くその命を奪ったのは銃弾でも核兵器でもなく、宗教だ、というのはよくいわれる話です。そのくらい信仰心というものはかたくなであって、他の宗教の良いとこ取りなどはありえません。 日本に国家普遍的な宗教が実質的に存在しない理由は先程述べさせて頂きましたが、その日本においても熱心な信者は他の宗教の良いとこ取りなどはしていません。クリスマスや初詣でなどは宗教儀礼ではなく、年中行事、イベント、社交辞令、の類いとして認識しているから受け入れられるのです。それが不謹慎だ、というのはあまりにも杓子定規な見方だと思います。信仰者にしてみれば他の宗教を取り入れたつもりはないのですし、信者でないものがある種の行事だけを行う事について怒るべきは信者でありますが、彼等もまがい物のこのイベントを容認しているようです。あるいは信者でないものまで参加してくれている、と喜んでさえおられるのかもしれません。 最後に、宗教は「求めるものに応じるもの」ではなく、未知の不安からの救済が目的だと思います。つまりは「教え」ですね。未知の不安というのは以前は「死」を筆頭にたくさんありましたが、学問の進歩に伴い、多くが解明され、現代人の不安は以前とは異質なものになってきました。生きる意味を知りたければ哲学があり、生命の不思議をしりたければ科学があります。医学の進歩も宗教の負担を減らしています。 そういう状況ですから、昔のように盲目的に宗教を信じる事は理性的にはかなり難しい時代であると言えます。摩訶不思議な現象も難病も、全部宗教が解決できた時代とは違うのですし、悩みや苦しみからの救済も宗教の独占市場ではなくなっているわけです。悩みを抱えている人が多いからといって、それは直接宗教に結びつくものではないのです。 世襲を重ねて生まれる前から身体に染み付いた宗教を持たずにここまできた日本人に、今後敬虔な信仰心が育つ、というのはかなり可能性が低いのではないでしょうか。 また、画一的な宗教は edamasaoさん御自身が否定的ですので、諸派分立という状況を考えてみますが、信仰心の異なる者同士はけっして融和できません。つまりは精神的対立を生むことになります。住み分けがはっきりしてくれば、諸外国の歴史を見るまでもなく、いがみあい、ののしりあい、なぐりあい、ころしあい、とエスカレートする傾向にあるのです。 そう考えれば、個別の問題は別として、一般的には「日本人に、本当の意味での信仰心を持つこと」は必要の無い事、と極論できるのかもしれません。現状は案外望ましい状態なのではないでしょうか。
お礼
再度の回答、どうもありがとうございます。 ところで、悩み、苦悩についてですが、確かに、客観的に見れば悩み、苦悩について、レベルの差はあるでしょう。しかし、各人の内面において、それが、殺人を犯したことの苦悩である場合と、落ちていた一万円札を拾って使ってしまったことに対する苦悩とを単純に比較することはできません、各人の人格が違うように、その心に受ける 傷の程度も違うのです。 そういった場合、その苦悩から病的状態に至ったなら、精神科的治療も有効かもしれません、しかし、病的状態に至る前に、問題に至った場合の対処の仕方を知ってることも有効かもしれません。 また、確かに、近代自然科学の発達により、多くの自然現象が解明されてきたことは事実ですけれど、それは、ほんの一部分にすぎません、いや、その一部分が解明されたことによって、さらに多くの不明な面が現れてくるのです。問題解決に至るどころか、ますますわからなくなっていくのです。さらには派生した問題をも生じてきます。例えば、医学の進歩によって寿命が延びると、新たに、高齢者問題を生み、生命維持装置の発達により、植物状態でも生きられるようになりましたが、そこに、尊厳死という問題が生じるのです、また、臓器移植が可能となったことにより人の死の問題が、今までと違った意味で問題とされるようになったのです。 こういった問題は、自然科学の面でのことばかりではなく、例えば哲学においても、確かに哲学は真理を探究する学問でありますから、人の生きるという意味についてその哲学が存在した社会でのヒントは与えてくれるでしょう。しかし、時代が異なれば、新たな哲学が必要となるでしょう、そういった点から考えると、宗教も時代により、社会情勢によりその考え方を変化させますが、ほんしつてきな面では変わらないので、いつの時代にも適応でき、その存在の意味はいささかも失れてはいません。 私は、宗教を絶対視するものではありません、宗教を信じれば、何でもできるということで、宗教を必要とするというのではなく、人生における心の支えとして必要なのではないかと思うのです。 日本におけるように、仏教国であって、仏教国でない、葬式のためだけの仏教という、いわば、無宗教状態だから、イベントとしてならば、他の宗教の祝い事でも、無批判に取り入れてもいいと考えるのであり、たとえば、西欧のキリスト教国で、イベントとしてであれ、仏教の祝い事である「花祭り」をいわい、クリスマスには無関心という状況を考えることができるでしょうか、その逆の状態が日本では行われているわけで、そういった心の支えを持たない無宗教状態である場合、避けることのできない危機的状態に怠った場合、いったいどうなるのか危惧するのです。
- tips
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edamasaoさん、こんにちは。 >日本人に、本当の意味での信仰心を持つことはできるのでしょうか。 自分は、むずかしいとおもいます。 なぜなら、クリスマスや初詣や子供がうまれたお祝い(報告?)などは、 生活の一部というかイベントのひとつになっている傾向にあるからです。 もちろん、そのご自分の信仰されている宗教の行事しか参加しないし、 ほかの信仰のものは、一切受け入れないという方もいらっしゃるとおもいますが 日本の宗教信仰総人口に比べたら、多い数ではないはずです。 外国の映画などを見ておもうのは、外国は宗教が自分の生まれたときに もうすでに確立されたものがあってそれとともに生活して育ってきています。 日本のように、クリスマスも祝うし(祝っているという感覚ではないとしても) 神社にも行く、お葬式は仏式で、、という現在のような状況だと 子供のころからよっぽと、ほかの宗教やその他の情報から隔離された 環境にいるか、まわりにあるひとつの宗教だけを熱心に信仰されている方が いるとか、そういう状況でないと難しいのではとおもいます。
お礼
私の質問に対し、早速の回答をありがとうございます。 ところで、日本には多くの宗教が存在します、其の中で、誰が、どの宗教を信じてもよいことになっています。 そのなかで、仏教を信じるもの(葬式を仏式で行う者)が多数を占めるということで、一応、仏教国ということになっているとおもいます。 そして、tipsさんもおっしゃるように、外国では、生まれたときから自分の信仰することになる宗教が確立されているわけですから、迷わず其の宗教を信仰することになります。 しかし、日本の場合、仏教は多くの人にとって葬式(イベント)のためだけの宗教でしかないので、仏教に対する帰属意識がないから、安易にどこの宗教のイベントでも取り入れてしまうのではないのでしょうか。 そうなってしまったのは、日本の宗教界に、本当の意味での、魅力ある指導者がいなかったからではないのでしょうか。 仏教国であって、仏教国でない、無宗教国日本。 人は、悩み、苦悩しながら,問題を一つ一つ解決していきながら成長していきます、其の問題を解決する手段として、宗教はあるのですが、其の問題を解決できなければ、人々の心はますます荒廃していくのではないのでしょうか。
- PEPSI
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お釈迦様の誕生日は4月8日ですね。 そしてクリスマスは厳密にはキリストの誕生日ではないそうです。 >本当に、一つの宗教を厚く信仰しているのであれば、絶対に、ほかの宗教の儀式を生活の一部として取り入れないと思う、信仰とはそんなにいい加減なものではない。 ということですが今日本に来ている仏教はインドから中国を渡ってきた物なので 「道教」の伝えがかなり多く含まれています。 今日本で行われている葬儀も、道教的な考え方である「祖先信仰」と言う考え方から行われています。 インドの方では葬式にはそんなに力を入れたりはしません。 僕個人の見解としては日本人の宗教観はいいと思います。 考え方・思想が宗教に縛られている(失礼な言い方ごめんなさい)人が諸外国に比べてかなり少ないと思います。 その上での争いも他の高度経済成長を遂げた国の中ではかなり低いと思われます。 クリスマスもすごい経済効果を生むイベントですからなくなったら日本経済が困ると思います。 宗教に関しては調べるとかなり面白いのでいろいろな本を読むことをおすすめしますよ。 そして、その情報に流されず、いろいろな本を読んで下さい。
お礼
私の質問に対して、回答をしていただき感謝します。 確かに、宗教も、いろいろな地域に流れていけば、行った先の宗教との接触を避けられない以上、誕生した当時のままでいることはないでしょう、また、受入先の人々の生活習慣が違うのですから。 しかし、私は、宗教とは、人間が悩み,苦悩の末、限界を感じたとき助けを求める拠り所となるものであると考えますから、そこに、経済成長にメリットがあるとか、経済効果があるからと言うこことは別次元であると考えます、いな、仏教に関して言えば、むしろ、物質的欲望を無くすことを求めているはずです、本来、仏教を含めて、東洋の宗教は、精神面を強調し、西洋のように合理主義的な面がなく、キリスト教社会のように自然を支配征服すると言う考え方を持たず、自然を自己といったいのものとして理解するから、西洋のように、産業革命は起こらず、経済は発達しなかったのです。 そういった意味で、日本が過去に経済成長を成し遂げたのは、PEPSIさんの言うように、日本人に宗教に対して無関心だったからと言えるでしょう。 しかし、人間は悩める動物であるがゆえに、危機に直面したとき、支えとなるものがない場合、自己の平安を保つことはできないでしょう、そして、宗教に対して無感心だから、ある宗教の本質的意味も理解せず、無批判的に何でも流行として取り入れて満足しているのです。 私は、宗教を絶対視するものではありませんが、宗教が、人間の生き方に関わるものであるから、安易に考えることに疑問を感じるのです。 最後に、お礼文のつもりで書いたのですが、批判的なものになってしまい、どうかお許しください。
1.まず、宗教が混交しているのは日本に限りません。 中国に行けば、孔子と老子と仏陀が同じところに祭られているし、北欧に行けば教会に実はケルト系の聖遺物が飾ってあったりします。 しかし、これらの混交は、ある程度は曲りなりにも一つの教義で統一的にまとめられてはいて、日本人の<使い分け>とはレベルが違うと言えましょう。 もっとも、他の国にしても、ある程度は<使い分け>をしてはいるのですが。その辺は、程度問題です。 とはいえ、日本は突出しているとも言えるかもしれません。 2.しかし、そうだとしても、神仏習合とクリスマスを同じレベルで語るのは問題でしょう。 神仏習合は千年の歴史を誇り、中世には儒教も含めて、ひとつの思想として日本では確立していたといえます。それは、梵天も毘沙門天も元々はバラモン教の神だったのと同じことです。 そして、仏教の受容は、目新しさからという面もありましたが、相当に真摯なものがあり、決して信仰がなかったわけではありません。やや専門的な言い方をすれば、共同体原理に立脚する神道が、経済の発達による階級格差を隠蔽できなくなったとき、普遍宗教としての仏教が内発的に求められた、ということです。 しかし、キリスト教に関しては話が別でしょう(もちろん、真剣にキリスト教を信仰している方の話は除きます)。そこには、まったく信仰という要素がかけています。これを神仏習合と同次元で語る訳にはいかないでしょう。 3.何か、書きかけなんですが、時間が来たので、中核的なことは書いたつもりなので、この辺で失礼します。
お礼
私の質問に対して大変わかり易い回答をしてくださりありがとうございます。大変参考になりました。 私も、ある宗教が、他の宗教の一面を取り入れることが、社会的必要性がある場合においてなら納得することもできるのですが、今のように、無批判的に,流行として、神聖であるべき宗教の、ある一面を取り入れることに疑問を感じ、そういた人々の行動に不快感を持つのです。
- aminouchi
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信仰というものは頭でするものではありません。それは日常的な行為として現れるものです。 そして、意外かもしれませんが、ほとんどの日本人はある宗教の信者であって、「無宗教」ではありません。その宗教はこれが教義であるとか、これが守らねばならない戒律であるとかのうるさい要素を持っておらず、かつまた、他の宗教行事などを否定することもありません。従ってその信仰心は無意識的なものになりがちで日本人は無宗教であるとかedamasaoさんのように「本当の信仰心を持っていない」というような誤解を生み出します。 あなたは他人が卑劣な行為をすると「汚い」と言いませんか? 外見が汚れている人は内面も汚れているのではないかと思ったりしませんか? 自分にとって重要な場面に臨もうとするときには身体を洗いませんか? この宗教においては「汚いこと=悪」であり「きれいなこと、清浄であること=善」なのです。そして人はきれいな身を保つか、もし汚れた時はその汚れをすみやかに洗い落とすことをその宗教は求めます。外見ばかりでなく、心情のきれいさや潔さ(いさぎよさ)を求めるものでもあります。これは日本人の原宗教であっておそらく弥生時代から続いてきています。仏教や儒教(これにも宗教的側面があり、今は仏教習俗の中に隠れています)、キリスト教などの外来宗教はすべてこの上にのっています。 ここまで書いてくればお分かりのように、ほとんどの日本人が持っている宗教とは「神道」とでもいうべきものです。ただ、本当にこの宗教は他派を排斥せず受け入れて共存してきました。 そして逆に言いますと、厳格に自派宗教の習俗だけを守り、他派のものは受け入れないという堅い態度の宗教はどんどん分裂していくか、それを守るために締め付けが厳しくなります。世界三大宗教といわれる、仏教・キリスト教・イスラム教のいずれも、戒律を定め日常を厳しく律しているにもかかわらず分派は数多く存在します。それは理屈(教義)の面でも、日常の宗教行為においても自分と違うものを認めないという態度からきています。それを守るのが信仰だと思っているからです。 長くなってきたのでこの辺でやめますが、一般的に宗教について誤解が多いようですので書かせていただきました。
お礼
私の質問に対する、早速の回答をありがとうございます。 大変参考になりました。 たころで、宗教と言うものについて人それぞれ解釈の仕方は異なると思いますが、私が宗教と考えているところのものは、人が生きていくうえにおいて避けることのできない悩み、苦悩を解決するため手段としての教えであると考えています。 確かに,神道は日本古来の宗教であり、今なお多くの人々の心の支えとなっている宗教であると言えるでしょう。 しかし、aminouchiさんもおっしゃるように、今の多くの日本人が、神道を意識して信仰しているものではなく、無意識のうちに習俗、作法として残していると言うことは、外来の儒教の習俗作法が、いまだに日本の社会に残っているのと同じで、だから日本は儒教の国であるといえないのと同じであると思います。 日本が仏教の国であるといわれるのは、仏教に習俗作法や、無意識的にあるもの以外に何かを求めているからではないのでしょうか。 人間は、全て人格が違うように、其の求める方法も違って然るべきで、それが各宗教の差となって現れるので,それは本質的なものであり、其の違いを無視することは意味のないことであり、宗教の目的が人間救済であるというてんで同じであるだけにいっそう其の差は求められてしかるべきである。でありますから、私は、他の宗教の儀式を意識的に取り入れることに疑問を感じるのです。
それぞれの宗教に熱狂的な信者がいる事は edamasaoさんも御存知だと思います。新興宗教についても同様に熱心な方が多くおられます。命に代えても、とか、子々孫々に渡り、という取り組み方をしておられる方も少なくないでしょう。オウムの事件でもその点は見て取れたはずだと思いますが。 節操のない宗教の取込み方をしているのは、これは商業関連の意図的な仕掛けの成果(?)で、そもそも信仰心から発生したものではありません。 日本人の大多数は無宗教、というのが実態ですから、作法として、一般常識として、つまりは対外的、対社会的な責任を果たす為に宗教儀礼を踏襲しているに過ぎません。 なぜに無宗教でいられるのか、という点については、平均レベルが幸せだから、ということでしょう。辛い事から信心によって救われた、という経験を持つ人はその後もずっと信心深く、子や孫にも受け継がせ、代々その宗教に忠実です。 しかし、多くの日本人は人並みに幸せ、という気分の時に他国の宗教に接します。これはもう知識として受け入れてしまうわけです。救済を求めて、という切羽詰まったものではありません。こんな考え方もある、あんな考え方もある、という受け止め方では冷静すぎて、学究的な興味は湧いても、無条件の信仰には至りません。 島国である、という地理的な特性もあり、諸外国と比べて日本の歴史は平和だったわけです。いわば内輪もめみたいな事ばかりやっていて、とても受け入れられないような文化を持つ他民族から攻め立てられたり虐殺されたり、といった経験がない為に、民族の存亡にかかわるような危機感というものを知らずに来たのです。ですから、祖先に信心によって救われた、という経験者が圧倒的に少なく、その結果、伝承されてもいないのです。元冦などで、日本が一度他民族に侵略され支配される、という経験をしていれば、現在の事情は随分違うと思いますよ。 それなりに現状を受け入れて満足している人々の所に偉大なる指導者が現われても、すがってついていく人は多数派ではないでしょう。困窮があるから救済が意味を持ちます。敬虔な信仰心を持つには、今の日本人は豊かすぎる、という事だと思います。
お礼
私の質問に対する早速の回答をありがとうごっざいます。大変参考になりました。 確かに、vitamin-powerさんのおっしゃるとうり、ある民族、あるいは国家なりが、危機に怠った場合,より強く信仰心を持つことは事実であるかもしれません。しかし、人は平和な社会であっても、物質的に豊かであっても、いや、豊かであるほど、身近に起こる出来事に対して悩み、そして苦悩するのではないのでしょうか。 そして、自分の力に限界を感じたとき、超越的なものに救いを求める、其の求めに応じるものが宗教であります。 でありますから、人それぞれ人格が違うように、人それぞれ求めるところのものも違います。 宗教は、其の目的とするところは全て同じですから、人は目的を達成するための手段の違いによって、自分に適した宗教を選ぶのですが、其の手段の違いは本質的なものですから,一つの宗教を信仰する者が、他の宗教の手段を取り入れることは、それが意味のないものとしてであれ、私には違和感を感じるのです。
お礼
私の質問に対して、早速回答をしていたきありがとうございます。 私の思うところと、大体同じ方がおられることで、少しほっとしました。 しかし、一点だけ、「イベントとしてならクリスマスを祝ってもいい」と考えることには賛成しかねます。なぜなら、例えば、欧米のキリスト教国で仏教の開祖である仏陀の誕生日を「花祭り」として、国中で、イベントとして祝うでしょうか。私は、多分、キリストに対して厚い信仰心があれば祝はないと思います。其の逆をやっている日本人は、自らの軽薄さを露呈していることになるからです。