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たとえ1億光年離れていようと同じ時間は存在する
今いる場所と 1億光年離れた場所とでは光速で 一億年の時間差があるので 時間を共有することは不可能と考えられています。 しかし それは光速が有限であるために観測などによる方法で物理的に同一の時間を共有することはできない ということであって、2つの場所には今現在という共通の時間が厳然として存在すると考えるべきではありませんか。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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物理の博士に逆質問ですが、反物質を創成する世界では、逆行する時間に、現在の時間との接点はありえますか? 貴方が接点はないと答えるなら、反物質は存在しないと答えるのと同じその回答の理性的見解をお答えください。 有ると答えるなら、反物質の存在を今スグ証明してください。 貴方に、 心からのV字開脚を私に明かす真心があるなら。 貴方のその理性を私が代弁しましょう。 これは、貴方の神を私が代筆すると言う禁則です。
- kohichiro
- ベストアンサー率21% (306/1447)
> それは光速が有限であるために観測などによる方法で物理的に同一の時間を共有することはできない そのとおりです。 >ということであって、2つの場所には今現在という共通の時間が厳然として存在すると考えるべきではありませんか。 だから、どうなんだ、といわれるでしょうね。小説にでもしますか。 確認できないことを「考えるべき」といっても、量子力学ならいざしらず、そんな遠くの出来事など何も意味しないし、考えるならせいぜい衛星を飛ばして通信できる範囲でのことに絞るべきでしょう。それとも一億光年先と同時交信する技術が考えられますか?テレパシーとか?
お礼
物理的時間と観念の時間は異なるが、いづれも対等な時間として存在するという事実を認識することは必要であるということです。
- koosaka
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再度、補足に回答します。 「今という言葉が存在し、皆が今が何たるかを理解もしていて、このように人類が共通に理解しているのだから今は客観的な物理量であると考えても良いのではありませんか」 ・・・と、仰いますが、今は客観的な物理量? 物理量ならば、長さや面積や重さを持ちますが、「今」は瞬間ですから、長さや面積も重さも持ちません。 時間は量でなく、質です。 そして「今」という言葉が存在するのは、人間がいて、その人間主体が「今」と言うからで、もし、人間がいなかったら、「今」もありません。 だから中島義道は、「今」は時間ではない、と言ったのです。 つまり、ニュートンの言うように、時間が人間とは独立に客観的に存在するならば、そこには「今」は存在しえない、と言うことです。 ところがあなたは「今が客観的な物理量ならば、長さや面責、温度などと同じで、人間がいても、いなくても、今は存在すると考えるべきではありませんか」と仰いますが、考えるべきではありません。 「今」は、あなたがご自分で言っているように、「皆が今が何たるか理解していて、人類が共通に理解しているもの」、つまり人間がいてこそ「今」があるので、人間が、人類が、いなかったら「今」と言うのは存在しません。 あなたは私の言った「そうすると今というものは人間がいて、その主体から見て今ですからニュートンの、この時間の考え方には今というものは存在しないことになります」を引用して、「このような考え方は人間原理といって現代では通用しない考え方とみなされつつあります」と言います。 たぶん、あなたは時間をニュートンのように人間とは独立に客観的に存在し、数学の数列のように、時間は一方向・不可逆・規則的・直線的に存在する、絶対時間がある、と言うのを信じているのでしょう。 でも、それは17世紀の「科学革命」で作られた考えで、それ以前は時間は循環していて、同じところに戻ってくると考えられていました。 また、古代ギリシャでは時間は、今しか存在せず、その今が永遠に繰り返していると考えられていました。 また、聖アウグスティヌスは「告白」の中で、過去の現在、未来の現在、現在の現在があり、時間はすべて現在である、と言いました。過去は過ぎ去ったのでどこにも存在しない、未来はまだやって来ないのだからどこにも存在しない、存在するとしたら現在だけである、と言いました。 ニュートンは数学者で自然学者で、そのために数学をモデルに新しい時間の概念を作りました。 数学は理念的形象で、数は実在ではなく、理念です。理念だから、人間とは独立に客観的かに存在します。 でも、それが現実に存在するかと言ったら、実在ではなく、理念的に存在するだけです。 あなたはそのニュートンの数学をモデルとした時間が存在し、ビッグ・バン宇宙論で136億年まえに宇宙が存在すると考え、時間もそのビッグ・バンの時代から存在すると考え、人間が誕生する前から時間は存在すると考えているようですが、それは数学というものが理念的に存在することを実際に存在するものと混同するものです。 「このような考え方は人間原理と言って現代では通用しなくなりつつあります」と言うような権威的なものの言い方をしても無駄です。 現代の科学・物理学は数学が理念なのに、それを実在と考えて、宇宙が136億年まえに存在した、時間も人間が誕生する前から存在したと言っていますが、それは理念的形象で実在ではない数学を自然に適用して言っているものにすぎません。 そして「今」は数学の数とは違って、理念ではなく、人間の主体がそれを「今」と言うことに基づいています。 人間が移動し、変化しても、「今」「は「今」で、何ら変わりません。 だから古代ギリシャ人が時間は「今」しか存在しない、「今」が永遠に繰り返す、と言ったのも理解できます。 また、聖アウグスティヌスが時間はすべて現在である、過去は存在しない、未来は存在しない、と言ったのも良く理解できます。 つまり「今」と言うのは時間ではなく、プレゼンス・現前だということです。 現前とは具体的には知覚です。 私がそれを「見ている」と言うこと、私が「臨在」すること、その場に私が「立ち会っている」ことです。 だから私がいるところ「今」もあります。 私がいる限り、「今」はいつでも「今」であり、「今」がずっと続きます。 時間とは違います。「今」は時間には含まれません。 なぜならば、時間はベルグソンの言うように「純粋持続」であり、質的な「差異」だからです。時間は量でも、物理量でもありません。 ベルグソンは、それは質的な時間を量的な時間に還元するものだと言って、批判しています。 あなたは「時間が存在していて、今が存在しないと考えたのでは尚の事、変な話である」と言いますが、そのあなたの考えこそが、「変な話」です。 時間が流れだという先入観があります。 それは時間を「水の流れ」をイメージしているからですが、水の流れなら、始まりがあって、終わりがあることを知りえますが、時間の場合、始まりがあったと思ったらそれが消えて、終わりがあるのですから、始まりがあって終わりがあるとは言えません。 水の流れなら、始まりと終わりの間を測定できますが、時間の場合、時間の長さを測定したくても、始まりがある時点に物差しを当てても、まだ終わりがないので測定できず、今度は終わりに物差しを当てて、始まりとの間を測定しようとしても、もう始まりはありませんから測定できません。 つまり、時間は流れではない、と言うこと。 川の流れが流れとして私たちに認識できるのは対岸の不動の岸辺があるからで、その不動の岸辺を基準として、川を眺めるからで、もし、太平洋の真ん中だったら、不動の基準がないので、流れを流れとして認識できません。 ベルグソンにも、フッサールにも、時間は流れだという根強い先入観がありました。 それは間違っていると、私は考えています。
そりゃ現在は現在です。 ただ、それを知るのに一億年かかる距離に両者があるって事です。 それだけの話…。
お礼
>そりゃ現在は現在です。 実はそこが重要なんです。 実用的時間と原理的時間の区別がつかない人間が多いのです。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
「距離がある物は昔の姿」というのは、空間の遅延 作用と言い、ごく一般的な素朴唯物論の範囲です。 既に百年前の相対性理論において、「運動する物体の 時間は遅れる(所属する時空がズレる)」「重力場に おいても同様に時間が遅れる」という指摘がなされ、 今では上空の人工衛星と地上との間での原子時計の 時間のズレを計算して補正するなど、ごく一般的に 実用化されています。
お礼
相手を観測できなければ相手は存在しないというものではないでしょう。 我々が観測できようができまいが相手には相手の時間があるのではないですか。
- koosaka
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補足します。 「今」というのは、私という主体がいて、初めて「今」と言うことができます。 つまり「今」というのは私がそれをプレゼンス・現前するものと考えるから「今」なので、もし、私とか、人間がいないと、「今」という主体が無くなるので、「今」は無くなります。 ニュートンのように時間が人間とは独立に、客観的に存在すると考える人には「今」というのはありません。 ニュートンは時間は連続していると考えているので、それに反し「今」というのは不連続と言っており、考え方が矛盾します。 だから、中島義道のように「今」というのは、時間ではない、という人もいます。 アリストテレスは「自然学」の中で、時間とは運動を分割して数えることである、と言っています。 ということはアリストテレスは時間を「今」の連続と考えていることになります。 でも、ユークリッド原論によれば、点とか瞬間は、長さも広がりも持たないと定義しており、そうなると「今」が連続しても時間にはならないことになり、アリストテレスは間違っていることになります。 ただ、数学的・理念的に考えると、時間・空間は理念的な形象であり、実在ではないと考えれば、時間は瞬間の連続、「今」の連続ということになり、「今」は時間に属することになります。 いったい「今」というのは時間なのか、時間ではないのか、どっちなのか? あなたの質問を読むと、時間はニュートンのように人間とは独立に客観的に存在すると考えているように見えます。 そうすると、「今」というものは人間がいて、その主体から見て「今」ですから、ニュートンの時間の考え方には「今」というのは存在しないことになります。 なぜなら、ニュートンは時間は、人間など存在しなくても、時間は人間とは独立に、客観的に絶対的に存在すると言っているのですから。 もし、あなたが時間をニュートンのように考えているとしたら、「今現在」という瞬間は存在しえないことになり、あなたの質問はおかしなことになります。
お礼
>ニュートンのように時間が人間とは独立に、客観的に存在すると考える人には「今」というのはありません。 「今」という言葉が存在し、皆が「今」が何たるか理解もしている。 このように人類が共通に理解しているのであるから、「今」は客観的な物理量であると考えて良いのではありませんか。 「今」が客観的な物理量であるならば、長さや面積、温度などと同じく人間がいてもいなくても「今」は存在すると考えるべきではありませんか。 >そうすると、「今」というものは人間がいて、その主体から見て「今」ですから、ニュートンの時間の考え方には「今」というのは存在しないことになります。 このような考え方は人間原理といって現代では通用しない考え方とみなされつつあります。 人間あるいは人間もどきがこの地球上に出てきたのはせいぜい100万年程度前と言われていますが、それ以前にも宇宙は存在していたわけで、宇宙が存在しているのであれば時間も存在していなければなりません。 ビッグバン宇宙論では137億年前から宇宙は存在していたことになるし、私などは無限の昔から存在していたと考えています。 時間が存在していて「今」が存在しないと考えたのでは尚の事変な話である。 ただ時間が流れなのか、流れではないのかという問題は時間の存在とは別の問題であると思っています。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
物理的に同一の時間を共有することはできない ということであって、宗教的には2つの場所には今現在という共通の時間が厳然として存在すると考えることも許されます。アーメン。
お礼
この問題 宗教とは一切関わり合いはございません。
- koosaka
- ベストアンサー率43% (78/179)
その前に、時間がそもそも実在なのか? という問題があります。 現代の科学・物理学では、時間は実在する、と考える傾向がありますが、時間は実在ではなく、関係だと考える哲学者もいます。 かつて17世紀にライプニッツとニュートン(この場合はニュートンの代理人・クラークでしたが)の両者で、時間・空間が実在するか、それとも実在しないか、関係なのかで争われたことがあります。 ライプニッツ全集第9巻に「ライプニッツ・クラーク往復書簡集」というのがあります。 ニュートンは人間とは独立に、客観的な絶対時間・絶対空間があり、時間は物体がなくても、数学の数列ように規則的・一方向・不可逆・直線的に流れると言いました。 それに対し、ライプニッツは時間は物体があって、他の物体があり、その関係として存在するので、物体がなかったら時間・空間も存在しないと言いました。 この問題は、世界を神が創造したとして、時間・空間も一緒に創造したのか、それとも神はすでにある時間・空間という「容れ物」の中に世界を創造したのか、という問題でした。 ライプニッツは神は時間・空間も神が創造したと言い、ニュートンは時間・空間は神が世界を創造する前から存在すると主張しました。 この両者の対立は今もって解決していない、と言われますが、あなたはそれをどのように考えますか? つまり、時間・空間は物体がなくても、存在するのか、それとも時間・空間は関係であって実在ではなく、物体が存在しなかったら、時間・空間も存在しない、と考えますか? たとえば、今いる場所と、1億年離れた場所にそれぞれ時間があり、二つの場所には今現在という共通の時間が厳然として存在するとして、それが同時であることをどうやって証明する、あるいは検証するんですか? 神がいて、今いる場所の「今」と1億年離れた場所の「今」とを比較できれば、あるいは同時だと言えるかもしれませんが、そうでない限り、「今」という共通の時間が存在するとは言えないのではありませんか? たとえば、今いる場所の「今」を見て、1億年離れた場所の「今」を見るためには時間的にタイム・ラグがあります。 その二つの「今」を同時に見ることはできません。 神ならば、あるいは同時に見ることができるかもしれませんが、人間にはできません。 たとえば地上で、あなたが一つの場所の「今」を見て、別の場所の「今」を見ると、同時ということはあり得ません。どんなに距離的・時間的に接近していても、そこにはズレがあります。 それなのにあなたは「二つの場所には今現在という共通の時間が厳然として存在すると考えるべきではありませんか?」と言います。 考えるべきではないと思います。 なぜって、そんなことは神でもない限りできないからです。 たぶん、あなたは、そうは言っていないとしても、ひそかに、神の存在を想定して、二つの場所の時間の「今」を天の高いところから眺めおろして、二つの「今」の同時性を見ることができると、言っているように聞こえますが、そうなんですか? 神が存在すれば、そういうことは言えるかもしれませんねえ。
お礼
>ライプニッツは神は時間・空間も神が創造したと言い、ニュートンは時間・空間は神が世界を創造する前から存在すると主張しました。 時間空間はなにものをもってしても創造することはできないと考えます。 従ってこの点では ニュートンの考え方を支持します。 しかしながら時間を流れであるとするニュートンの考え方には一つ問題があります。時間を時の流れと考えると今現在という時間は我々が唯一感受することのできる特別な一瞬の時間となるが、なぜ我々は無限の時間のなかでこの特別な時間の上に乗り続けることができるのかという深い問題に直面するからです。 このように考えると時間は流れを伴う実体ではなく、ものとものとの関係であるとするライプニッツの考え方が正しいのかもしれないと考えるようになってきました。これについて思索中であり答えは分かりません。
- mimazoku_2
- ベストアンサー率20% (1905/9109)
その通りです。 片側だけの都合で考えてはいけません。 1億光年離れていても、A地点とB地点の時間の流れは同じです。 問題は、A(またはB)地点の状態を知るには、1億年掛かると言うことです。
- mondaysaikensa
- ベストアンサー率10% (14/137)
その通りだと思います。
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お礼
>心からのV字開脚を私に明かす真心があるなら。 V字開脚の件は分かったから、コレ一緒に拝んでくれんか。 https://www.youtube.com/watch?v=-4q2lLn7lNQ