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戦国時代~江戸時代初期、城の見張りの格好は?
戦国時代の終わりごろの城や武家屋敷を描いているのですが、 当然夜も見張りがいるのではと、はたと気づきました。 が、戦のさなかでもないのにこの見張りは完全武装しているのでしょうか? なんとなく大河や時代劇で、夜に曲者が来たときは槍を持って出動していたような記憶はあるのですが… 調べてもちょっと資料が見つかりませんでした、 恐れ入りますがどなたか詳しい方のご教授の程宜しくお願いします。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 ★武家屋敷の警護: 基本的には、足軽よりも地位の低い「小者」が「門番」(門の外側)をしていました。 服装などは、特に争い事(戦なども含めて)がない限り、「格子縞」の着物に「袴」(色はさまざま)で。「こん棒」を持って、実働約4刻(8時間)交代で立ちん坊でした。 大名家などでは2へ4人(内側と外側)、重臣クラスでは1人が警護をしていました。 また、ある程度の身分のある武家屋敷では、門の内側に「宿直部屋」(とのいべや)があり、小者はおかず、下級の武士2~3人が交代で当直にあたっていました。当然、刀や槍を常備していました。 戦の最中あたりでは、「小者」であっても、支給された「陣笠」を被り「同丸」(どうまる=略式鎧)などで身を固めての警護をしていました。
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- lv48
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家康の伝記によると、岡崎城の宿直は3人。 サボって遊びにいく始末。 遊びに行ける普段着だったということでしょう。 http://ameblo.jp/sejutsuka-school/entry-11804995098.html 昼の警備を「宿」、夜の警備を「直」、江戸期に入ると警備担当役を宿直(とのい) 誤解するポイントは平安公家社会はちゃんと武装の必要があったが、武家社会は逆に不要。 公家は夜行性で夜這いがライフワークだから、物騒な夜の警護が重要。 武士は町や農家へ夜這いはしても、同じ武家には行かない。 狼藉者として捕まったり討たれたら恥。 とのいの仕事は、見回りやトイレの付き添いぐらいだから、武装の必要なし。
お礼
ああ、公家社会だと確かにいろんな意味で夜が物騒でしょうね;しかし岡崎城のは大変よい話が聞けました…そのくらい割と軽装だったということですね。用語についてもご説明下さり、ありがとうございました。
- eroero4649
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東京郊外にある横田基地は、アメリカ空軍第5軍司令部があります。かような重要な基地ですが、そんなに物々しい警備をしているかというとテロの可能性は低い日本にあるというだけあってのんびりしたものです。ゲートに兵隊さんはいますが、武装もしていません。 お城や武家屋敷でも、敵からの襲撃が考えづらい後方地域ならのんびりしたものだったと思います。周囲は塀で囲まれていますし、門扉も夜になったら大きな閂をかけるのでこじ開けるだけでも大騒ぎです。大きな屋敷なら寝ずの番はありましたが、どちらかというと火事対策要員といったほうがいいでしょう。木造建築である日本の建物では、城や武家屋敷でも火事はしばしば起きました。 門を閉めているだけですから、本能寺の変でも、赤穂浪士の討ち入りでも侵入を許したのです。 もちろんこれが最前線となると話は別です。アメリカ軍もアフガニスタンの基地となると完全武装の兵士が実弾を込めて警備をしています。 「夜中に忍者が忍び寄って暗殺するんじゃないだろうか?」と思われるかもしれませんが、写真がない時代に誰が暗殺のターゲットかを知る方法は非常に難しいですね。それに、どうも暗殺というのは武士の風上にも置けない卑怯なやり方だとあまり好まれなかったようです。とにかく敵を倒すためには暗殺もだまし討ちも手段を択ばないという白人とは我々は違うんですね。昔のイタリアの貴族で片目を失明したので、失明した方向から暗殺されないようにと鼻を削った人もいましたし、欧米のテーブルマナーで「入口が見える壁を背にした席」を上座とするのはそこが暗殺されない一番の席だからです。欧米じゃロバート・ケネディのような「レストランのバックスペースで殺された」とかマリリン・モンローのような「ベッドで変死」って話がよくありますが、アジアの暗殺事件というのは伊藤博文暗殺のような公けの場所で襲われたってケースが多いですからね。
お礼
確かに木造建築ばかりですから火事はほんとうに恐れられたと聞きますね。火事対策要員という見方はなるほどと思いました。日本人ならではのお互いの暗黙の了解というのもあったのでしょうね。いずれにしろそこまでキリキリ緊張状態ではなく割とのんびりしていたという印象でしょうか、ありがとうございます。
夜の見回りの格好は昼間の服装に灯り持ちです。 夜は門番もいません。 門を閉めて戸締り確認。 夜忍び寄る輩は、正々堂々、門から来ない。 夜襲も泥棒も塀を越える。 門番は昼間の受付係。 夜も門番がいるのは大名クラス、緊急の連絡に備えて夜の受付当番。
お礼
なるほど、でも大名家にはさすがに門番がいたのですね。それでもあくまで受付当番…意外とそこまでキリキリ警備してない印象なんですね、ありがとうございます。
- oska
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>戦国時代の終わりごろの城や武家屋敷を描いているのです 戦国時代後期の城郭・武家屋敷の絵図は、残っていませんよね。 残っていても、人物が描写されていません。 敵に正しく描いた絵図が渡ると、死活問題ですから残っていないのですがね。 公証を正しく行って、描いて下さいね。 平安・鎌倉時代の絵図は、屋敷・門・門番が描かれていますが・・・。 >当然夜も見張りがいるのではと、はたと気づきました。 戦国後記でも、合戦時と平常時は異なります。 が、どちらも「門番」は常駐していた様です。 >戦のさなかでもないのにこの見張りは完全武装しているのでしょうか? 何か、江戸時代の武家屋敷の状況を書いた回答も見受けられますが・・・。 戦国時代後半ですよね? 他にも回答がありますが、軽装での見張りだけです。 今の剣道着で、マスクをかぶっていない状態に近いですね。 完全武装で見張りを行う状況では、既に「敵が近くに進攻」「敵に包囲されている」状態です。 ※一乗谷朝倉屋敷や松山湯築城の様に、門番が常駐していない場合もあります。 ※戦時には、もちろん常駐します。 >大河や時代劇で、夜に曲者が来たときは槍を持って出動していたような記憶はあるのですが… 大河ドラマや時代劇では、平時の状況の場面は少数です。 視聴率が低いですから・・・。 まぁ、「曲者」を見つけた時は「軽装で、槍・刀を持って捜査する」程度でした。 決して、深追いはしません。
お礼
完全に戦国時代のものとか江戸時代のものとかはあるのですが、戦国時代末期、つまりちょうど戦国時代と江戸時代の間の頃の画像的な資料ってないのですよね…でも合戦時と平常時はやはり違うのですね、ただそれでも門番はいたと…そして軽装なのが意外ですね。武器についてもご教授すみません、ありがとうございます。
- ithi
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iwan2no さん、こんばんは。 お侍は夜討ち朝駆けが合戦の基本にありましたので、当然あったでしょう。なんといっても、屋敷というものは城と同じです。だから、警備用の部隊、番方があると思います。 昼夜と非番と交代制だったと思います。 この番方というのは江戸時代の幕府の要職にもあります。いわゆる、五番方と言われます。 大番、小十人、新番、書院番、小姓組です。だから、諸大名や大きな旗本なんかは番方を置いていると思います。終り頃といっても、もちろん戦国時代ですから、完全武装は必需ですよね。出なければ戦備えがたるんでいるとほかの家から笑われます。 詳細は下記のURLを参照ください。 小十人 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8D%81%E4%BA%BA 大番 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%95%AA 新番 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%95%AA 書院番 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E9%99%A2%E7%95%AA 小姓組 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A7%93%E7%B5%84
お礼
なるほど、交代制だけでなく役職まで詳しくご教授下さり、感謝です。軽装だったという説も他の方からありましたが、重装備をしていても何らおかしくはないということですね。場合やシーンに合わせて調節する良い選択肢が増えました、ありがとうございます。
平常時に見張りはいません。 見張りは櫓等から周りを見渡す仕事。 見張りなし、門番だけだから、本能寺も二条城も簡単に囲まれた。
お礼
確かにガッツリ見張りがいて、立っていたイメージがないんですよね…でもそういえば仰る通り、櫓にいるのはドラマなどで見たことがありますね!櫓にいるのだけは少なくとも確かということですね。しかし二条城もそんなことになったことがあったんですね…ありがとうございました。
戦国時代の終わりごろという想定ですと鎧は相当に簡略化されています。 五月人形のような鎧を着ていたのは源平時代です。 見張りの兵のような軽輩者は精々腹巻と呼ばれる現在の剣道の胴のようなものを身に着けている程度でした。 まぁ~警護の警察官が防弾チョッキを着ているような感じです。 腹巻の写真は下記のサイトにありますので絵の参考にして下さい。 腹巻 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/腹巻 槍も大名行列などの絵にあるような長いものではありません。 短槍と呼ばれる、身長程度のもので刃のある穂先も精々10cm程度の簡単なものです。 後に穂先の無い棒だけの六尺棒と呼ばれるものが使われるようになりました。 TVの時代劇などで、門番が持っているものです。 戦国時代の戦場で使われる槍はやたらに長いものでした。 6m前後で場合によっては10m近いものまでありました。 実戦上は槍は突くのではなく相手を殴るのが目的でした。 いかに戦国時代の終わりとは言えこんな長い物を城中で持ち歩いていたのでは邪魔になります。 戦国時代の武家屋敷とありますが、戦国時代には江戸時代のような立派な屋敷はありませんでした。 屋敷が整えられるのは、平和な江戸時代になってからです。 従って余り絵にはならないかと思います。 あと、戦国時代のお城は山や高台にある地形を利用した山城と呼ばれる形式が大半です。 大阪城や熊本城のようなものを造ろうとすると石垣を組むだけで相当な時間がかかります。 余程安定した勢力を持っていないと難しい作業でした。 お城を造っている間に攻められたのではどうにもなりません。 実際に使われていたお城のイメージとしては下記のようなサイトがあります。 推奨山城ランキング~城と古戦場~ utsu02.fc2web.com/recommend.html 秀吉の時代になって戦の頻度が減り安定した時代になってから整えられ、更に江戸時代の一国一城の制度ができてから現在みられるようなお城にお化粧されました。 戦闘用よりも権威の象徴という意味合いが強くなりました。 立派な名古屋城などは家康の時代に入ってから作られ、ただの一度も戦をしたことがありませんでした。 蛇足 余り時代考証に拘りますと、絵を見る人が、なんだこれ山賊の巣窟か、と受け取りますので注意して下さい。 むしろソコソコのイメージの方がよろしいかと思います。 お城のイメージもむしろ下記のサイトの方が違和感はないでしょう。 日本の城一覧 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/日本の城一覧
お礼
画像までありがとうございます、軽装とはいえ、その程度の装備はしていた場合もあったということですね、戦国時代末期ならまだきっとありえたかもしれませんね。やはり武器も持っていたのですが、そのような槍があるのですね。絵の描き方についても感謝します、確かに戦国時代の山城って実はそうなんですよね…研究もする一方、見て下さる方が楽しめるようがんばります。ありがとうございます。
お礼
他の方だと灯りを持っていたと書かれてもいましたが、やはり武器は何かしら持っていた場合もあったということですね。それでもあまり重装備ではなかったということでしょうか。専門用語や、交代のプロセスについてもご教授すみません、ありがとうございます。
補足
皆さんありがたかったですが、他の方も仰られているご回答が、総合的にまとめられているのでこちらにベストアンサーを… 基本軽装(場合によっては重装備) 腹巻といわれる略式の鎧を巻いていた(平常時) それほど人数は多くなかった 灯り、またはこん棒や短槍などを持つこともあった ということですね。改めてありがとうございました。