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日本史 享保の改革
吉宗時代の新田開発についてです。 自分の解釈があっているか見てください。 新田開発には村請新田、藩営新田、町人請負新田、代官見立新田の4種類あって、吉宗時代の新田開発は町人請負新田である。 この新田開発で開発された町人請負新田の中で著名なものに飯沼新田、紫雲寺潟新田、武蔵野新田、見沼代用水新田がある。
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*「新田開発には村請新田、藩営新田、町人請負新田、代官見立新田の4種類あって、吉宗時代の新田開発は町人請負新田である。」 「新田開発には村請新田~」の部分の記述については、「江戸時代の新田開発」という前提だろうということで考えますと、江戸時代の新田開発を、開発者による類型化すると、諸説はあるのですが、おおよそ次の8類型に分類されます。 1、代官見立新田、2、藩営新田、3、藩士知行新田、4、土豪開発新田、5、村請新田、6、町人請負新田、7、百姓個人請新田、8、百姓寄合新田、 この8類型の内、1~3については官営新田、4~8については民営新田と区分することもあります。 「吉宗時代の新田開発は町人請負新田である。」の部分ですが、以下でも説明しますが、町人請負新田だけではありません。 *「この新田開発で開発された町人請負新田の中で著名なものに飯沼新田、紫雲寺潟新田、武蔵野新田、見沼代用水新田がある。」 「吉宗時代の新田開発は町人請負新田である。」と同じですが、吉宗時代の新田開発は町人請負新田だけではありません。紫雲寺潟新田は町人請負新田として著名、大規模ですが、飯沼新田は村請新田、武蔵野新田は村請新田と百姓寄合新田、見沼代用水新田は村請新田と町人請負新田とされています。特に、紫雲寺潟新田を除く、飯沼新田、武蔵野新田、見沼代用水新田はほぼ村請新田で、幕府の意向は村請新田にあったとの説の根拠にもなっています。この時期の特色は、幕府の積極的な新田開発策と、井沢弥惣兵衛に代表される紀州流土木技術による用水・排水路開鑿、改修や、治水、新田開発などです。飯沼新田、紫雲寺潟新田、見沼代用水新田に関しては井沢弥惣兵衛が関与していますし、武蔵野新田に関しては、地方御用を兼任した南町奉行大岡忠相や、地方巧者の代官上坂安衛衛門政形(町奉行所与力から代官・勘定組頭に昇進)、新田世話役の川崎平右衛門定孝(名主から代官・勘定吟味役に)などの幕府役人が運営に関与します。 戦国時代から織豊期、江戸時代も初期には大開発時代でしたが、江戸幕府は寛文6(1666)年に、諸国山川掟を発令し、下流の治水のために、上流部の森林開発を制限し、貞享4(1687)年には、町人請負新田に制限をする政策に転じます。大規模な新田開発が可能な地域は、この時点で、なおかつ当時の技術水準(伊奈流土木術など)ではほぼ開発されたとされます。 町人請負新田の制限については、議論がある所ですが、資金を提供した町人が新田の地主となり、入植した農民との間に、地主-小作関係が生じ、それが封建的身分関係原理に反すると考えられたとされます。享保7(1722)年7月に、新田開発奨励の高札が日本橋に掲げられますが、ここにある開墾申請者については、「新田に成るべき場所」の「御代官、地頭并百姓」が、「願出ずべく」としており、ここには、町人・商人などの文言はありません。ただ、高札の掲示場が商業の中心地の日本橋であり、商人の出資を促す目的を持っていたとするのが通説ではあります。逆に、町人請負新田についての抑制の政策が打ち出されたとしても、それが遵守されなかったのではないかとの考え方もあります。 ともかくも享保の改革では、幕府財政を立て直すために従来の開発抑制策を転換し、享保7(1722)年7月に、新田開発奨励の高札を日本橋に掲げ、耕地の増大をはかって新田開発を積極的に促進する政策に転換します。そして、紀州流土木術による治水、干拓、用水路開鑿に着手し、民間・幕臣の地方巧者を登用します。 飯沼新田 起工=享保10年。完成=享保12年。干拓面積=1896町歩。新田総面積=1700町歩余り。石高=14383石余り。開発主体=飯沼周辺の24村(村請新田)。経過=高札以前から干拓・新田開発の動きがあったが、まとまらず、高札掲示後申請。井沢弥惣兵衛の指導により、下野国の吉田近辺から用水を引く。吉田-飯沼間の8ヶ所の沼沢も干拓する。排水路は新堀を開鑿。幕府から拝借金1万両(ただし開墾後の免税期間中の2年間で返済する条件)。沼周辺の24カ村の村請新田とする。ただし、24カ村の中の15カ村は大名領、旗本領が混在するので、これを幕府領にする。以上のような方向性で新田開発を実施。 紫雲寺潟新田 起工=享保13年。完成=享保17年。新田総面積=2000町歩余り。開発主体=長野須坂の竹前権兵衛、小八郎兄弟が企画し、江戸横山町の成田佐左衛門(屋号・会津屋)が請人、柏崎の宮川四郎兵衛が資金協力。(町人請負新田)。経過=幕府御用硫黄商人の竹前権兵衛が幕府との硫黄取引での利益1666両余りを元手に享保11年に弟小八郎を願人として、成田佐左衛門を請人として出願。翌年の享保12年に開発許可。紫雲寺潟が、新発田藩の地先であったために、幕府と周辺の新発田藩の農民などとの紛争多発。そのために享保7年9月の幕府の触(*公儀新田令)に基づき、幕府は完成後の新田の全てを収公。その内の500町歩を無償で竹前権兵衛(小八郎は完成時には他界)に下げ渡し、竹前はその内150町歩を宮川四郎兵衛に、50町歩を成田佐左衛門に与えた。なお、幕領への編入、排水路の計画などについて、井沢弥惣兵衛も関係したとされます。 *公儀新田令=享保7(1722)年7月の新田開発促進の高札掲示に続き、同年9月に幕府より出された触。その内の、「私領(大名・旗本領などの幕領以外の領地)村付きの地先であっても、山野、芝地、海浜の出洲や内川などで、新田畑にできるところは、公儀より開発を仰せ付けられる」という条文で、高外地と呼ばれる知行高に結ばれていない空間(湖沼を含む)は、公儀(幕府)が領有権を持つとしています。そのため、私領の地先の開発の権利は幕府にあり、新たに開墾・開発された土地の領有権は幕府にあるということを表明しています。また、飯沼新田に見られるように、新田開発のために予定地周辺の天領化を図るなども行われ、新田開発地が幕府の領有に帰し、天領の耕地の拡大。年貢の増収、幕府財政の改善の目的のためになりふり構わない様子がうかがえます。 武蔵野新田 畑作新田で、享保以前に開発された新田も存在し、長期にわたり開発が行われているが、それらの新田は含まず、享保7年の高札以降に開発された畑作新田群を指します。ここでは従来存在した村の地先を村請で開発した新田が多いほか、有力農民と町人が寄り集まって資金を出し合う百姓寄合新田(寄合請負新田)型の新田もあり、100町歩の開発予定地に60両の地代金を幕府に払い開発に着手します。また、武蔵野新田は痩せた関東ローム層台地であったためもあり、開発は順調に進まず、入植、離散がくりかえされ、幕府は入植者に家作一軒ごとに2両2分の家作金、開墾地1反ごとに624文の農具料を支払うなどの政策を取り、さらに年貢減免もしています。また、川崎平右衛門が新田世話役に就任すると、土木工事に従事した農民に食料を与えるなどの施策も実施します。農民は関東ローム層の赤土に大量の灰や糠を投入し、土地改良を行い、麦、アワ、ヒエ、大豆などの雑穀と、蔬菜類の産地となっていきます。 見沼代用水新田 見沼は元々寛永年間に幕府代官頭の伊奈忠治が造成した用水溜井で、そのため見沼上流部の村々から出された見沼干拓の計画は、見沼から用水の供給を受けていた川下の村々と、からの強力な反対があり、実現には至りませんでした。享保期に入り、幕府は井沢弥惣兵衛に享保10年に現地を調査させ、11年に測量、12年に工事に着手し、排水路の工事、干拓地の造成、用水路の開削を行ない、13年には用水(幕府普請)・干拓地の造成が完成(987町歩)します。 新田開発は干拓地の完成した13年の秋より開始され、条件は年貢減免期間3年。地代金は田1反につき金一両、畑は一反につき銀二十一匁。支払いは三年賦。この条件で見沼周辺の17カ村が約1000町歩の村請、江戸町人が約200?町歩の町人請で新田を開発。その他に近隣の沼地も干拓し、約600町歩の新田を開発しています。以上の事業に、幕府は約2万両を支出、完成した用水により約15万石、303カ村を潤す用水が完成します。 以上、長くなりましたが参考まで。また、手持ちの資料の関係で、飯沼新田、紫雲寺潟新田と、武蔵野新田、見沼代用水新田では記述の仕方が統一を欠いていますが、ご容赦ください。