- ベストアンサー
清和源氏について
こんばんは。 源平時代の源氏で「源」と名乗っていたのは嫡流だけのように思います。(間違ってたらごめんなさい。)でも武田、木曽、足利、新田などそれぞれ土着した土地の名前を使っていますね。源氏のネームバリューは絶大で、領国経営にもにらみが効いて何かと都合がいいのはずなのになぜ「源」を名乗らなかったのでしょう?本流の一族しか「源」を名乗ってはいけない決まりでもあったのでしょうか?
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
まず、これは姓と苗字の違いを明確にしないと話にならないため・・・。 平、源、藤原、橘、菅原、豊臣といったものは「姓」です。 姓とは天皇から賜るものです。 対して、織田、羽柴、伊達、浅井、朝倉といったものは、「苗字」です。こちらは自分で勝手に名乗るもの。 公文書や書状、また名乗りなどは姓を使います。 徳川ならば、源の後裔としていたので、姓は源となります。 で、姓には基本的に「の」を入れます。これは現在で言うところの「誰彼のせがれ」とか「誰彼の子孫」とか人のことをいうのと同じ感覚です。 つまり、自身がどの出自(血統)であるかを名乗っているのです。これは当時の慣例ですね。あくまで自分の血統を示すものです。 これが戦国時代における姓の使い方ですが、平安末にはまた少し違う様相がありまして・・・ あのころには、まだ「姓しかない」家があったのです。源氏の宗家とか、平氏の宗家など。 で、彼らには姓しかないため、それで呼ぶしかない(もちろん彼らからすれば、自分の家が賜った姓なのだから、わざわざ苗字を名乗る気はないのでしょう)。 なので、必然的に姓の慣例である、氏への所属を示している「の」の入ったものがそのまま現代でも使われます。というよりも、それしか呼び様が無いのです。 なお、苗字を持っていた家は、平安当時から苗字を使っています。北条や熊谷は姓は平ですが、苗字はこちら。 さて、実は苗字も元の風景としては「の」を入れている節はあります。 しかし、これはあくまで、「○○国の(苗字)の次郎」という具合でして、「○○国のどこどこの」の「どこどこ」が苗字なのです。今で言うところの「神奈川県横浜」の、「横浜」にあたるのが苗字となっています。これが苗字の出現。つまり、自分の出身地とか、住んでいるところをあらわすものなのです。 つまり、最初に姓(つまり血統を示すもの)が現れて、それが広まっていくと、苗字(住んでいる土地などを示すもの)が現れたのです。 たとえば、現在「鈴木」なんていうのはそこらじゅうにいます。で、「鈴木の子供」なんていってもどこの鈴木だかわかりません。そうすると、どうするかというと「○○の(○○にすんでいる)鈴木の子供」とかなるのです。つまり、○○が「苗字」なのです。たいていは地名が入ります(実際には、逆に姓の部分が飛ばされて名乗られますが。これは、「(屋号)のせがれ」とかと同じ感覚です)。 村上という土地にいるから村上、足利という土地だから足利、といった具合です。苗字はそういうものなのです。なぜ、苗字を名乗っていたかとなればそれは「土地」と言う概念でしょうね。一所懸命と言う言葉があるように、土地は最も重要なものですので。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2208886 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2239491 まえにあった苗字と姓に関する質問も参考にしてください
その他の回答 (6)
- koon1600
- ベストアンサー率51% (200/390)
補足をいたしますと・・・ >徳川家は源氏の子孫と称していてもその出自は極めて怪しいようですね。また、源氏の支流の支流のそのまた支流といった家柄であっても公文書などに「源」と署名したら天皇家から怒られませんか?それとも分家などにより当主となったらいちいち天皇に「姓」の使用を申請していたのでしょうか? これはわざわざ申請する必要もなければする義務もありません。あくまで姓(かばね)という氏族の一員であると名乗っている程度のものです(戦国期に入ると、捏造の可能性が高い家のほうがはるかに多いです。徳川を筆頭に織田、北条などなど・・・)。 逆に、天皇相手の公文書などには必ず姓をなのらなければなりません(苗字を書くと問題になる可能性があります。そんなカバネは与えていない、と)。いわば公文書をしたためるときのルールでして、明治になって姓の使用が禁止され、姓が消滅するまで「公文書、書状での名乗りは姓を使う」というルールでした。これは苗字が勝手に名乗るものに対して、姓は天皇から賜ったものだからです。逆に、姓がないというのはこういったものに使えないので、非常に都合が悪いのです(なので、箔をつける意味合いもありますが、姓を手に入れるためにかなりの数の家系が捏造しています)。 おそらく、このルールに一番苦慮したのは秀吉でしょう。彼は出自不明に近い半農民の出です(しかもそれが周知の事実となっていました)。つまり、姓はありません(それどころか苗字があったかすら危うい家系)。さらに藤原といった姓をつかっても、劣等感は埋まらなかったのでしょう。そのため、豊臣姓を天皇に新設させています。このあたりに「姓を持っていない者の劣等感」が見え隠れしているような気がします。
お礼
ふたたび回答いただきありがとうございます。 丁寧に説明いただきましたので、理解できました。他の回答者の皆様にもこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
- Tacosan
- ベストアンサー率23% (3656/15482)
つ~か, 公式の文書では「源」を使っているはず. 徳川家康も, 朝廷に出す公式文書では「源朝臣」と署名してます.
お礼
回答ありがとうございます。 公式文書には「源」と署名していたのですね。「本名」と「通称」を使い分けるようなものなのですかね。質問に書いた源氏を名乗るメリットなど対外的にはあまりなかったのかなあ。 ありがとうございました。
- poccuru5
- ベストアンサー率22% (61/276)
結論を書き忘れました。 つまり、本来の姓と同等程度には土地と結びついていた、あるいは積極的に用いたということなのでは?
お礼
ありがとうございました。
- poccuru5
- ベストアンサー率22% (61/276)
源平の時代は、朝廷の律令による土地制度が崩壊してしまっていた時代です。 そのため、新たな勢力である武士たちは、自己の武力でもって自分の土地を安堵していました。 頼朝の決起に関東の多くの武士が賛同したのも、それが自分たちの土地を守ることになると判断したためです。 つまり、彼らにとって1番重要だったのは、自分の土地をいかに守るか、ということだった。 この辺を押えれば、なぜ中世の貴族や武士たちが居住する土地の地名を名乗るようになったのか分かるのでは。 土地とは、彼らにとって最も重要な直接の収入源であるため、 その土地の所有者が誰なのか、近隣住民にもよくわかるようにその地名を名乗ったのです(たぶん)。 ちなみに、頼朝のほとんどの兄弟がそれぞれ本拠となる領国の地名で呼ばれるのに、 義経だけそうした別の姓を持たないのは本拠となる領国がないからでしょう。 で、部下を食わせるために朝廷から官職を賜った。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね。武田氏が源氏の後裔であることなど、常識であり、「源」を名乗るより領地を連想する名前の方が都合がよさそうですね。それに#1の方が言われているように源氏は支流が多かったようですので、各地の源氏がみんな「源」を名乗っていたら「源」だらけでややこしくなりそうです。
- chomaru_zakoba
- ベストアンサー率25% (1/4)
あまり自信はないのですが、思うところを述べます。 >本流の一族しか「源」を名乗ってはいけない決まりで>もあったのでしょうか? そんなことないと思います。武田、木曽、足利、新田なども、文書には源なんとかと署名していたと思います。逆に、源頼朝につながる、いわゆる清和源氏の嫡流が土地の名前(=苗字)を使わなかったのは、領地が各地に分散していたことが理由ではないでしょうか。 なお、源頼朝、頼家、実朝は、清和源氏の嫡流でしたが、源氏全体のトップ(源氏長者)ではありませんでした。この辺の事情は、岡野友彦「源氏と日本国王」(講談社現代新書)をお読みください。お勧めします。
お礼
回答ありがとうございます。 ★そんなことないと思います。武田、木曽、足利、新田なども、文書には源なんとかと署名していたと思います。 えっ、そうなんですか。すると・・武田、木曽などはもしかして、本家と区別するための便宜的な呼びかただったのでしょうか? 清和源氏の「嫡流」であっても源氏全体のトップ(源氏長者)ではない・・??「源氏長者」とは初めて聞く言葉です。お勧めの書籍を一度読んで見たいと思います。ありがとうございました。
- busido2006
- ベストアンサー率23% (12/52)
わたしの拙い知識で恐縮ですが。。。 ご指摘の通り、堂々と源氏を名乗れたのは嫡流だけでした。 源氏は、特に庶流の多い氏族でした。それゆえに、本家の力を絶大にするためにも、庶流には源氏を名乗らせなかったようです。 ただし、庶流でも源氏ならば征夷大将軍になる資格はありました。 ちなみに、部屋住みのうちは庶子でも、源氏を名乗る事ができました。だから、義経は庶子でも源を名乗れたんですね。
お礼
回答ありがとうございます。 ★堂々と源氏を名乗れたのは嫡流だけでした。 ★本家の力を絶大にするためにも、庶流には源氏を名乗らせなかったようです やはりそうだったんですね。♪ ★部屋住みのうちは庶子でも、源氏を名乗る事ができました。だから、義経は庶子でも源を名乗れたんですね。 もし、義経が平家滅亡後も頼朝に忠誠を貫いていれば、奥州平定後、かの地を任され、その子孫は例えば、平泉氏などと名乗っていたかもしれませんね。 いや、しかしそうすると、義経は恩ある藤原氏を裏切ることになるから、悲劇のヒーローではなく、悪役になってしまうなあ・・ ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 「姓」と「苗字」は別物なのですね。浅学振り丸出しの質問をしてしまいお恥ずかしい限りです。過去の質問も大変参考になりました。 ただ、新たな疑問が沸いてきました。 ★姓とは天皇から賜るものです。 徳川家は源氏の子孫と称していてもその出自は極めて怪しいようですね。また、源氏の支流の支流のそのまた支流といった家柄であっても公文書などに「源」と署名したら天皇家から怒られませんか?それとも分家などにより当主となったらいちいち天皇に「姓」の使用を申請していたのでしょうか?