そこまで菩提心が問題なのか?
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法然は,また十二章「釈尊、定散の諸行を付属したまはず。ただ念仏をもつて阿難に付属したまふの文」においては,観経に説く「菩提心」に関し、次のように言う。
発菩提心とは,諸師の意不同なり。天台には即ち四教の菩提心あり。謂はく蔵・通・別・円これなり。
つぶさには止観の説の如し。真言には(中略),華厳には(中略)、三論・法相に,おのおの菩提心あり。
つぶさにはかの宗の章疏等の説の如し。また善導の所釈の菩提心あり。つぶさには疏に述ぶるが如し。発菩提心その言一なりといへども,おのおのその宗に随つて、その義不同なり。(中略)願はくはもろもろの行者,一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求めむ人,おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。たとひ余行あしといえへども,菩提心をもつて往生の業とするなり。
この文に関する限り,法然は「善導の所釈」の浄土門に固有な菩提心の存することを認め,同時に聖道門・顕密諸宗の菩提心についても、これを全面的に否定する如き立場をとつてはいないのである。しかし同章の後段において,法然は再び菩提心否定の立場を明確にする。
答へて曰く,「仏の本願を望むに、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と云ふ。定散の諸行は本願に非ず。
経中に「定散を説くことは,念仏の余善に超過たることを顕はさむがため」に過ぎず,したがって
「菩提心はこれ浄土の綱要なり。もし菩提心なき者は,即ち往生すべからずと」考えることは誤りである。菩提心を含め「定散は廃せんむがために説き、念仏三昧は立たせむがために説く」のが経の本意である。法然において,菩提心は往生業としては,究極「余行」として位置づけられる。法然のこの菩提心観は,その思想の中核をなす本願念仏説を構成する契機である。しかしそこに,明恵から大乗仏教の基本的立場に反するとの批判がなげかけられる理由がある。明らかに菩提心は大乗仏教一般の基本をなすものであり,このことは中国・日本の浄土系思想において一貫した思想的伝統であった。しかるにこれを法然は否定したのであり,ここに法然浄土教の独自性と,同時に問題が存する。
菩提心に関する一考察
――明恵・法然・親鸞の所説をめぐって――
熊田健二
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2587/1/al-no57p001-017.pdf
5~6ページ
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私はもうokwaveに参加したくないのです。
中国人や韓国人にとって日本の浄土教の菩提心の解釈など、どうでもいいでしょう。
いやみばかりいってくるようですが、そんなに気になるならpdfを読めばいいでしょう。
批判したいならpdfの作者にすればいいでしょうが。
本当に嫌になる。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。 しかし、 寄せられた回答は、質問に対する回答の体を成しておらず、 自説を押しつけるものとして非常に不適切と感じました。 回答できない者が投稿する場所ではないはずです。 2チャンネルかツイッターと間違っていらっしゃるのでは?
補足
早速のご回答とアドバイスですが、 私が何を信じているか、信じようとしているかは、ここでは関係在りませんし、貴方のおっしゃっている様に、鎌倉以降の日本仏教に対しての疑問は同じく持っているものです。 私は華厳、唯識、禅、等の周辺に強く共感を示し、また逆に密教系の後期仏教には強い疑念を持っています。 しかし、山崎上人の思想的淵源さは非常に影響力が大きく、ご存じないかも知れませんが、仏教哲学、日本の芸術論、西洋哲学のそれぞれに幅広く尋常ならざる造詣をもって「世に三空在り、一に空海、二に源空(法然)、三に空外」と言われた空外大先生が師事したのが山崎上人であることから、思想的な興味を持っているのです。 宗教的真理うんぬんを問題とすると言う事よりも、その前段として、思想の端緒を掴まんとするものです。 特に各各性は、華厳(最初期の釈迦の直観)と呼応する思想と思われる節があり、それをジルソンやヤスパースとも直接親密な交流があった(ヤスパースの蔵書を全て寄贈されたほど)西洋の宗教的哲学にも深い論さえ張れるほどの大哲学者空外のその師たる人物山崎上人が、どのように開陳するかに興味があるのです。