回答・・・当時の日本の上層部としては少なくとも優位に講和に持ち込み戦争を終わらせようという目算はありました。
■当時、戦争開始前の日本には1941年11月15日の大本営政府連絡会議で承認された「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」という構想案がありました。
これを全部書くと長文になるので簡単に言うと・・・
速やかに極東のアメリカ、イギリス、オランダの根拠地を占領し重要資源地帯を押さえ海上交通路を確保し日本の自給自足の体制を整える。
ドイツ、イタリアと協力してイギリスを屈服させる。
さらにアメリカ海軍の主力を撃滅し通商破壊戦を強化してアメリカの世論を厭戦に誘致し戦意を喪失させるというものです。
つまり、日本は最初から米国を降伏させる事ができるとは考えていませんでした。戦争を諦めさせ講和させる事を狙っていました。
■そして、この戦略では米英不可分という考えから英国の屈服を図る事が重要視されていました。
開戦前の1941年11月4日の軍事参議会で海軍軍令部総長の永野大将が「英米連合軍の弱点は英国にありと考えられる・・英を餓死せしめて屈服せしむること最も捷径なり」と言い、東條首相も「通商破壊戦により英の死命を制し米の態度を変えしむ」と言っています。
そのため「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」にも「英の屈服に際し之と直ちに講和する事なく英国をして米国を誘導せしむる」とあります。
つまり、米英連合軍の弱点は英国であり、その英国を先に屈服させて、米国の継戦意志を喪失させようという構想です。
ただ、これは日本単独で行おうというものではなく、ドイツ、イタリアの動きにも期待するものでした。
「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」にはドイツ、イタリアに次の方策をとらせるとあります。
●対英国封鎖強化
●英国本土上陸作戦
●近東、北アフリカ、スエズ進出と対インド施策
また、ドイツを対英国戦に集中させようという思惑から「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」には外交政策として、ドイツ、ソ連の講和を仲介して独ソ戦をやめさせ、ソ連を枢軸側に引き入れるという構想も記されています。
日本が英国に対して直接行う戦略は通商破壊戦によりオーストラリア、インドとの連絡線を断ち英国に打撃を与え、またビルマを攻略して独立させ、その成果を利用してインド独立運動を刺激し英国から離反させるというものです。
■対米戦については「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」では、日本、ドイツ、イタリアが協力して米国の世論を厭戦へと誘致し戦意を喪失させるとありまして、日本としては米海軍の主力の撃破と通商破壊戦強化、対米宣伝謀略を強化するとあります。
■つまり、日本は米国に対し、その戦意を喪失させ講和に持ち込もうという戦略があり、無計画に何の勝算も無しに戦争を始めたわけではありません。
ただし、そこにはドイツが英国に対し勝利するという期待があった事、それを計算に入れていた事は外せません。
■なお、戦争終結の機会としては南方資源地帯占領作戦の成功、または蒋介石の屈服時、またはドイツによる英国本土陥落、または独ソ戦の終末時なのが想定されていました。
そして講和の斡旋をバチカンやスウェーデン、南米諸国に依頼する予定でした。
この中で南方資源地帯占領作戦の成功は実際に成功したわけで、実際に皇族の東久邇宮大将が東条首相に緒戦の情勢が有利なので和平交渉を始めるべきだとか、天皇陛下も開戦三ヶ月後には東条首相に戦争終結の機会を逃さないようにとお申しつけになりましたが、東条首相は戦況が有利という事で和平交渉どころか戦争継続、拡大に動きました。
この時点で和平交渉をしても米英が乗るとは思いませんが、少なくとも「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」における戦争終結の機会の一つが達成されていた事は事実です。
◆そういうわけで日本の上層部は何ら勝算も無しに戦争を始めたわけではありません。
それなりに日本の上層部にも勝算はあったのです。
お礼
どうもありがとうございました。