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日本は勝てると思ってたのでしょうか?
太平洋戦争をやる際に、 日本は勝てると思ってたのでしょうか? 少しでも勝算はあるから戦争をしようと思ったのでしょうか?
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戦争開始前の国力はアメリカが日本の50倍と言われていました。これはかなり甘く見た数字で、実際には数百倍とも言われています。戦術の天才、源義経や織田信長といった司令官でもこれだけ戦力に差があったら初めから勝負しようとしないでしょう。日本が劣勢になったのは開始後わずか半年後のことです。国力に差があったばかりか、戦術、その他日本は劣るものばかりで時間の経過とともに消耗していったのに対し、次々に戦力が増すアメリカに太刀打ちできるはずはなかったのです。 もちろん大半の日本人はそのことを知りませんでした。都合の悪いことはすべて隠ぺいしていたからで、今の中国と大して変わりがありません。
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- chiha2525_
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皆結果を知ってるから、したり顔で書いてるけど、開戦直前の雰囲気としては、結構勝てると思ってたんですよ、これが。 結果を知ってると信じられないでしょ。でもサッカーなんかもワールドカップに出て、予選突破出来るんじゃない?みたいに思っててもフタを開ければフルボッコの3敗敗退とか、そんなのと一緒。
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どうもありがとうございました。
- DieMeute
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回答・・・当時の日本の上層部としては少なくとも優位に講和に持ち込み戦争を終わらせようという目算はありました。 ■当時、戦争開始前の日本には1941年11月15日の大本営政府連絡会議で承認された「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」という構想案がありました。 これを全部書くと長文になるので簡単に言うと・・・ 速やかに極東のアメリカ、イギリス、オランダの根拠地を占領し重要資源地帯を押さえ海上交通路を確保し日本の自給自足の体制を整える。 ドイツ、イタリアと協力してイギリスを屈服させる。 さらにアメリカ海軍の主力を撃滅し通商破壊戦を強化してアメリカの世論を厭戦に誘致し戦意を喪失させるというものです。 つまり、日本は最初から米国を降伏させる事ができるとは考えていませんでした。戦争を諦めさせ講和させる事を狙っていました。 ■そして、この戦略では米英不可分という考えから英国の屈服を図る事が重要視されていました。 開戦前の1941年11月4日の軍事参議会で海軍軍令部総長の永野大将が「英米連合軍の弱点は英国にありと考えられる・・英を餓死せしめて屈服せしむること最も捷径なり」と言い、東條首相も「通商破壊戦により英の死命を制し米の態度を変えしむ」と言っています。 そのため「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」にも「英の屈服に際し之と直ちに講和する事なく英国をして米国を誘導せしむる」とあります。 つまり、米英連合軍の弱点は英国であり、その英国を先に屈服させて、米国の継戦意志を喪失させようという構想です。 ただ、これは日本単独で行おうというものではなく、ドイツ、イタリアの動きにも期待するものでした。 「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」にはドイツ、イタリアに次の方策をとらせるとあります。 ●対英国封鎖強化 ●英国本土上陸作戦 ●近東、北アフリカ、スエズ進出と対インド施策 また、ドイツを対英国戦に集中させようという思惑から「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」には外交政策として、ドイツ、ソ連の講和を仲介して独ソ戦をやめさせ、ソ連を枢軸側に引き入れるという構想も記されています。 日本が英国に対して直接行う戦略は通商破壊戦によりオーストラリア、インドとの連絡線を断ち英国に打撃を与え、またビルマを攻略して独立させ、その成果を利用してインド独立運動を刺激し英国から離反させるというものです。 ■対米戦については「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」では、日本、ドイツ、イタリアが協力して米国の世論を厭戦へと誘致し戦意を喪失させるとありまして、日本としては米海軍の主力の撃破と通商破壊戦強化、対米宣伝謀略を強化するとあります。 ■つまり、日本は米国に対し、その戦意を喪失させ講和に持ち込もうという戦略があり、無計画に何の勝算も無しに戦争を始めたわけではありません。 ただし、そこにはドイツが英国に対し勝利するという期待があった事、それを計算に入れていた事は外せません。 ■なお、戦争終結の機会としては南方資源地帯占領作戦の成功、または蒋介石の屈服時、またはドイツによる英国本土陥落、または独ソ戦の終末時なのが想定されていました。 そして講和の斡旋をバチカンやスウェーデン、南米諸国に依頼する予定でした。 この中で南方資源地帯占領作戦の成功は実際に成功したわけで、実際に皇族の東久邇宮大将が東条首相に緒戦の情勢が有利なので和平交渉を始めるべきだとか、天皇陛下も開戦三ヶ月後には東条首相に戦争終結の機会を逃さないようにとお申しつけになりましたが、東条首相は戦況が有利という事で和平交渉どころか戦争継続、拡大に動きました。 この時点で和平交渉をしても米英が乗るとは思いませんが、少なくとも「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」における戦争終結の機会の一つが達成されていた事は事実です。 ◆そういうわけで日本の上層部は何ら勝算も無しに戦争を始めたわけではありません。 それなりに日本の上層部にも勝算はあったのです。
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どうもありがとうございました。
- D-Gabacho
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まあ、追い詰められてた面はあるにせよ、政策決定に関わる人たちの大多数が勝算ゼロだと思っていたなら、戦争にはならなかったでしょう。勝算ゼロの戦争をして米国の占領下におかれるようなことにでもなれば、それこそ国家滅亡・植民地化を覚悟せねばなりませんが、ハル・ノートをまるまる受け入れたとしても、中国から追い出されるだけのことです。明治の三国干渉の例もあることですし、臥薪嘗胆で耐えるというのは、けっしてあり得ない選択ではなかったと思います。勝算ありと考える人が大勢いたからこそ、勝算なしと思っていた人も、多数意見にしたがわざるを得なかったということでしょう。それに実際、勝算ゼロと言い切れるほど、ひどい戦力差があったとはいえないのではないでしょうか。
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どうもありがとうございました。
- tzd78886
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全面的に戦うことになるとは想定していなかったのです。日露戦争で日本が「勝った」ということになっていますが、ロシアを完全降伏させたわけではありません。この時と同様にある程度戦えばアメリカ側ではヨーロッパ戦線もありますから戦い続けることを嫌って停戦に応じると踏んでいたはずです。 ところが、アメリカは本気で怒ってしまい、手に負えなくなった。ドイツを圧倒的武力で負かすとソ連は停戦の調停をすることなど無く日本の負け戦が確実になると掌を反すように日本を攻撃する側に転じた。日本がドイツの戦力を買いかぶりすぎ、あまりにお人よしすぎる一方、ソ連を信用しすぎたのです。完全に日本の政治力の敗北です。
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どうもありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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東條は昭和天皇に言ってます 「この大戦恐らく勝ち目無し、しかるに今戦わねば帝国は米英の植民地になることは必定。よって陛下に開戦の聖断を賜りたく…」と もちろん表向きは「日本は無敵で絶対勝てる」と言ってました しかし本心では勝ち目は無いと分かっていたのです しかし日本は負けましたが 東南アジア諸国は欧米の植民地から開放されたので 実質的に日本は勝利したのです そもそもあの戦争はアジアの開放が目的だったわけですから
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どうもありがとうございました。
- hekiyu
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勝てる、勝てないにかかわらず、やるしかない、 と判断したのだと思います。 当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。 GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、国民の1/4が 失業し、あちこちで暴動が発生していました。 ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は はっきりしません。 それでどうしても戦争をやる必要があったのです。 戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国 経済は見事な復活を遂げています。 これは私の偏見ではありません。 米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は 公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ 過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分 にされてしまいました。 31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に 引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。 彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。 マッカーサーは戦後、あの戦争は日本の自衛戦争であったと 米国議会で証言しています。 ハルノートのハルは、真珠湾攻撃を耳にして躍り上がって 喜んだ、という側近の証言が残っています。 「これで戦争ができる」 また、パル判事は、あのような要求を突きつけられたら モナコのような小国でも銃を持って立ち上がっただろう と述べています。 ●では、日本が米国に屈してハルノートを受け入れれば、戦争を避けられた でしょうか。 私はそうは思いません。イラク戦争を見て下さい。 ありもしない大量破壊兵器を口実に戦争を始めたのは 米国です。 その後、英国BBCは、911以前から米国はイラク、 アフガン戦争を計画していたことを暴露しました。 米国は何か罠を仕掛けて、戦争に持って行ったと思います。 1898年 2/15 ハバナ湾で、米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しました。 これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、 ということになり、あの米西戦争が始まっています。 後になって米国政府は、事故だと発表していますが 陰謀ではないか、という説が強いです。 ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。 1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の 哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した とされる事件です。 これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、 その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し 真実が明らかにされました。 湾岸戦争 1990年 では アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが イラクのクエート攻撃に対して 「介入するつもりはない」と発言しており これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、 米国軍等により撃退されています。 米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には 一切姿を見せなくなりました。 その他にも怪しいのはいくらでもあります。 こういうのが米国の伝統なのです。 以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。
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どうもありがとうございました。
- whaihansei
- ベストアンサー率23% (227/983)
シニア男性です。 海軍司令長官山本五十六は「一年間は暴れてやる」と 言ったそうです。 当時日本の仮想敵国はソ連と米国でした。 世界の常識は二正面作戦の回避でした。 二正面作戦(不利)の未経験国は日本と米国でした。 米国は英国を助けるため参戦を画策していました。 多くの輸入を頼っていた米国との戦争不可避のため 日本は南進を狙い、ソ連との中立条約を結びました。 直後、独ソ戦が始まりました。 こうして日米は戦争に至りましたが、米国は陸軍を 欧州へ、海軍を太平洋に向かわせました。 日本は海軍で優位にたち、その後和平を模索する 作戦を考えていました。 太平洋戦争は勝算があるから始めたのではなく、仕掛け られたから始めたのです。 そして昭和20年には、中国、米国に加え、ソ連からも 一方的に戦争を強いられたものです。 当時の政府、軍の能力が分かるかと思います。 仕掛けられた戦争を如何に防御するか。 戦争を仕掛けられないようにどうするべきか。 これは現代でも重要なテーマだと思います。
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どうもありがとうございました。
- mm058114
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遡ると、海軍は昭和14年に第一次出師準備を発動しており、この頃から対アメリカ戦を準備を開始しています。 海軍の多くは、条約型巡洋艦の充実、夜戦戦術の整備完成、秘密兵器酸素魚雷の整備完成、基地航空部隊に自信をもっており、一回の大海戦で、全てをすりつぶしてでも、日露戦争型での艦隊決戦の後に、相打ちにして講和できるだろうと、甘い考えを持っていました。 アメリカの海軍の開戦後の艦隊補充は計算すらしていません。 更に、戦後の、仲介役のあてもありません。 第一次世界大戦の戦訓を正しく認識しておらず、日露戦争型の戦争から考えがから抜けきらないでいました。 アメリカと戦争をしても、ワシントンに乗り込んで、城下の誓いを取れないことは、誰しもが分かっていました。 ゴールなき戦略の上の開戦です。 そこには、資産凍結、ABCD包囲網や、ハルノートがあったのも事実ですが、 戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であれば、 戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国と、 日本は負けたことが無いという、ある意味、神がかり的戦争です。
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どうもありがとうございました。
- gesui3
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昭和天皇は、いわば捨て鉢の気持ちで始めたと、述懐していたと思います。 そんな気持ちで戦争を始めてはいけませんね。 だからそれを間近かで見てきた平成天皇は、徹頭徹尾、平和憲法尊重の反戦主義者なのです。
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どうもありがとうございました。
戦争に勝ち負けは ありません・・ 人が人を傷つける事が勝ちに繋がるものは ありません・・
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