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太平洋戦争末期の日本について

太平洋戦争末期の日本には、竹槍しかなかったんでしょうか。 もしアメリカが原爆を落とさずに戦争が長引いていたなら、いったいどうやって戦っていくつもりだったんでしょう? お願いします。

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  • junt
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回答No.5

 まず、終戦時の残存兵力ですが350万人(陸軍225万人、海軍125万人)おり、台湾には船舶525隻、軍用機889機、装甲車、高射砲、鉄砲など主用兵器及び弾薬20万将兵の二年分の装備、軍需品・食糧231万トンがありました。満州の詳しい数字は分かりませんが、台湾以上であったと言われています。この2国が日本の在外資産と賠償金との相殺に応じなかった所以です。その他に日本国内には、民間所有の武器が、日本刀90万振り、軍刀24万振り、銃剣58万本、槍類14万本、小銃40万挺、機関銃2万挺、拳銃1万挺がありましたが、GHQにより昭和21年3月までに没収されています。  昭和20年4月1日、ついに米軍が沖縄に上陸するわけですが、この時、瀬島参謀(太平洋戦争の命令書の6割にこの人のサインがあったと言われています)が東京にとんで、内閣書記官長迫水氏に『米軍と関東平野で本土決戦をやっても勝ち目はありません。その理由の1つは、甚だしい戦力の低下です。陸海軍の航空戦力は開戦時の10分の1ぐらいになっています。戦艦大和も武蔵も沈み、海軍の艦船兵力は10分の1以下になっています。近代戦で航空兵力、艦船兵力がなかったら勝てません』と進言しています。それに対して迫水氏は『いつまで(終戦を)やるべきか』と訊ね『8月中にやるべきだ』と答えているんですね。  その理由は、瀬島参謀は昭和19年末に日ソ中立条約の延長(この条約の有効期限は五年で、昭和21年に切れる)と在モスクワ大使に戦局の説明に行くんですが、その帰りに、ヨーロッパ戦線で戦っていた100個師団がシベリア鉄道に乗せられ極東に向かうのを見るんです。それがどのくらい日数がかかるか計算すると20年の8月だということです。だから、8月まで、降伏しなかったら、日本は背後から攻撃されることを意味している。  そして、この進言は後に鈴木貫太郎首相と昭和天皇にちゃんと伝わります。だから原爆が使用されなくても日本は降伏していたと思います。(日本の指導者はそこまでバカじゃないし、そんなバカだったら連合国相手に4年も戦えなかったと思いますよ。)

その他の回答 (4)

  • ss79
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回答No.4

戦争末期にはまさに竹槍しかないのと同様の状態でした。 確かに戦車や航空機など隠匿していたものはありましたが、燃料、弾薬が乏しく、高度に訓練された乗員もすくなかったのです。  大和特攻も沖縄までの片道燃料しか積めませんでした。 陸軍兵士にも銃剣しか支給できない状態で「おまえ達は敵の弾薬を消費させる的だ」と公言するところもありました。 手榴弾や地雷も鉄が不足で陶器製の物までありました。 とにかく物資の不足はひどいもので、おそらく1ケ月の戦闘で消尽したでしょう。  このような状態を熟知しながら一億玉砕を叫んでいたのです。 とにかく人命を犠牲(特攻)にして敵にも損害を与えそれにより講和に導きたいという位の意図でしたから。

  • katu2
  • ベストアンサー率32% (9/28)
回答No.3

まず「戦争が長引き」ということはありませんでした。これは開戦初期から日本人の指導者の多くが言っていたことです。つまり多くの指導者は開戦には絶対反対でした。太平洋戦争が始まる前、日本海軍の机上演習では、何度やっても日本海軍は最終的に負けるという結果しかだせなかったという記録があります。従って太平洋戦争は、その予測通りに侵攻し、予測した結果になったに過ぎません。負けるべくして負けたのです。当時の日銀総裁は「先立つものが全くない」と明言してます。他も同じです。  しかしそういう状況にあって新聞は自主的に、大本営の命令なくして「強大な武器を持った日本軍」と書きたて、日本国民はそれを信じて狂喜乱舞する日常を送っていました。今の日本人はどうでしょうか。新聞やマスコミが報じることを鵜呑みにしないで、自分で情報を集め、自分で分析し、その分析に基づいて自主責任において行動しているでしょうか。そして失敗したときには自らの責任として処理しているでしょうか。このことを踏まえて「私たちは騙された」と叫ぶ人をじっくりゆっくり観察してください。彼らは騙されたと言える人々なのでしょうか。  ですからあの戦争の戦犯は新聞と日本国民なのですが、戦後アメリカはその責任は問いませんでした。占領軍というものは、何時いかなる民族でもそうですが、「あなた方の味方です」で占領を始めます。マッカーサーが日本で行ったことは、自らがつまりアメリカの占領に役立つものは利用するということでした。「アメリカはあなた方の味方です」を宣伝し占領政策を効果的に行うため、新聞の戦争責任を問うことはありませんでした。彼らは有効に統治の手段として使うということです。また、財閥は解体させましたが、全国民に統治政策を伝えるための日本放送教会(NHK)、郵送力の確保のため日本通運(これは当時日本最大でした)等など、そして日本国憲法も「戦争放棄」を自謳わせながら、平然と現在の自衛隊の前身である警察予備隊を組織するよう命令しました。  学校で、社会で、そして自分でどのように「戦争を勉強」したか知りません。ですが、これらは基礎知識ですので知っておいてください。あの戦争は「騙された」式の単純なものではなかったのですから。  日本は昭和14年頃にはすでに、国内において物資の欠乏状態でした。ですからその時ですでに戦争を行い得ない状態でした。では「なぜ戦争に突入して行ったか」はひとまずおいておきます。「長引く」という言葉を、「戦争が行える状態」として解釈しますと、そういう状態では初戦からなかったということです。 「竹槍作戦」とは、一億玉砕の主張だったのですが、これの根は今の一家心中を全く同じです。日本人は社会というものは、ごく自然に生まれ出たものだという考え方をしています。これを自然生成説と言います。社会環境を人為的組織と水に、生物と自然との関係と同じものに見ます。ですからこれからの脱出という発想は出てきません。ですが、その人の社会環境の崩壊はそのままその人の人格の崩壊ですし、それは同時にその家族の人格の崩壊になりますから一家心中をなり、これが極大化すれば一億玉砕(心中)とという形になるわけです。つまり一民族心中を公然と主張されても、それに反対できない状態になるのです。これが竹槍作戦であり「本土決戦」の叫びになったのです。日本唯一戦場になった沖縄では、不幸なことにこの一億心中が実施されてしましました。一般に「集団自決」と呼ばれていますが、これは、壕を追い出された住民(当時は部落=一家族同然でした)たちが、その社会環境の崩壊に伴う人格の崩壊、そして心中に応じてしまったという「一億玉砕」の小型版、しかもそれが実行されてしまった事象です。本土もこの道を歩んでいた。最初から戦うということは不可能だったのです。これは今後も日本にとって変わることのない事実です。

  • wappaya
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回答No.2

歴史に「もしも・・」はナンセンスですが、仮に「もしアメリカが原爆を落とさずに・・」いたなら、その代わりとして昭和20年3月の様な東京大空襲が連日の様に行われ、 果ては東京だけでなく大阪、名古屋等の大都市は軒並み焼夷弾による 無差別絨毯爆撃が行われ焼夷弾には極端に弱い日本の木造住宅での火災による死者は累々と黒炭海の如き惨く悲惨な修羅の世界を呈していたと思われるのです。 しかし、だからと言って広島、長崎への原子爆弾の投下がそれを回避したとは思っていません。 なぜなら冒頭で記した通り「歴史にもしもはナンセンス」だからです。 何れにせよ遅かれ早かれ昭和天皇は国民のその様な悲惨な犠牲を見兼ねて 全面降伏の勅命は出していたろうと推察され戦争が長引くと思われる貴方の考えは間違っているのではないでしょうか?些かの参考になりましたでしょうか。

回答No.1

いえ、ピストルもライフルもありましたし、少数であれば大砲(野砲)や戦車、地雷や航空機、戦艦だってありました。竹槍しかないというのは、国民(軍人ではない一般の市民)に対する軍事教練で竹槍しか持たせるものがなかった(訓練もしてない国民にライフルを持たせるわけにはいきませんよね?)ということから、何かの誤解が生まれているのだと思います。 ただ、アメリカと継戦する能力というにはあまりに足りませんし、航空用ガソリンや船舶用重油はほとんどありませんでしたから、無条件降伏をしなかった場合(例えば8/14のクーデターが成功した場合など)は、日本本土に上陸してきたアメリカの戦車に銃剣付きライフルで突撃するような悲惨な光景が見られたかもしれませんね。

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