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正義と都合の区別
こんにちは。 少し前に”正義”を掲げる者に対し、「絶対の正義など無いのだから独りよがりは止めなされ」という様な趣旨の主張が横行していた様に思います。 仮にこう主張する者をA派と呼びます。 最近あまり聞かないのは、そう主張する事の愚かを知ったのか、そう主張された方が愚かを悟ったのか、あるいは他の何かか。 これだけ思考停止で右へ倣えしていれば安心する民族性の中、その民族性どっぷりのステレオタイプの言うレベルの低そうな”正義”であればいとも簡単にA派の主張が”正の座”を獲得できそうですが、当時A派がネット上で議論していた内容は正義と個人の都合の区別すらついていないようなとても低劣な印象を受ける内容が多かった様に記憶しています。 まあネット上で活発に議論している人たちの多くはあまり頭、もしくは精神が強くないタイプも多いでしょうから、そういうのばかりが目につきやすい確率性を考慮すれば熱心にレベルの高い内容を探した訳でもない私の目にそういう低レベルなやりとりしか入ってこなかったのも無理は無いと思います。 さて、こういう経緯により、私は漠然とA派を心が弱くて自分の心が歪んでしまっているのを正当化したい一心でその主張が社会にどのような影響を及ぼすかを考えられないとても自己中で惨めな発言者という印象を持っています。 正義とは これを簡単に答える事はもちろんできないのかもしれませんが、我々の日常に横たわっている我々の目に映る範囲にある善悪などは当事者で話し合えばそれほど難しい区別ではないものがとても多いと思っています。 それを議論するスキルがないから、あるいは議論したら自らの悪性を自他共に認め受け止めなければならなくなる等の下らない理由から議論をせず、自己正当化という自己欺瞞を持ち出して来て「正義など立場に寄って変わる」という主張をするに至っていると私は見ていました。 潔く、現状正義ではないとしてもより正義であろうとし、誠実であろうとし、愛他精神を養い、そのための自己犠牲精神を養いしようと努めている者同士が対話するなら、話し合いにそれほど苦慮はしないケースが圧倒的に多い筈だと思っています。 それをせずに半ば欲望のままに生き、正義の実行よりは利益の追求をするような精神性の人間が何人集まろうと、その人たちがどれだけの学歴を持っていようとろくな結果にはたどり着けないのは私から見ればしごく当然のリンゴが枝から離れれば地に落ちるという位の必然です。 そんな人が多い中「正義など立場に寄って変わるもので、そんなものは幻想だ」的な発言をされても全く関心が持てないので耳を傾けずに通り過ぎてきました。 最近A派の主張を私が耳にする事が無くなって来たのはA派の愚かの多くが露呈したのか、正義を掲げるものがA派を認めて受け入れて世の中のある程度の地位を確立して主張する必要がなくなったのか、双方”答え”に至る事ができずに何も明らかになっていないまま争いを好まない為に放置されているだけなのか、etc。 まるで世の中には100:0の概念しか無いかの様な「100%の正義なんてありえない」で結論となる議論も私には意味がわかりません。 3:7ならおのおの3と7の分だけ改めるべきものがあったという事が解る訳でしょう。 それならどちらが正義だとかという不毛な対話から離れて先ずはおのおのの3と7を改めるのが強いて言えば正義ではないでしょうか。 A派の主張が”正”となるケースもあるでしょう。 でも結局世で発言している大多数のA派は私から見ると100:0の見方しかできない本質からかけ離れている知能レベルの人たちに見えています。 見ていて不愉快なだけなのですが、皆さんはどう思っていらっしゃいますか? お酒を飲みながら気軽に書き込んでしまっているので、文面がおかしかったりなどしたら申し訳ありません。 内容が内容だけに熱く返してくださる方の存在もあるかもしれませんが、一方通行な勢いだけの理を感じない、対話の成功の可能性を私が期待できないタイプの発言は無視させて頂きます。 余白といいますか、ゆる~くと言いますか、ナローマインド的なやりとりではなくオープンマインドなやりとりを期待しています。 よろしくお願いします。
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- amenhotep2000
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Urbaniteさん。 こんばんは。 Urbaniteさんへ愛を込め、ラスト回答します。 お礼を読むに、Urbaniteさんも聖書を熟読しているようですが、私には、すべてを極めつくし、むなしい、むなしい、と言う、コヘレトのような、言葉に聞こえます。 しかし、コヘレトも言っています。 「善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事を過ごすな、愚かすぎるな、どうして時が来ないのに、死んでよかろう。」コヘレトの言葉 7章16節~17節 先に回答したように、コヘレトも中庸を説いています。 Urbaniteさんは賢すぎます。私にはUrbaniteさんの賢さのプライドが強く、お礼から感じられます。 しかし、コヘレトは本当に、すべて極めつくしたのでしょうか? シラ書にこんな聖句があります。 「誰も主の不思議な業を極めつくすことはできない。人が極めつくしたと思った時は、まだ始まったばかりであり、途中でやめてしまうと徒労に終わる。人間とは何ものか。その存在意義は何か。その行う善、その行う悪とは何か。人の寿命は長くて百年。しかし永遠の眠りは測り難いほど長い。大海のひとしずく、砂の中の一粒のように永遠という時に比べれば、この寿命はわずかなものにすぎない。」シラ書18章6節~10節 この聖句をニュートンの名言にすると 「私は海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりも、なめらかな小石や、かわいい貝殻を見つけて、夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。」 自然は美しい!私は、好奇心旺盛な、海岸で遊ぶ子供であり、まだまだ、知りたいことがたくさんあります。死ぬまで追求し、かつ自己成長(ベルクソンの言うところの純粋持続)のため人間関係はあまり気にせず悩みません。 むむ、昨日、満月をむかえた月が今日も美しい。 比例式と幾何学だけで月までの距離を測った、古代ギリシアのアリスタルコスに倣い、月までの距離を測定し、現代科学が導き出した月までの距離が間違っていると、いちゃもんをつけてやる! では、測定に向かいます。 God bless you. 誰か私のこと、うわさした?(笑)
- amenhotep2000
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Urbaniteさん こんばんは。 一日、この議論を放置し、誰か他の方が回答し、考える材料になればと思っていましたが、どうやら、このテーマは、あまり関心がない方が多いようです。 このまま、urbaniteさんと2人で討論していたら、建設的なやり取りでなく、論争になりかねませんので、この回答を最後にします。 「正義」とは、まことに難しい行動と思っています。先にあげた、「義」の武将、上杉謙信も関東管領という大義をかかげ、関東の北条氏の小田原城を取り囲み、後一歩まで、攻め入みましたが、自国の越後で、兵がいないことをいいことに反乱が起き退却せざるを得なくなりましたし、石田光成も関が原の戦いで「義」を掲げましたが、やはり本人の徳や器が家康より、小さかったのか、明治になって日本に来たドイツ人の兵法家が、陣形を見て西軍の勝ち、と言ったエピソードがある有利な条件でも、結局、日和見の大名や寝返りにより、敗北しました。 人は「正義」より「都合」を重視してしまう傾向が多いのではないでしょうか? もちろん、正義を否定するわけではありません。自分が正しいと思う声を上げてくれる人がいないと問題が起きていることに気づきません。 ご質問の 「なぜ、そのストレスが生じているのか」が問題ではありませんか? 「何が戦争を引き起こすのか」を知り、それを回避する工夫こそが必要なのではないでしょうか。 という問いに提案があります。 確かに、Urbaniteさんのアプローチも一理あります。 しかし、最近、哲学者のカール・R・ポパーについての本を読みましたが、ポパーは、こう言います。 Q.「何が我々の知識の根源であるのか?」 A.「我々の知識には、あらゆる種類の根源があって、そのどれもが権威をもたない。」 Q.「経験主義者の、どのようにして知るのか、その言明の根拠はなにか?」 A.「私は知識の根源に関する問いをまったく別の、いかにして我々は誤謬を検出し除去できるかという問いに置き換えることを提案する。」 ポパーの考えに賛否はあると思いますが、ここから学べることは、問いを立て直すことが思考する時、有効なのではと考えます。すなわち、 「なぜ、そのストレスが生じているのか」→「どうしたらストレスが起きないか」 「何が戦争を引き起こすのか」→「どうしたら戦争を抑制出来るか」 答えは簡単です。「愛」・「慈悲」・「仁」です。 これらは、もともと生物の生殖による、種の存続という行為が基礎であり、人間という生物においても重要なことです。ただし、高度に脳が発達した人間において「愛」なるものが「感情」によるものか、あるいは「理性」も関わっているかは私には分かりかねます。しかし、「愛」を否定する人はいないと思います。 しかし「愛」といっても好きな人同士でも、難しくすれ違うこともあるでしょう。 私の世代では、邦楽では、こんな曲になります。 https://www.youtube.com/watch?v=NP60Qqjfdhs&index=60&list=PLH8SlvExlZpGE15cTTg6KScRAAAJPiRK3 https://www.youtube.com/watch?v=JvUucAXIS3g 愛とは何であるかをシンプルに説いた洋楽では https://www.youtube.com/watch?v=3G-qAKmACDE 私が、「正義」など掲げる世の中でないようにするための、スローガンは、簡単です。 「明日は今日より一人だけ多くの人を愛そう!」 最後にこの曲でシメます。 https://www.youtube.com/watch?v=ezD9fndbeyw
お礼
こんにちは。 ごめんなさい。外部リンクにはよほどの興味がない限り行きません。 従って見ていません。 あなたは自分の課題が把握できていますか? もし把握できていたら、準備が整った時にお会いしたならその時に改めてお話ししましょう。 私は私の私なりの課題は見えています。 もしあなたに解るなら、最後にこれだけは教えて頂いても良いですか? 優しく言えばその優しさの心地よさに浸り言われている内容が耳に入らない。 厳しく言えばその厳しさ故に心を堅くして聞き入れない。 中間で言えばその場は聞くが、すぐに忘れ去る。 故に彼らは悟る事がなく、言動も改まらず、社会を歪め、世界中に迷惑をかけながらもそれを自覚せず、今日も権利を主張し、義務は可能な限り放棄する。 自らを責めるものには「正義を振りかざすのは気持ちがいいから」と言い、自分を省みる事なく他人に濡れ衣を着せて自分は再び夢の世界へ帰り、世界を歪める自己レベルを保つ事にいそしむ。 犯罪は犯していない。 日本(先進国)に限って言えば大多数が行っている事だから罪の意識もない。 何が悪い。 人を責めるあなたは何者かと壁を白く塗り重ねる事に専念する。 そして自分たちと異なるものを受け入れられない狭量によって他人を沈黙の内に自らに同意させ、ゾンビがゾンビを生む様にその数を増やしていく。 ここまで聞いても「なんて悲しい人だ」と相変わらず他人事。 こういう人の間でどういう風に生きれば良いのか解らないんですよね。 チンピラレベルの人が居ます。 普通の人が居ます。 良くできた人が居ます。 普通の人から見ればチンピラレベルは早々に改めてほしいと思うでしょう。 バカ者のせいで余計な決まりができて何事もなく過ごしている人間が無意味に狭い思いをしなければならない経験は誰にでもあるでしょう。 自分よりも社会的に害度の強いものには平気で心を冷たくし、否定し、そうしている自分を正義だと思うが、自分の害度を指摘するものには「正義を振りかざすのは気持ちがいいから」と言い、どこまでも逃れようとする。 と言われても自分は決してそうではない、むしろお前ではないのかと考える。 対話すればかなり明確に浮き出る事なのにそれをせず、適当なところでお茶を濁してふんぞり返る。 そして自分と違うものを許容できない狭量によってまた沈黙のうちに従わせる。 相手の言っている事の意味を考えようとはせずに、常に抜け道を探している。 こういう人たちの間でどうやって真っ当に生きたら良いのか解らないんですよね。 これが私の課題です。 もう結構長い間悩んでいます。 あなたはこれに対して何か回答をお持ちですか? お持ちでしたらぜひ教えてほしい。 もしお持ちでなければ仰っている様にこの回答で最後で良いかと思います。 では。 淡い期待を抱きつつ。
- amenhotep2000
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urbaniteさん おはようございます。 痛いところをついて来ますね。確かに私は現実逃避をして回答しているのかも知れません。 しかし、戦国大名で「義」の人と言われた上杉謙信でさえ、兄の長尾晴景が病弱で統治能力がないため、家督を継がざるを得なかった時に、逃亡してます。俗世でない、僧侶の方が、よほど心の平安がとれると思ったことと思われます。 ノーベル平和賞を受賞したマララさんは国連のスピーチで、「One child, one teacher, one pen, and one book change the woeld.」と名言を言って、ひとつの正義を示したと私は思ってますが、10代で良くこのような言葉が言えるという思いと共に、これから、世界のリーダーとして生きていく宿命を背負うことになったことについて、10代では、かわいそうではとも思っています。平和な日本で、学ぶことについて不自由なく育った私は、10代の頃は、受験戦争世代ということもありますが、暗記ばかりで、物事を考える思考能力などありませんでした。 前書きはこのくらいにしておいて、本論の「正義」についてurbaniteさんの見解を聞きたいことがあります。 人間は考えると言う「理性」を持った進化の頂点にいる生物なので、下等な生物も持ちうる「感情」は劣っており社会ではセーブすべきだ。という命題です。 先に回答したように、私もストレスを感じているときに、相手から感情的に主張されると、自分の考えを感情的に述べることがあります。 また、やってしまった。と反省はしますが、現代日本において、相手も衣食住を確保するためにストレスがたまっているんだなぁ。と思って私は相手の態度も肯定します。怒りというマイナスに判断される感情ですが、たまには、たまった感情を吐き出すというカタルシスというのは、心の浄化のため、いいのではないでしょうか。 人間という生き物は「理性」だけでなく「感情」を伴ってこそ人間であり、そのため完璧な人間でなく不完全な生き物であると思っています。 話を「平和」というひとつの「正義」を例としましょう。 案保法案が国会で可決されましたが、法案に対し、賛成、反対の2つの立場から主張をがされています。 この判断を行う時、各個人は「理性」の判断でどちらかの立場を選択すると思います。そして、同じ主張の人が集まり、ひとつの大きな「正義」をかかげる「集団」となります。 私は「正義」を行動するにあたり、気をつけないといけないと思うことは、この「集団」というものになった時に、最初は「理性」で行動していたのに、いつのまにか「感情」のほうが上回り、カタルシスの行為において大きな暴力や暴動となる危険性です。 私は戦争は体験しておらず知りませんが、人間の理性のかけらもない戦争には反対し平和を望んでいます。 戦後70年を向かえ、実際に戦争を体験した方々が、もう話す機会がないからと体験談を述べて、記録されています。 私はその体験談から戦争というものを知るしかすべはありません。ここで重要なことは、戦争というものをいかに「理性」という理屈でなく、体験者と一体となった「感情」で認識できるかが大切ではと思ってます。 戦後、焼け野原から日本をここまで発展させた、戦争体験者は、その経験から、二度と戦争はしたくない。亡くなった、愛する家族や友人、戦友のためにも生きなければならない。という、「理性」ではなく、むしろ「感情」が日本をここまで成長させうるエネルギーになったのではと考えます。 安保法案が通ってしまった中、今後の未来の人達が、戦争の悲惨さをどこまで、体験者の記録から、「感情」を読み取り、平和を維持できるか。それが国民が出来なくなった時、時の為政者が国民という集団のカタルシス(ガス抜き)のため安保法案を拡大解釈し戦争を行うことは否めないと思います。先の大戦や秀吉の朝鮮出兵など、国内ではなく海外に国民に目を向けさせ、為政者が国内の不満を除こうとしたことは、歴史が教えてくれます。 urbaniteさんは「正義」と「理性」と「感情」をどのようにお考えか、見解をいただけると幸いです。
お礼
こんにちは。 すみません。 少し飲んで帰ってきましたので、お酒が入ってしまっています。 もし変だったら遠慮なくツッコミを入れてください。 上杉謙信のお話しは存じませんが、仮にもし私がその立場だったとした場合、仏門に入ろうと考える理由は真理を追究したいからだと思います。 心の平安は真理の追究がかなり進んだ状態に於いて得られるかもしれませんが、心の平安が目的ではありません、私の場合。 でも、真理を追究し始めると初頭にである葛藤もあります。 家督を次ぐという事は多くの人の人生に関わる大事ですから、真理を目指す誠を備える人間としては様々な葛藤を覚えない訳にもいかないでしょう。 心の平安というやや個人的な理由はそこではそれほど問題視されないと思います。もし仮に私だった場合。 見方は一つではないという事を表現したくて申し上げています。 今の私は世間に毒されすぎて10代の頃よりも劣っているものがいくつもあります。 「所謂普通の10代」とはかなりかけ離れた人生になり、同世代との接点があまり感じられない孤独感などはあるかもしれませんが、それを補ってあまりある生き甲斐みたいなものを持っているとも言えます。 「かわいそう」かどうかは彼女の事をもっと知ってから言わないといけない言葉かなと私なんかは思います。 さて。 私は以前、神秘体験をした事があります。 文字通り神秘体験なので言葉で表現するにはたとえ話を用いるしかないので、若干ニュアンスが異なってしまう可能性がありつつも仕方なくたとえ話で申し上げます。 1000,000人の集団があったとして、その一人一人が完全に自由に振る舞ったら無秩序の極みで放っておいたら大勢の死人が出る状態を連想するかと思います。 でも、私が見た世界はまさにその通り一人残らず魂の底、命の底から完全に自由に命の躍動をほとばしらせて「今」を無限大%謳歌しているのですが、全員の意識が完全に一致しているのでそれほどの躍動感の中にありながらとても「静か」だと感じるのです。 人の本質は感情と言っても過言ではないのではないでしょうか。 感情をセーブしなければならないのは、感情が幼く未熟だからではないでしょうか。 子供の頃持っていて表現していた感情をそのまま持ち続けて大人になった人が居たとしたら、その人は秩序に沿えるでしょうか。 私はそうは思いません。 でも、多くの大人が無理している感覚もなくごく自然に秩序と感情のバランスをとって生活しています。 これは「感情の昇華」が成功している証とも言えるのではないでしょうか。 「感情」は変化するのもで、成長するものです。 また、一人の感情が昇華していたところで、その他大勢の感情が幼いままであるならその一人の感情の昇華もあまり効果を発揮しない。 これはキリストが「いつまであなた方と共に居なければならないのか」と嘆いていたり、賢者でも虐げられれば狂うと書かれている事等からも解ると思います。 バカに囲まれて生活する事は誠に「虐げ」です。 相手から受けるストレスに対して感情的に返してしまうのを禁じたらそれは「過ぎた」拷問でしょう。 ストレスを与えたならば、与えた相手から感情的な反応が返ってくるのは至極当然と考えなければなりません。 でも、あまりに甘えや無責任などの度が過ぎて受けるストレスに対して感情的になるならその人の感情的反応はコテンコテンのギランギランに返り討ちに会っても致し方がないのは言うまでもありません。 「衣食住を確保するためのストレスが溜まっているんだなぁ」はそういう姿を見なくても100人居れば100人が感じている事でしょうからそこで初めて感じるものではありません。 「なぜ、そのストレスが生じているのか」が問題ではありませんか? 私も集団になった時に起こる暴動は大きな懸念事項です。 暴動を起こすバカどもの為に自分の行為を台無しにさせる訳には行きませんしね。 だから志しが同じかどうかは大前提の上、暴動を起こしかねない人物か否かは慎重に吟味しなければなりませんし、先にも申し上げた様に賢者でさえ虐げられれば狂いますから、そうならないための工夫を凝らす事も必要でしょう。 戦争を経験し、戦争がいかに悲惨なものかを経験によって知っている人が、街を歩いていて暴漢に襲われそうになったとします。 彼の横には愛する人も居り、自分が抵抗しなければこの愛する人の身に何が起こるか解りません。 この時彼は「戦争は悲惨だから」と無抵抗で自分と愛する人を相手の好きにさせるでしょうか。 戦争の悲惨さを知っているのか否かが問題なのではない様に思います。 「何が戦争を引き起こすのか」を知り、それを回避する工夫こそが必要なのではないでしょうか。 感情で認識できるか否かは戦争体験者のカウンセリング領域と、ちょっと低過ぎると言えるのかもしれない戦争反対意識を持つ人間にとってもう少し進んだ理解をするため以外にどのように役に立つのか私にはよく解りません。もちろん上記2つはとても大切な事である事は言うまでもありません。 「感情」だけが高度成長期の担い手でしょか。 大きな原動力であったではあろうと思いますが、理性がその原動力を制御してこその「成長」ではありませんか? 感情という原動力だけでは仰っている様な暴動にもいとも簡単になるでしょう。 さて。 キリストが一人の民に「良い先生」と呼ばれたとき、「何故私を良いというのか、良い者は主の他にはない」とキリスト自身が「良い者の座」を放棄してしまっています。 つまり、言葉に表現できるような範疇にはもちろん、この世に真の意味で正義と呼べる「良いもの」など無いというのが私の個人的な本音です。 でも、キリスト教界隈を抜きにして人間しかこの世には居ないかの様な概念で日常動かなければならない現実の事情というものもあり、その「現実用」に私は自分の中に一つ枠を作っています。 その枠内で言うのなら、正義とは人格と言います。 マイケルサンデルの哲学の授業に出てくる様なお題ですら私にはこれが絶対の答えだなんてものは出せません。 その場その場で精一杯「誠」と「真」、即ち「命」を発揮して最良の答えを導きだすよう努力する人格とでも言いましょうか。 「感情」はそこにある要素、「理性」は感情を操舵する舵のようなもの。 これは聞かれたから答える私の「正義」「感情」「理性」に関するいくつかある表現方法の内の一つです。 聞かれたから答えただけで、これを公正の概念とする気はない事、純粋に個人的にはこう思っているだけのものという事は念を押しておきます。 十戒は正義そのものではなく、真の正義を知るための教材だと私は考えています。 だから、「殺すな」がいつなんどきどんな場合に於いても絶対の真理だと私は断言しません。 教材はあくまで教材。それ以上でもそれ以下でもありません。 教材には限界もあり、その限界を超えた領域では覆ってしまっている様に見える事もあるでしょう。 まあ、お酒を飲んでしまっているとは言え、それほど酔っぱらっている訳でもない(と思っています(*^^*))ので、しらふでも似た様な回答になるかと思います。 ご満足頂けましたか?
- sutorama
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例えば親が子どもに聞いてみて、気づくことがあると思います へたしたら人生観が変わるほどの単純で明快な答えがそこにあるやもです そこから見出されるモノのひとつに、相手を非難・否定しないというものもあるでしょう 最近、ちまたに蔓延している正義は、相手を非難し否定することで、自分の言葉(正義?)を正当化(手段?)するようになってきています しかし単純に、子どもの中にはそんなものはなく、分からないモノは分からないと言うだろうし、難しいことは難しいと言うでしょうし、まして人を避難してまで自己の正当性を誇示することもないかと思います(ウソつきは別として) 故に書かれている、自分の行動範囲内で話し合いができる相手には、そんなに求めることはなくても良いのではないか?と思います 以前書かせていただいた通り、同調する人だけで集まり「私たちは正義だ、これだけの人数がします、正しいでしょう?」と言っている人たちに嫌気がさしていますので、そんなことよりも、普段の生活の中で、色々な人と単純に「あれってどう思う?」「なるほどね」ぐらいのことができれば、お互いに何らかのモノが培われると思います そのような会話や生活の中で「私はこう思います」と言えるほうがステキで、相手を論破するだけの資料を集めその中に漬かり「私はこう思います」と言われても、前に書いた「違う主張」(違和感)に感じてしまうのです だから、自己の正義をかざしている人のなかで、こいつの正義はウソっぽいなという人には同調がしづらく、ひややかな感覚が芽生えてしまいます そのような人に、相手のことを否定・避難せずに自分の正義を語ってみろ・・・と言いたくなりますね
お礼
こんにちは。 何かの経験がおありなのですね。 経験があると多くの事を学べますが、時として認識が歪んでしまいます。 私を論破できる人には私は会った事がない、というか論破された事がないし、論破しようとしている相手に対して釘を刺す事で不毛な会話を避ける工夫もこらしています。 でも、論破する方は安い優越感や内心不安だったものに関する支えのようなもの位しか得られないかもしれませんが、論破される方は新たな境地の発見です。 論破される方は論破するのは手段でその目的があるでしょうから、その相手の目的のために何かを失う事があるかもしれませんが、新境地である事に間違いはないでしょう。 そんな安い輩に奪えるものなどあっさり差し上げてしまえば良いと思いますし。 大人の議論も基本的には子供のそれと同じだと思います。 解らないものは解らない。違うと思うものは違う。そうだと思うものはそう。 問題なのは「違う」と言われた時、「解らないと言われた時」、または「そうだと同意されても真実は異なっていた時」ではありませんか? 「なるほどね」「どうおもう?」位のやりとりがどの位の深さというか厚み奥行きの元に仰っているのか計りかねますが、曖昧でなあなあの真実などどうでも良いという人の意見にとる事もできます。他の部分の発言を踏まえて。 そういう人が相手の正義が嘘っぽいと冷ややかになったとしても、自己を支える概念の崩壊に対する無意識の自己防衛か何かの場合もあるでしょう。 相手の事を否定、非難せずに正義を語ってみろというあなたは相手を非難していませんか? あなたはそんなつもりはありませんよね? 人が何かを語る時、相手がよほど物わかりが良く誠実な人でない限り今自分が語っている内容を保護しながら話さなければならない状況は珍しくありません。 その保護の方法が不必要に相手を否定、非難するというやり方ではなく、別の方法をとれればベターというだけで、否定が必要な場合も非難が必要な場合もあるのかもしれないとは思いませんか? 例えば、今爆弾テロを起こそうとしている人が居て、火薬の量が解らないから教えてくれと聞かれたとします。 あなたはきっと「火薬の量とかそんなことよりも、そもそもテロなんかやめなされ」と言いませんか? モラル系は爆弾テロほど解りやすくないので、低劣な非難の応酬に見える事もあるかもしれませんが、今まさに爆弾が落とされようとしているのと同様な概念を広めようとしている場には良く出会います。 甘えた無責任な輩は、自分の甘えと無責任が通ればそれで良いだけなので、世界を壊そうとなんて思っていない個人の権利を主張しているだけのように考えがちですが、甘えた無責任な輩が増えると社会が腐る/歪むんですよ。 自分たちだけが腐って腐敗臭の中で暮らすならそれも良いでしょうが、なんでそうでない人まで腐敗臭に苛まれなくてはならないのでしょう。 これは否定すべきですよね? 否定されて嫌なら少なくとも論破くらいしてみたらどうかと私は逆に思います。 とはいえ、世の中言葉で説明できるものばかりでもありませんから、正義を振りかざす側も文字通り限度を超えて広い視野を持たなければならない。 さもなければ仰る通りの低劣な非難にしかなっていないケースもある事でしょう。 ただ、大切なものはいつも私たちと共にあります。 それを守るか守らないかは刻一刻の私たちの認識や判断にかかっているんですよ。 甘えた無責任小僧どもにそれができる訳ないとは思いませんか?
補足
補足です。 10,000回ゴミみたいなものを見せられた直後にダイヤを見せられてもウンザリ気分のままゴミ同然に認識してしまいます。 一昔前のサスペンスものなどにはよくあった「招かれざるものからの電話」が続いた直後に大切な相手からの電話が鳴り、その相手に向かって「いいかげんにしろよ!」などというあれです。 でも、最後の電話は確かに大切な電話なんです。 10,000回ゴミを見せ続けられた直後といえども。 似ている=同じ ではありませんよね。 その区別をつけなければダメです。 私がここで否定しているのはどれも抽象的なものばかり、もしくは質問形式でしょう? 具体的に否定しなければならないものは具体的に調査した後でなくては否定すべきものか肯定すべきものか解りませんし、否定すべきものが対話相手に感じられたら「そうなのか?」と聞いて確かめなければ正しく認識できない。 否定するための調査をする人も沢山居るんだと思います。 病んでいる人多そうですからね。 でも、肯定するにも否定するにもいずれにしろ調査は必要なんです。 その後に否定すべきものと判定されて否定されたなら、それは否定姿勢ありきの調査だったのか、本物の調査だったのかは自省心なくしては判別できないでしょう。 一説に寄ると、神の大天使であるミカエルと魔王であるルシファーは双子の兄弟だというお話しがあります。 正義を軸に自らを正義としようとしているなら、少なくとも正義からは外れる事ができない筈です。 それならそのまま正義に磔てやれば良いだけの話しです。 私のレベルではこれは十分に可能な事に映っています。 これができないならその人の正義もたかが知れているのではないかと考えてしまう位に。 もちろん私は全知者ではありませんので、一つ二つ段階が進めば考えが変わるかもしれませんが、今のところ「可能」と判断しています。 冷ややかになんてなる必要は全くないように思うのです。 相手に論破されたら相手の正義の方が勝っていたという事でしょう?多くの場合は。そうでもなく論破されたならもっと自分を磨けば良いだけです。 五分五分なら相手の目的が卑しくても、少なくとも正義軸から大きく外れられない筈ですから、締め付け方はいくつもあるように思います。 もし正義を追求するつもりがあるなら、これだけの事です。 ただし、正義を追求するならの話しです。正義を求めるだけなら自分はそれほど正義に近くないと自覚して正義を語ろうとする事事態を考え直した方がいいかもしれません。 「追求」と「求める」を区別した理由は解りますか? 正義は与えられるものではなく、(本来はそのはずだと思うのですが。。。)勝ち取るものという側面が結構大きいんです。 これは勝てば官軍、死人に口無しという意味ではなく、ダイヤに降り掛かるほこりをそのままにしていたらダイヤの価値はゼロも同然ですよね? ほこりは常に取り払ってきれいに輝きを放ってこそのダイヤです。 このほこりを取り払うという作業は「正義」という対象の場合結構骨が折れる事もあるんですよ。 てあなたがこれらの事を解っていない様な口調で書いてしまいましたが、そういう意味ではなく、私はそう思っていますがあなたはそうは思いませんか?という補足です。
- amenhotep2000
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Urbaniteさん おはようございます。 お礼ありがとうございました。すぐに回答しようかと思いましたが、今週は根を詰めすぎ疲れており、一晩考えた上で回答します。 余談ですが、私は、この哲学カテにそんなに頻繁に投稿はしません。私は争いが好きではなく、論争はしたくありません。しかし、自分が回答したことには責任を持つため、いつも熟慮の上で回答をしています。 そのような性格の私ですから、先に上げた、正義が「義」「勇」「仁」から成っていたとすると、私に欠けるものが「勇」かもしれません。 しかし、プラトンは善悪を見分けられないのなら、悪は「勇」ではなく「粗暴」であると言っていますし、「武士道」にも出てきますが、東洋的に言えば「匹夫の勇」になりかねません。 そのような中、私は善悪を判断する「分別」というものを大事にしています。 「分別」はラテン語でdiscretioと言います。この語源を遡ると、ギリシア語のdiakrisis「切る」「離す」「区別する」やmerton「測定する」「制限する」「適度にする」と言う言葉に行き着き、倫理学的な意味では、「節度」と「中庸」を表す言葉だそうです。 「何事も度を過すことなかれ」という格言や 聖書には 「食べるものと着るものがあれば私達は満足すべきです。金持ちになろうとするものは、誘惑・罠・無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。その欲望が人を滅亡に陥れます。」 テモテへの手紙6章8節~9節 とあります。 私は衣食住と「知る」楽しみが確保されたら人生十分です。私の欲望は「知る」ことです。 物事を良く「知り」かつ「考える」ということは「正義」にも繋がることと思います。 司馬遼太郎の「坂の上の雲」、全8巻は大学時代に読みましたが、数年前テレビでも放映され、原作に書かれていたか覚えていませんでしたが、日本海海戦で参謀となる秋山真之が若かりし頃、海戦において自分の判断ミスで部下を死なせてしまったことに悩み、軍人として生きること苦悩する時、東郷平八郎に、 「物事の判断をすぐに決断することは、そんなにたやすいことではない。それには、長く考えて、考えて、考え抜く経験が必要だ。その上での決断だ。自分がミスを犯したと思うなら、考え抜け。」 という助言をされ、秋山真之が成長していくシーンがありました。 日本海海戦において、バルチック艦隊と戦うに際し、秋山真之の「丁字戦法」が採用されましたが、これは敵艦の進路を塞ぎ、艦隊を横にすることで戦艦の全大砲が使えるという利点がありましたが、取り舵いっぱいの左旋回の時間中は砲撃を出来ず敵の砲弾にさらされるという欠点もありました。また、それを恐れ、早く旋回すると敵にも察知され、進路を塞ぐことは出来ません。 東郷平八郎は絶妙なタイミングで取り舵いっぱいの決断をし、バルチック艦隊に勝利しました。 このエピソードから、私は行動には「時」というものが、大切と思っています。 「正義」というものは、いつも振りかざすものではなく、「時」を得たときに決断するものではないでしょうか? その「時」を見分ける決断力というものは東郷平八郎の言うように、考えて考え抜いた末、やっと身につくものと思っています。 本を読んでいると、過去の偉人たちの背中がいかに大きいものか知ら示めさせられます。 私のような若輩者が真の正義を行うには力量不足を感じます。 もっとも日常生活においては、私も自分の良心の善悪判断で行動します、しかし、自分が善と思って行動したことが「正義」という言葉になりえるものかどうかは、はなはだ疑問に感じている次第です。 おっしゃるとおり、私は「正義」についてこのように深く思考したことがなかったと思います。しかし、現在、私の人生において「正義」というものを考える「時」というものを得たと思い、また他にも多くの回答が寄せられ、考えるきっかけになればと思いつつ、再回答します。
お礼
こんにちは。 もし万が一私が先のお礼で申し上げた「関係性を立つ事によって冷静を保でもなく」がわずかにでも呪縛になってしまっているとしたら、全くお気になさらなくて結構ですからね。 >責任を持つため、いつも熟慮の上で回答をしています。 さすがです。 見習うべき点です。 ただ、同時に口を開いてからでないと解らない事も結構あります。 私はこれに甘えて軽々しく口を開きすぎるタイプですので、あなたのそういうところを見習いつつ、事実は事実としてこれからも慎重になりすぎないように気を配りたいと思います。 対話はお互いの寛容などの要素がないと成立しませんからね。ある程度強引に相手の寛容を引き出す事が必要な場合もありますし。 「義」と「仁」が正義、「勇」を力だとした場合、次の言葉にはどういうお考えをお持ちですか? 「力のない正義は無意味」 また、ご存知であればで結構ですがこちらはいかがでしょう。 「10万円を主人から預かった3人の僕の内、1人は10倍に、1人は5倍にしましたが、1人は地中に隠しておきました。それを聞いた主人は、怠け者の僕だ、それなら銀行に預けておいた方が利子の分良かった」 仏陀はこう言ったそうです。 「すべては終わってみないとそれが何であったかは解らない」 私は仏教徒ではないので本当に仏陀の言葉かしりませんが、ある程度真理かなと思います。 分別は洞察によらないとできないでしょうが、洞察が育つためには経験も必要です。 本からの知識だけでは観察する事しかできず、観察しているだけならいつまで経っても分別が出来ないから自分には何も言えないという事になりかねません。 世界がどうなっても良い人ならそれでも良いでしょう。実際そういう人は沢山居ます。 謙虚の名を語る無責任というやつです。 今の日本で、衣食住+アルファがあれば満足だと思う人は結構沢山居ると思います。 でも、その衣食住を安定させるためにはどんな事をする必要があるでしょう。 自分一人で死ぬまで生きていくつもりならそれほど多くの事はする必要がありません。 でも、例えば男性が結婚をしようとするなら、相手とその家族を安心させるだけの安定性を示せなくてはならない側面など色々と出てくる。 「あたりまえ」を手に入れ、維持するために頭も心もハートも弱い上に世界最高峰水準の暮らしをしているという自覚に疎いまだよこせ、まだ必要だと常に思っているような人たちが納得できる手法をいくつもこらさなければならないケースが結構多いのはご存知ですよね? こういう社会の中で衣食住+知識欲が満たせればとは、恐らく既に結構な事はしていると予想されます。 別にあなたを責めている訳ではなく、私を含めて今の日本では「あたりまえ」の維持がそれほど色々な行為を伴わなければならない状況にあり、皆それを余裕綽々でできている訳ではないので心の弱い自分を支えるために自分の欠点を見ず、それが成立するために他人の欠点も見ない様にし、自分の弱さで歪んでしまっている分は世界観を歪める事によって対応し、ありもしないゴーストをやり玉に挙げてその場しのぎをする。 これを世界中の人がしたら世界など簡単に歪み、地獄絵のような世界になるのはリンゴが~。。。何度も言い過ぎですね(笑) >物事をよく知り、考える事は正義にも繋がる。 私もそう思います。 「時」は確かにあるのでしょうね。 でも、ではその「時」はどうやって知るのでしょうか。 「今でしょう!」はもうやや古いですかね。 自分も他人も波風を嫌う風潮の中で「時」なんか来るのかな?と私なんかは思う面もあります。 東郷平八郎さんは行動しながらその行動にかかる重圧や刃の様な自分への降り掛かる現実などに絶えながら考え抜いたのですよね? ただ安穏と机の上で考えていたのではないと思いますがいかがでしょうか。 重ね重ね言いますが、別に私はあなたを責めていません。 私が今まであなたに言った事を全部していたなら私ももう少し自分の「時」を早める事ができていたでしょうから。 ただ、「時」が来るまでの間は芽が出る前の地中生活のようなものです。 その弁えと地中生活でもただじっとしているだけではダメで、他の根が邪魔してくるのを阻止したり虫に対抗したりしつつ上を目指さなければ芽は出ませんよね。 「地中生活」もバカにはできないのだからもっともっと精度を上げないといけませんねと思っているだけです。 仰る様に、「日常生活に於いては自分の良心の善悪判断で行動する」のですから。 日常の善悪判断も正義に基づいている以上正義ですから、地中生活中でも正義の実行は可能な訳です。 「ご回答お待ちしております」 とだけ書き込むつもりがつい長くなってしまいました(^^;A) ご回答お待ちしております。
補足
何か辛く当たっている様な内容ばかりになってしまっているので、蛇足かもしれませんが念のために申し上げておきます。 もし私があなたと知人だとしたら、私はきっとあなたの事が好きです。 とても真面目で誠実な個性の方がこの世界のどこかで暮らしていらっしゃる事を知れるだけでも大変価値ある事です。 あなたの個性に対して感謝しています。ありがとうございます。
- sutorama
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正義というモノはその人の培ってきた人生の中から出たものであってほしいとは思います 例えば、いじめ問題などは報道されることでムーブメントが時折起きますが、その時に、各家庭内(家族)で「いじめってどう思う?」「いじめられている人がいたらどうする?」などと語り合えていれば、少なくともいじめ件数の分母が減っていくと思います 今回の安保法案にしても、周りの仲間や家族、学校などで普通に話し合えたりすれば、それはそれで、物事を決めていくヒントを培うことになるでしょう 故に、蓋のようなものがあるとすれば、そのさもあたりまえのような光景が、日本から消えつつあることだと思います また、自分の行動範囲内で「いじめについてどう思う?」とか「安保法案に賛成?」などと言える雰囲気でない場合、まさに蓋を自分でしてしまう性格が身についていると思います そのように本来、何かの答え(自分なりの正義)をだすために思考を培えるチャンスを失っている中で、聞き心地の良い言葉や熱い言葉に感化されただけで「これが私の正義」と言ってしまうモノがあると同時に、ネットでの繋がりに左右され、同調し合えるモノだけで集まる思考が蔓延しています 本来、自分の正義にしたがい行動し(投票など)さえすれば良いのですが、同調を求める行為(手段)に熱くなれるので、そもそも目的自体があいまいな側面もあるかと思います あいまいであるからこそ、いざ議論となれば、相手のモノ言いに耳を貸さない事態も多いでしょう つまり、そこには正義はなく、正当化するためのあとづけの正義しか存在しなくなります そうともなれば、そのような世界(社会)では、信念が欠落しているのですから、かかれているような10年後なんたら・・・までは思考しないとも思います 話を戻すと、その人の言葉(正義)がどこから発生しているのか?まで聞きとれれば、浅いか深いかが分かりやすいかと思います >世界観を変えれば良いのです 難しいですよね 私が言う正義は、その人の培ってきた人生からにじみ出た言葉と行動であってほしいので、そうとうのショックを与えなければ、すぐには変えられないと思います にじみ出てきた答えだからこそ、行動も素直に伴うことができるかと思います 結果、家庭内でも自分の行動範囲でも常に話し合える(培える)ような環境が大切であると思いますが、書いていて理想論になってしまいますねぇ・・・
お礼
こんにちは。 >正義は人の培って来た人生の中から~ そうですね。 私も否定はしませんが、微妙です。 「ほしい」という話しをするのならば、私は子供にでも判断のつくものであって欲しいと思います。 >~正当化するためのあとづけの正義しか~ つまり俗にいう勝てば官軍ですよね。死人に口無しとも。。。 >その人の正義がどこから発生しているのか~ 深さもある程度を超えると「何をどう信じているか」の話しにならざるを得ない部分が出てくるとおもうので、深く知れば解りやすいとも限りません。 神を信じ、死後の世界や死後の裁きなどを信じている人と、そうでない人とでは基づく場所が全く異なるでしょうし、その真相を知る者は居ません。 でも、掘り返して根掘り葉掘り聞いていれば真とすべきか偽とすべきかの判断位は付けられるでしょう。当事者が誠実で真実なら。。。 >>世界観を変えれば良い >難しいですよね。 ここでは?すれ違っているかな?と思いました。 >理想論になってしまいますね~ 家庭内でも自分の行動範囲でも常に話し合える様な環境が手の届かない理想世界とお考えなのですね。 腹を割った対話でなければする意味があまりありませんし、腹を割るには対話の参加者が最低限の思慮深さを備えており、広い赦しの心を持っており、広い赦しが健全に成立するだけの律を持ち合わせていなければならず、話す側も依頼心の固まりのようであってはならず、自省心を持ち、過度に自己非難する事なく、適切な自己評価と今後の方針などを考えられる状態にないといけません。 そして言う側も聞く側もおのおの両者の立場に立っている自覚を持たないとなりませんからね。 でも、温室効果ガスも一人一人が活動しないと絶対に解決はしません。 自分だけしたって~なんて言ってたら地球は明日にでも人間の住めない星になるかも。 「正義なんて人の数だけ~」あのバカどもをのさばらせておくと真っ当に生きようとしている人たちの負担を増やす結果以外の何が生まれるのでしょう?
- sutorama
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では、辞書の文言に合わせず書きます 「目的」と「手段」という視点で書かせていただきますね 現在、2種類の人間がいると仮定します ひとつは「目的に熱い人たち」で、ふたつめは「手段に熱い人たち」です 目的に熱い人たちは、目的達成のためには手段に固執しません しかし後者は、当初は目的のためにある手段を選択したのですが、手段に熱くなってしまい、そのもともとの目的よりも手段に固執してしまう人たちです さて、では書かれているA派の人たちはどうでしょう 目的ももたず、その手段ではダメだ・・・と唱えている第三の人たちのような気がします つまり、目的も語らず、手段さえも否定する人たちなので質問文に書かれているような人たちだと思います しかしながら、正義を語るには、行動力が必要であり、行動無くしてはただの妄想的な正義です 同時にA派も妄想正義も同じで行動しないので、共に批判し合うことを議論としている現状が世の中(特にネット?)を包んでいるような気がします そのような中では、正義は存在しないという意見が正論のように思えます 私が書かせていただいてきた一連の回答は、行動力を持って正義とする手法にも疑問を感じていることで、目的を忘れ手段(行動)だけに固執してしまえば、なおさらのこと正義ではなくなってしまうという考察でした 混乱をさせてしまい、申し訳ありませんでした
お礼
こんにちは。 最後の3行に集約されていると思って良いという事ですね。 例えば悪い事をして儲けているAさんが居たとします。 そのAさんが悪い事を続けるための隠れ蓑として良い事にも儲けたお金のうちの相当額を使います。 この「良い方」に使われる場合、良い方の恩恵に預かる側からしてみれば天の恵みと言える。 もちろん、欲を言えばきれいに汗水流して働いたお金で良い事をしてほしいでしょうが、そうも言っていられない現状を私たち一人一人全員を含めて造り上げてしまっている中、Aさんの良い事の側は明らかに「良い事」と私は考えます。 100%正義なんて人はきっといないでしょう。 マザーテレサやガンジーなど含めても。 でも、その人の正義がその人の悪事に勝っていればその人はオーケーという総合評価になります。 悪事の方の被害者はそうは思わないでしょうし、そう思わない側もそう思われない側のAさんも至極当然の成り行きですから特にとるには値しません。 良い事のために行動しているのに悪評を受けている人たちが沢山居ますよね。 警察など。 警察は法を守るために必須の存在で、その行動力も能力も優れていますが、失敗したり手段が悪かったりすれば当然その非を問われます。 でも、目的が失われる事も、その目的が手段によって台無しになってしまう事もありません。 例えば人質を助けるために交渉で平和に解決できればベストですが、それが叶わず射殺してしまうようなケース。 その射殺にはもちろんメスが入るでしょう。でも人質を助けられた事事態が消える事はなく、助けられた人質はその行為のためにその後の人生を全うできます。 正義についても同じだと思います。 行動すれば良い。 でも、行動の一つ一つにもメスは入れられる。 でも、その行動が生じた目的が失われてしまう事はない。 これが長期間になったりすると、手段が目的になってしまう事は珍しい事ではないでしょう。 これは既に目的から離れているので正義では無くなっていますが、意識的に正義が失われている事と、行動の効果としての正義が失われてしまっている事とは別です。 例えばホームレスの炊き出しを清い志しではじめた。 ところが続けているうちに資金集めに没頭してしまい、ホームレスとの心のふれ合いや心の活動などといった”中身”は無くなってしまった。 でも、資金集めのためには炊き出しを継続して行うのは必須なので行っている。 既にホームレスの境遇になど興味はないがとりあえず炊き出しは行っている。 この時、正義とは言いにくい状態に変化してしまっているかもしれませんが、理由はどうあれ今日の飯にありつけるホームレスが沢山いて、冬場ともなれば大げさでなく命を助けるも同然の行為です。 ここには「効果としての」正義はあると言えるでしょう。 清廉潔白なんてきっと無理です。 汚れた手でも人に手を差し伸べる事、人と協力しようとする事、人を支えようとする事、これが大切なのであり、手を差し伸べられる人も変ちくりんな潔癖性は止めて自分の汚れた手も出せば良い。 そうすれば手をつなげる。 100:0でしか物を考えられないかの様な思考パターンは日本人の(結構深刻に)悪い癖です。 手を離すつもりでない仲間としての批判は大切な物です。 批判された時に「なんて酷いやつだ」と自ら手を離してしまうようならそれは言われた方にも結構な割合の非があると私は思います。 相手を苦しめるのが目的なのは論外なのは言うまでもないと思いますが。 とどのつまり「指摘され慣れてない」「批判されなれてない」だけの拙い社会という風にしか私には見えていません。 少なくともその他大勢的な人々の事は。 自分の発言に対する反発が怖くて何も言えない、責任を負うのが嫌で黙る、今口を開けば自分の関与したその場を真っすぐに保てるのに保身心から沈黙を選択する、etc。 全ては安定した(ここちよい)社会生活のため。 こんな1mmも自由に身動きが取れない様ながんじがらめの人たちが何かできたり言えたりする訳がありませんよね。 でもこういう人も一人前の事は言いたいでしょうから、口はよく動くわけで、その口から出た拙い言葉を正としようとするなら世界の方を歪めるしかないでしょう。 そして常軌を逸したレベルで世界を歪めに歪めた成れの果てが現状です。 まだまだ歪める事は可能です。 世界は水飴の様にいくらでも伸びますから。 早いとこ気付かないと取り返しがつかない…というか既に取り返しは付かないレベルにはなってますが、奇跡は信じなければなりませんしね。 こういう問題を含め、重大な事を考える際に自分の存在を考慮しない人は実に大勢居ます。 でも、大きな存在というものは何一つとしてなく、小さなものの集まりが大きくなっている。 つまり、自分という取るに足らない様な要素一つ一つが合わさって今目の前の事象が起きているという事。 これを踏まえる思考回路を持っていればそれだけでも大分違うと思うのですが、なぜか多くの人は自分を除外して考える。 ここには「変化を嫌う性質」が見え隠れしています。 変化に伴うリスクから逃れたい人はそのせいで世界がどうなろうと知った事ではないのです。 そのせいで10年後に大変な思いをするかもしれないが、今この1年が楽ならそれで良いのです。 10年後の事は10年後に考えれば良い。10年経過したらまた10年伸ばせば良いのです。 諸問題の対処方法の多くは自分を含める人間一人一人に依存しますが、自分を除外しなければならない以上、他人の事も除外しなければ成立しません。 その時に「組織」だとか「社会」だとかという「何かよくわからないが存在しそうな概念」をやり玉に上げる事しかやる事はありません。 核から目を背けるためには外殻を見るしかないのは当然です。 だから正義なんていう簡単な事さえも解らなくなるし、諸問題は雪だるま式に大きくなるばかり。 赦す心の欠落がそうさせているのではないでしょうか。 決められた時間内に結果を出さなければならない社会で「赦しの心」が良く育つケースが少ないのも仕方なく。 赦す心が欠落していれば臭い物には蓋をするしかありません。 蓋をして匂いが半端じゃなくなって来たら世界とは元々臭い物だよと世界観を変えれば良いのです。 ということではありませんか?
- amenhotep2000
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urbaniteさん おはようございます。 朝活中ですが、まだ眠いです。 しかし、urbaniteさんのお礼のお考えに一理あると思い、また建設的なやり取りが出来る方のようなので、再回答します。 お礼の 「今、日本で生活する人たちのストレスの主な原因の根源は何だとお考えでしょうか。 それは「余裕」がない事ではないと思います。 「相互理解」が絶望的に足りないからだと思います。」 は、私も見過ごしていた急所と思い、また、現在、私とurbaniteさんとの間の相互理解も出来ていないと思います。 理由は現在のネット社会においてのコミュニケーションが原因と思います。 昨日の回答の私の主張のつじつまが合わないとのことですが、ネットでの回答は文字が限られます。あれだけの長文を書くのに私も大切な時間を費やしますし、労力もいります。長文になりすぎたら読む人もいません。端的に論理的に書くとは難しいものです。 ここにネット社会の落とし穴があるのではないでしょうか?ネットが普及したことで、世界中の人と交流するという利点はありますが、対人関係はどうでしょう。発言した相手の表面上の一部分しかわからず、コミュニケーションすることになってしまい。それが、現在におけるコミュニケーションの希薄による相互理解の困難さを産み出しているのではないでしょうか。 ですから私はなるべくネットには依存せず、コミュニケーションは直接人に会ってするようにしてます。 しかし、それでも、人のうわべしか、本当の理解は得られないという経験をしたことがあります。 私の出会った知り合いに生活保護を受けている人がいます。ある時、その人は、生活保護費10万円をパチンコにすべて費やしたことを知り合いから聞きました。私は、なんという自分勝手な快楽におぼれる人だと、彼に偏見を持ちました。後日、その人から、現在の生活保護を受けるに至った、その人の人生を聞くことが出来ました。彼は中学卒業後、土木作業の仕事をしていたそうです。バブル景気の真っ最中の頃の話です。仕事は一袋40キロのセメントの粉が入った袋を2袋、合計80キロを運んだり、足場作りの棒を数十本運ぶ仕事で、歩くと足の地面がめり込む作業だそうです。しかし、バブルがはじけてしまうと仕事がなくなり、大阪のあいりん地区でホームレスをしていたそうです。しかし、ある時、このままでは打開しないと、とにかく東京に行こうと思い立ち、30日かけて徒歩で東京に向かったそうです。しかし、お金がないのにどのように食事をしたのかと聞いたら、秋だったので、山の渋柿を食べたり、パチンコの景品所に置いてあるチョコレートを食べてしのいだとのこと。そして、東京の首都高速の下でホームレスをしていたところ、生活福祉の人が来て、若いのに、このままでは、一生ホームレスだからと生活保護を受給を受けることが出来たそうです。 確かに、この記述だけでは、自分が働いた税金が彼の手に渡ることは、やはり許せないという人もいると思います。しかし私が言いたいのは、人を評価する場合、その人の人生などというものは、全く理解していないのに、いかに、その人の一面だけを見て、偏見をいだくことが、いかにあるかということであり、私は、この経験から、自身を反省し、他人をみる見方を変えました。 私が薄い誠実さであるとお礼にありましたが、たしかにその通りかもしれません。 しかし、ビリー・ジョエルのHonestyにこんなフレーズがあります。 「Honesty is such a lonely word. Everyone is so untrue. Honesty is hardly ever heard. And mostly what I need from you.」 「誠実とはまことにさびしい言葉だ。誰もがあまりにも不誠実だから。誠実という言葉を耳にすることは少ないが、しかし、それこそ私があなたから欲しいものなのだ。」 この「誠実さ」の中にこそ「義」はやどりのかもしれません。そして私が、一生かけて守り続けたい他人に譲れないものとは誠実さかもしれません。 しかし、新渡戸稲造の「武士道」のぺージを開いてみてください。「武士道」の中の論理展開として「義」の後は「勇」。次に「仁(愛)」と続きます。日本人の精神を西洋人にわかってもらおうと新渡戸稲造が、元々は英語で書いたものですが、実に、この順番に論理の流れが理解するのにわかりやすく、また、新渡戸稲造の西洋を含めた知識の広さに驚かされます。 正義は「義」「勇」「仁」を兼ね備えなければならないと私は思っており、また、言うのは簡単ですが、実行するにはいかに難しいものか。そのためには自分を磨くほかにないと思っています。
お礼
こんにちは。 先ず、先のお礼であれほどの言い方をしたにもかかわらず、感情的に反応するでもなく、皮肉に歪むでも無く、関係性を断つ事によって冷静を保つでもなく、自然な応対ができていらっしゃる事にとても驚いています。 これは当たり前の反応と言えば当たり前なのですが、その当たり前ができる人がほんの一握りしか居ない昨今に置いては驚きに値し、もちろん「誠実」と称する事のできる姿勢だと思います。 「誠実」をお見せ頂きました事に感謝致します。 さて。 しかしながら、安定性の高い方でありそうだという印象はできましたが、先に申し上げました「真剣に考えた事はなさそうだという印象」は未だ拭えずにおります。 引き続き意見交換の為に先の失礼をお詫びしておきながら、改めて今回も少々失礼な内容が入ります事を予めお詫び申し上げておきます。 どうか建設的なやりとりになりますよう願いって居ます。 よろしくお願い致します。 >私とあなたの相互理解ができていない。 相互理解は対面でも回を重ねないと最低限解ったとは言えないのですから、ネット上のやりとりで2度や3度意見交換して相互理解ができていないのは当然ですから、これから、また現状解る範囲で状況の赦す限り理解を深める様努力すれば良いのではないでしょうか。 さて。 つじつまが合わないと言ったのではなく、つながりが不明瞭だと申し上げました。 不明瞭な部分をより具体的に言って頂けると解りやすいと。 以下は、あなたももしかしたら属しているかもしれないけれども、断定は全くしておらず、必ずしもあなたを指して言うのではなく、あなたの発言は私にはこうも見えるという意味で書きます。 そのつもりで呼んで頂ければ幸いです。 もしかしたらご自分の書いた内容が全く無意味になってしまっているような印象を受けるかもしれませんが、全体を呼んだ上で俯瞰的な感想に対する私の対応です。 先に続き大分失礼な内容でもありますが、別に私は私の事を棚に上げている訳でもなく、私自身を以下の内容に含めて頂いてもなんら支障がありませんので、下らない言葉の応酬にだけはならないよう願っています。 また、決めつけている様な文面も時にはありますが、決めつけている訳ではありません。 この可能性があるという仮定を表現しているだけですので、よろしくお願いします。 歴史上、民衆や一部の権力者にとって都合の悪い事を公に言い表す者が何千、何万と殺されてきました。 今、既に全世界の頂点にに居る本の一握りしかできない生活を送っている私たちが隣に居る同じ様な生活を送っている人との競争に明け暮れて欲望以外になんと呼べば良いのか解らないものを欲望とはせずに「必要」だと考えて生きています。 「暴力による復習は憎しみの連鎖を生むだけ」とはよく言われる事ですが、欲望というものがそもそも暴力性の高いものであり、欲望(暴力)によって支えられている生活を送るという事は即ち暴力によって何者かを犠牲にしながら生きているという事に等しい事を知らねばならない現状でしょうか。 それを指摘される事は「必要」の枯渇に繋がるので、受け入れたくないし、自分が良い人間であると思い続けるためにはそういう事実を知りたくもありません。 だから、そういう類いの事を言う人を排斥しようとする社会も結構な勢力を持っていますし、そうでなければ裏で繋がって結局は元の木阿弥状態を構成したりでとにかく「変化」をしないようにしないように働き掛けます。 例に挙げていらっしゃるホームレスは、同情の余地はあって赦されても良いかもしれませんが許可されるべき行為ではありません。 このホームレスはなぜパチンコに散財するのでしょう。 彼に心底友と呼べる人が居たら、心底師であると思える人が居たら、こういう散財は続くでしょうか。 一人で孤独に世間の風にゆられてなびいている状態に他ならない可能性は非常に高いと思います。 もちろん断定はできません。でも可能性は高い。 ここで彼の境遇を「想像」して「実際に知る働きかけをせず」に対処はしないが同情はする。 変化の無い現状維持体質から大目に見てもらえる心理活動です。 この枠から出る気がなく、真相を究明して対処方法を探るよりも臭い物には蓋をするほどまでの杜撰な対応では自己非難の自覚から逃れられないから「同情」をする事によって蓋をする行為に変えよう。そこにきれいな言葉を乗せておけばなお良いじゃないか。 そうすれば蓋をしているように見えないし、変化を生じさせるためのリスクもリソースも要らない。 真相が分からなければ相手がどうなるか解らないがそんな事は私の知った事ではない。 自分を良い人間だと思う事ができ、かつ安全でコスパが良ければそれで良いのだ。 と。 もちろん、こんな事を頭で意識的に考えていたら単なるゴミです。 でも、無意識に、、、はどうでしょう。 最後にはどうなるか知りませんが、私の経験上、自己欺瞞で自覚が無くとも誠から離れればその人は誠となんら関係のない存在になってしまいます。 そうするともう巷でよく見る失笑ものの自己正当化に走るしか自己肯定の道はなく、そのためには結局殺人を犯さなければならなくなる事に気付く結果になるのはリンゴが木から落ちるのを見る様なものの様に思えます。 無自覚は何のための無自覚なのか。 多くの無自覚は欲望に裏付けられているかもしれません。 だとすれば、無自覚は暴力行為の子と言えそうです。 子は親と同じ性質を持っていますから、暴力によって何かを行ったらその反応は。。。 という事になりはしないでしょうか。
- sutorama
- ベストアンサー率35% (1689/4748)
なるほど 大義の意味としてひとつ「 人として守るべき道義、国家・君主への忠義」であるとして、それは、日本においては民主主義的意思であるといえます 正義とは「正しい道義、人が従うべき正しい道理」となるのですが、正義についてはまず、その「立場によって主張が変わる」側面があることを注視してください つまり正義は、個人の意見が大切で、民主的な意見が重要なのではなく、それを主張する人の意思からその意見を発しています(自己の正義) また、前にも書きましたが、正義については、のちにそれを歴史として語った場合、その時代(今の?)の判断で語られた場合、結果論として語られ(判断され)てしまいます 例えば(難しいのですが)、今の世の中では独裁政権が悪い意味で使われていますが、これは過去に、独裁政権が成功した国がないだけであり、決して独裁政権が悪いということではないのに、歴史によって「悪い物」として判断されています しかし、本当に独裁政権が悪いのか?と真剣に語られたこと、考えたことがない人の意見であり、その国民が幸せであれば、それもありであると主張すれば、それはその人の正義となるでしょう しかしその考えは、民主的な考えではないので、大義に相反する考えです そうならないように「私の考えは正しいですよね?」と聴衆に訴え、そうだそうだと人が多く集まれば、大義へ変換されていきます つまり、最初はひとりで主張していた意見であったのに「これだけの人が同じ意見をもている」と主張しだすと「自己の正義」ではなくなるので、「違う主張に聞こえて」しまうのです また、昨今の「正義」を主張していた人間が、時が過ぎればその主張を忘れ、違うことを言いだすことが横行しています 例として、ついこの前まで「戦争反対」という「自己の正義」を主張していた人間が、今では「強行採決反対」と、全然意味が違うことを主張しています このことから、この人たちは何を言いたいのだ?ただただ、大義に対して反抗できる手段をすくい取っているだけではないのか?と感じてしまうのです その語る内容の違いに、「違う意味で絶対の正義など無い」と思わされたのです ひと昔前では、少数派の意見(自己の正義)を大切にしている人たちは、地道な活動をされていた記憶があります 署名活動であったり、陳情書を議員さんに送って、会う機会や方法に尽力したりしていましたが、そのことはせず、同じような意見(反抗心だけかも)の人たちを集めることに尽力し、終ってしまえば違う主張をその人たちを始めることで、大衆を誘導することをしていますが、そこに各々が持っていたもともとの「自己の正義」は存在していないと思うのです
お礼
こんにちは。 私は正義と法はあまり関連づけていません。 従って、民主的か否かは必ずしも問題ではありません。 民主絶対なら赤信号もみんなで渡れば青信号という事になります。 でも何万人で渡り、大型トレーラーにブレーキを踏ませて停車させる事に成功し、何万という目線を浴びせて狼狽えさせる事ができようが、違法行為を行っているのは赤信号を渡っている人たちです。 そうですよね? 仰っている事の意味が今ひとつ不明瞭なままなのですが、それでも強いて解釈するなら、大義(大勢の一致)は必ずしも正義ではないし、自己の正義(自己都合)ももちろんです。 逆に、自己都合が大勢の一致に反していても自己都合の方が正義に沿っている事もあるでしょうし、その逆もまたしかり。 お話しをされている段階と言いますか、ステージと言いますか、エリアが解りかねます。 今回の私の発言は焦点絞りに役立ちますでしょうか。 よろしくお願いします。
- kurinal
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こんばんは。 逆に気になったことを幾つか。 >「右へ倣えしていれば安心する民族性の中、その民族性どっぷりのステレオタイプの言うレベルの低そうな”正義”であればいとも簡単にA派の主張が”正の座”を獲得できそうですが」 そうですか。声高な「正義だ!」が「正の座」を獲得出来なかっただけではありませんか。 >「潔く、現状正義ではないとしてもより正義であろうとし、誠実であろうとし、愛他精神を養い、そのための自己犠牲精神を養いしようと努めている者同士が対話するなら、話し合いにそれほど苦慮はしないケースが圧倒的に多い筈だと思っています。」 どうして、この後「100:0」ではないと主張される方が、「正義同士のガチンコであるべき」ということを言うのしょうか。 >「まるで世の中には100:0の概念しか無いかの様な「100%の正義なんてありえない」で結論となる議論も私には意味がわかりません。 3:7ならおのおの3と7の分だけ改めるべきものがあったという事が解る訳でしょう。 それならどちらが正義だとかという不毛な対話から離れて先ずはおのおのの3と7を改めるのが強いて言えば正義ではないでしょうか。」 「改めろ」というのなら、それは「100:0」と仰るのと同じでしょう。 >「見ていて不愉快なだけなのですが、皆さんはどう思っていらっしゃいますか?」 プロテスタントは、意見が違えば、直ぐにでも分かれるようです。(不愉快ですか) 「こっちが100だ」とか、「こっちの3は改めるから7は認めろ」といった主張は、しないのではないでしょうか。
お礼
こんにちは。 No.6でかなり辛辣な書き方をしたのが気に障ったかなにかでしょうか。 No.6での書き込み内容も含めて私も気をつけますが、あなたも自分の解釈や理解に気をつけないとすれ違いが解っていてあえて正そうとも思わない取るに足らない人になってしまいます。 私の事はお好きに思っていて下さって結構なので、ご自分の解釈にメスを入れて調整しようかなと思う様になったらまた現れてください。 お話しはそれからです。
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お礼
こんにちは。 続編もご存知という事はカトリックですか?(笑) コヘレトは久しく読んでいないので少々忘れてしまっています。 また読み返さないと行けませんね。 やはりこの辺で落ち着く結果となりましたね。 着地点は初めから予想していましたが、初めと終わりのあなたの気持ちには驚かされました。 普通なら「やっぱりこうなった。つまらなかった。」となるところですが、同じ着地点でもあなたのは少し違いますね。 まあ目的としていたものとは違いますが、あなたにもらったものがある事は感謝の意と共に表現します。 ありがとう。 まあ今のあなたに何を言っても無意味そうなので、止めておきます。 あなたの歩き方を少しだけ垣間みた気がします。 多くの人を有害な紫外線から守るマントを必ずまとう意識なのか、脂肪で服がはち切れんばかりの体積が体に馴染んでしまっているだけなのか。 その答えが出てくるのはこれからで、現時点のあなたはきっとどちらでもないんでしょう。 少し残念な様な、ちょっぴりほんわか希望のような、そんな微妙な気分ですが、私も素直な気持ちで言います。 主の豊かな祝福があなたと共にありますように。 では。