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論理と道理によるより他に どのように対話するのか
1. さすが 日本人は物分かりがよいようなのですが その道理だけで話し合いをしているといったことがあるのではないでしょうか? 2. つまり論理が無いと言いますか 議論の筋道が示されない。 3. 道理なら ひとにとっての筋道なのだから ただちに分かり合えるはずだという向きには この場合の道理とは いわゆるジョウシキなのです。と言わねばなりません。 4. すなわち その場合のジョウシキというのは よいもわるいも一般のナラハシです。それは 必ずしも倫理的な推論や学問一般による裏づけがあるとは限らないと来ています。そういう場合が多い。 5. となると このような場合の日本人の対話というのは けっきょく自分自身の考えは打っちゃっておいて相手のそれに合わせたりする。それが むしろ対話のおもな内容となる。 6. こんなことをするなら 自己に対してはウソをついているのだし 相手に対してはあたかも物分かりだけは一人前だが思考回路はまだ子どもの段階にとどまっているからというので よちよち いい子だね そのとおりだよと言って けっきょくは相手をバカにしている。のではないだろうか? 7. こういうやり取りしかおこなっていないのではないか? 日本人の対話一般の多くは。 8. そうこうする内に この日本人式対話の《約束》に合わせなかったりあるいはつまり 相手の発言内容についてふつうに論理と道理とで批評し批判をすると 《心の思いを大切にしていない》とか《心を傷つける振る舞いだ》とかぶつぶつ言っている。 9. 果たしてこういう日本人は 人間であるのか? まだ人間に成っていないのではないか?
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- kurinal
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bragelonne様、こんばんは。 >「☆☆ 論理と道理によるより他に どのように対話するのか ☆ という問いに対して 《そうだ》か それとも《違う》か いづれかで答えるのは 《人間》の成す行為です。 それぞれ どうしてそういう見解になるのか? その理由や根拠をも明らかにする。これで 人間です。」 いや、相当、厳しいですね。 ハードルですね。 「知性偏重」という表現もあります。 たとえ知性に優れなくとも、、、「素晴らしい人間だなあ」ということは、 あるように思っています。
- kohichiro
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こんばんは、ブラジュロンさん。日本人ばなれした貴方の個性的な対話に他の日本人がついてこれない、あるいはついていけないというような状況があって、とうとうその本質に入っていかれようとしている、最近のブラジュロンさんのスレにはそういった生真面目ないらだちと真剣さが現れているような気がいたします。 対話といってもその発生原因や必然性に応じていろんなタイプがあります。ここで問題になっているのは、あるドグマ A=B(Bが善や悪、あるいは真か偽かに置き換わることも含めて) が提起されて、その是非が論じられる場合、あるいは Aとは何か?というように不明なAを何か既知のものに置き換えるための作業を複数で話し合いながら行う場合、などが多いと思われますが、確かに、多くのひとたちが結論は言ってもそこへ行く間の論理を示さない、「それはじょーしきじゃん」という。または、ドグマを提示したひとに最初からおまかせという、対話にはなっていませんがものわかりがいいという、それらを日本人は対話、あるいは対話の約束というのでしょう。5 までいきました。おおむね私もなっとくが行きます(7) 6 についてはどうでしょうか?相手を馬鹿にしているといえば、結果としてそうなのであって、意識して馬鹿にしているわけではない。 それで、私の 8 ですが、多くの場合、ドグマを提起するひとにも問題があって、A=B どうでしょう、そのとおりでしょう、え?、同意してくれますね、はい、しゃんしゃんしゃん、といった会話にならない対話討論が当然だという風潮が日本にはあるのだろうと思われます。つまり「和の精神」厳しい真剣な討論はしないしなれていない、そういった技術が発達していない、できない、といった面もあるのだろうと思われます。 私も仕事ではよくこういった経験はしましたね。結論ありきの会議でちょっと異議ありとかいったら、上位のものに感情的に抑えられたという経験ですね。この質問サイトでも質問にことよせて自身の意見の主張だけに終始する。意に沿わない異見は無視する。 >相手の発言内容についてふつうに論理と道理とで批評し批判をすると 《心の思いを大切にしていない》とか《心を傷つける振る舞いだ》とかぶつぶつ 確かにそうですね。論理には冷静に論理で相対せねばなりません。ブラジュロンさんの不快感には同意できます。
お礼
こういちろうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 たすかります。よほど たすかります。 (こういう場合は あまり感謝の意を表さない。ありがとうとは言いたくない。すでに その発言を受けたら 心の中で分かっていることだから)。 (こういちろうさん たよりにしてまっせ。わたしゃ ろうとる(老頭児)ですから)。 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ 5. となると このような場合の日本人の対話というのは けっきょく自分自身の考えは打っちゃっておいて相手のそれに合わせたりする。それが むしろ対話のおもな内容となる。 6. こんなことをするなら 自己に対してはウソをついているのだし ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 6 についてはどうでしょうか? 相手を馬鹿にしているといえば、結果としてそうなのであって、意識して馬鹿にしているわけではない。 ☆ そうなのですが 確かに結果として馬鹿にしたことになる事態なのですが――というふうに まづイエスで承けて バットなになにというかたちで反論にまわりますが―― こういう事態は ほとんど生活日常としてつねに経験しているのではないでしょうか? つまり あぁ このいまの B さんの意見に合わせてしまった。けれども つい最近 A さんの意見にも――それが B さんのとは違っている内容なのに――合わせてしまっている。あぁ 矛盾したことをわたしは おこなっている。おれは 二重人格か? と疑わなければならないほどだ。コノヤロー どうなってんだ? という思索をも じつはすでにほとんど誰もが――日本人はバカではなく道理や思いやりに篤い民族なのですから――経験して来ているはずなんです。 このようにまじめでまともな人間がすくなくない社会で それではいったい何が起こっているのか? なんで相手を思いやる《惻隠の情》が活きている人たちの心の中が 相手とのやり取りの際のおのれの発言において自己矛盾の体験に満ちているのか? ★ 6 についてはどうでしょうか? 相手を馬鹿にしているといえば、結果としてそうなのであって、意識して馬鹿にしているわけではない。 ☆ これは その段階からすでに局面は進んでいて がん細胞は転移しかかっている。なぜなら もはや《自己矛盾》は 日常茶飯事なのであって 大方の人びとにとってすでにクセでありナラハシとなっている。その意識は 薄くなり 果てはそのような――相手を思いやって 相手の要求に嫌とは言えないおとなしく善良な市民らの――好意につけ込む輩も出て来ます。 それでも 長いものには巻かれ お上にはさからわず 寄らば大樹の蔭が流行っています。千五百年ものあいだ このファッションは色褪せません。 それでも 過半数もの〔と推し測られる〕民がウソつきになるという事態はまぬかれています。 全体として 世の中の何がクルッたのでしょう? どこがクルっているのでしょう? ★ つまり「和の精神」 厳しい真剣な討論はしないしなれていない、そういった技術が発達していない、できない、といった面もあるのだろうと思われます。 ☆ なぜ その対話交通の能力も意志もがあると思われるのに 発達しないのか? ★ 確かにそうですね。論理には冷静に論理で相対せねばなりません。ブラジュロンさんの不快感には同意できます。 ☆ 確かに相手に合わせて《不快感》によっても 自己表現しています。けれども そのようないやな感じや快く思えない感じの段階は すでに通り過ぎて来ています。(ここに参加してからでも もう七・八年ですから)。 あきれてしまってものが言えない段階をも過ぎています。 これは すでに人びとが腑抜け・腰抜けになってしまっているのではないかという見方にもなりますし すでに【Q:日本人は 魂が去勢されているのでしょうか?】といったたぐいの質問をも何度もおこなって来ています。 ううーむ。 いまいちど そのたぐいの質問をおこなってみましょうか。
- kurinal
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B様、こんばんは。 >「このジョウシキを まわりの人たちに言いふらすことは お手の物であるらしい。つまり ジョウシキは ゆるやかな捉え方としては 道理になるという側面が出て来ます。 つまりは ジョウシキを言いふらすことは 道理を説いていることになっているらしい。そういう認識をその人たちは持っているらしい。 言いかえると そういったジョウシキに反する議論をおこなう人に対しては 《反感》をいだく。ということであるらしい。 つまり 自分たちの精神錯乱を まわりの人たちにも輸出しようとしている。」 >「人間であるのか? まだ人間に成っていないのではないか?」 それでは、「人間」とは?
お礼
こんばんは。くりなるさん。ご回答をありがとうございます。 ☆☆ 論理と道理によるより他に どのように対話するのか ☆ という問いに対して 《そうだ》か それとも《違う》か いづれかで答えるのは 《人間》の成す行為です。 それぞれ どうしてそういう見解になるのか? その理由や根拠をも明らかにする。これで 人間です。
- fuukakou
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No.5です。 お礼ありがとうございます。 他の回答者様へのお礼も興味深く読みました。 なるほど!とお礼を読んで思いました。 やっと何を言いたいのか判ってきました。 わたしはよく、イエスともノーとも言わず、ズルい手を回答に使わせていただいてます。 「なんかズレた所から入る」「ずらして入る」「ズレた話をする」など、イエスノーを避け、ズラして言わないで済まそうと誤魔化しています。 喧嘩腰になるのを避けたいからですね。 これがアラシの気配というものに相当するのでしょうか? そして、よく意味が解らなかったことを もっと解説していただけないかと目論んでいるんです。この辺は本当にズルですよね。 今回の私の意見は ( b )の《意見の摺り合わせ》を経て《落としどころを見つける》方式は よろしいという見方 です。 本来一番重要と、私が思ってるのは この考えて意見を出して、新たな意見・情報を仕入れて また考えて意見を出しあう 落としどころを見つける という所だからです。 恨みが残って殺し合いにならないように。 この点では、気持ちの整理がつかなきゃ恨みが残る。恨みが募れば殺そうとしてしまう人も居る が前提になってるので、幼くて幼稚と言えば幼稚なんでしょうね。 そしてよく読みなおして、あれ?と思ったのは…この部分をやってない方も多いの? といった事です。 私もやってるかも! やっと気が付きました。ありがとうございます。 指摘されないと気が付けないことが多すぎますね、私。 この部分を行わないならあまりにも幼稚、になってしまいますね。 新たな違った意見を知るのは良い事で、これを持ってもっとよく考えてみよう。 自分の意見を最初は持ってるけど、それが変化してもいい。 というか新たな情報を仕入れて検証し、自分が間違ってるところがあるなら修正して、よりあわせて考えたら発見があり違う意見が浮かんだならそっち方面に移動するのは 当たり前のことだと思うんです。 変化をさせないでガチガチになっちゃうと、いつまで経っても喧嘩にしかならないですよね。 迎合してる、というのとは少し違うと私は思ってます。 このあたりが >相手の議論に対して イエスならイエス ノーならノーとはっきりと述べること このことこそが 大事なのではないでしょうか。 と違うところです。 完全なイエスでもなく、完全なノーでもない状態なので。 考えてみると私の意見は、相手に考えてまた意見を出すことを要求してるので これも考えを押し付けてると言えば、押しつけですね。 理解し合おう その為に真剣に取り組もう とすることが大事だと思ています。 でもこれも相手を巻き込む事なので 一歩間違えるといつまでも噛み付いてくるだけになってしまうのですか。 >☆ このあたりは お言葉を返しますが いまではすでにどちらも同じようになっているのではないでしょうか? 確かに日本人も宗教的な生活をしています。 でも契約や入信をする人は少ないですよね。お坊さんに成る為に仏弟子に入るなど、例外的に思います。 神との絆は生まれつき、そこにあるだけで自動であるようなものの気がします。 これは私は日本の神に土地神といったものを想定しがちだからでしょうね。 その土地にいるなら自動的にその管轄に入り、土地を移動すればその場所の土地神の管轄に自動的に入る 神様側がオートで行ってるので その神様以外は切りようがないものと思っているので。そしてそのようなものだから、日本人は割と宗教に無頓着に。 あれ?なんか話が横道に行ってる。修正修正 私が書いた絆は、生涯の友だけではありません。普通にかかわる人々の事も含みます。 ご近所のどの人と会話をよくして情報交換するか、会社や学校でも世間話をする相手としない相手、どんな人と付き合いを持つか、なんかも含まれてます。 こんなものでも一生ついてまわったりするんですよ、困ったことに。 >☆ とおっしゃるとおりであるならば 問題は 投稿者が最初に回答を寄せるときの質問趣旨への《応答方式》をどうするか? ここにことを決める要因があるのではないのでしょうか? >つまり そんな七面倒なことはないはずですよ。だいたいは 文章を始める最初の調子で分かるのではないでしょうか。つまり その投稿には アラシの気配があるかどうかがです。 この、『アラシの気配がする』というのが、喧嘩腰で『相手を尊重してない』ので起きるんじゃないか、と私は考えてます。 しょっぱなに 『否定!!』をされると、ああ、この方とは分かり合えない方なのね…と避けてしまったり、こちらの意見を聞く気が無いんですねと思ってしまったり、意見を押し付けてる!闘うぞ!!と変なスイッチが入ってしまうがありがち(私が幼稚だからでしょうね)なので、ちゃんと話し合いにならね~。な事が。 否定されるとカッとなっちゃったりもう聞かねと幼稚な反応をしがちなので、「はい、ですが~」方式を採用してるんだと思います。 う~ん、なんか話がずれているような気がする変な間違った方向に行ってしまってるような気が。 どっかで私が踏み間違えてるような気がするのですが、それがよく判らない。 ですがこれが今の私の意見なのでこのまま回答させていただきます。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしはよく、イエスともノーとも言わず、ズルい手を回答に使わせていただいてます。 ・・・ 喧嘩腰になるのを避けたいからですね。 これがアラシの気配というものに相当するのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あいまいというのは そう(アラシ)であるか無いか二通りの可能性があります。《イエスともノーとも言わないをつらぬく》なら その両義性が最後までつづきます。 ★ 今回の私の意見は ( b )の《意見の摺り合わせ》を経て《落としどころを見つける》方式は よろしいという見方 です。 ☆ ええ。そう推測して応答しました。 ということは 両義性の中から こちらが一つの回答をえらびそれにしぼりました。 ★ 本来一番重要と、私が思ってるのは この考えて意見を出して、新たな意見・情報を仕入れて また考えて意見を出しあう 落としどころを見つける という所だからです。 ☆ 質問者も そのとおりに思います。情報交換という言い方で 規約はうたっていたと思います。 また ふつう一般に考えても いわゆる弁証法的な展開であり過程なのだと考えられます。問題ないと考えます。 (このように双方の互いにとってより一層の高みに移ってあたらしい共通の見解を得ようとする弁証法的展開については ほかの質疑応答を見ていますと ときには それの不可能性を見ると主張するひとがいるようです。不毛であり無意味だと言おうとしているようです)。 ★ この部分(* つまり互いの情報交換)をやってない方も多いの? ☆ ええっとですね。この弁証法過程について説明すると それには賛成だという答えが返って来たりします。そういう情況です。 けっきょく《心の明け》あるいは 開かれた柔軟性あるいは自由度の問題なのでしょうか。 ★ 考えてみると私の意見は、相手に考えてまた意見を出すことを要求してるので これも考えを押し付けてると言えば、押しつけですね。 ☆ そうですか。ずるがしこいですね。 ★ 理解し合おう その為に真剣に取り組もう とすることが大事だと思ています。 / でもこれも相手を巻き込む事なので 一歩間違えるといつまでも噛み付いてくるだけになってしまうのですか。 ☆ わたしの場合は 相手に《咬みつかせよう》としています。たまふり(魂振り)という神事(?)でもあります。 ★ 神との絆は生まれつき、そこにあるだけで自動であるようなものの気がします。 ☆ あの《キリスト教》にあっても そのようにただ生まれつきの自然本性において 神の霊がわが心にやどるといったところから出発するかたち。これが やがて主流を占めると考えています。(ローマ教会などは 自己解体すると捉えています)。 ★ そしてそのようなものだから、日本人は割と宗教に無頓着に。 ☆ という情況であるほうが うんと個人個人にとっての《神とわれとの関係――つまり 信仰――》は 現実的なものであり 推奨されるものであると考えています。つまり 集団としての・組織形態なるシュウキョウは要らないという意味です。 そのあと最後のあたりは あまりこだわると水掛け論を取り上げて論じるかたちになるかも知れないと思い パスしましょうか。 水掛け論にはならないとわたしが言うのは やり取りのスレッドがしっかりと残っているからです。この質問の前身の質問です。 こんな感じでしょうか。
- fuukakou
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とある本で、日本人は イエス、バッド ばかりだ。それはノーという意味だ。と欧米人によく言われる。といった言葉がありました。 ノーと言うと角が立つので、イエス あなたの意見はこうなのだという事を認識しました。あなたの意見は尊重します。 バッド 私のそれに対する意見は~~です。といい、意見の摺り合わせ(お互い相手の意見からもう一度考える)をしてるんです。落としどころを見つけるとも言います。 この角が立つですが、ノーは日本人には全面否定であなたの意見は尊重しません。といった攻撃的なものに映りがちなんです。 日本語の会話では、相槌が重要で、あなたのいった事を聞いてます、あなたのいったことを脳内で咀嚼しています、あなたのことを尊重してます といった事を伝えてるからです。 この相槌部分が イエス になっちゃうんですね。英語としてはおかしいという事になります。 この部分が無く、ノーとなれば逆の事を相手が伝えてると認識しやすいからです。 また、わざとでも悪くも無いのにすぐに「すみません」と謝るのも、生活の知恵です。 お互いに謝りあう事で、一歩退いてかっとなる事を防ぎ、あなたが全面的に悪いと思ってるわけではないです、あなたの事を尊重してます 今後の話し合いであなたの意見を尊重します と言外に伝えあい 冷静なジャッジや話し合い、またちゃんと考えられる状態を作ります。 この最初の謝り合いで、お互いに不利になる事は無い という事になってます。 この辺については、何との絆を大切にするかの宗教を含む考え方もあります。 キリスト教(欧米文化の基本になってますね)は、神との絆が基本です。 個人が神と契約し、絆があるので個人主義にもなる。 日本では、そんな神との契約が無いので、人同士の絆を大事にします。 だから、親しくなるのに時間がかかります。 絆を作っていい相手かどうかは見極めないとならないからです。一生ものですから。 この人同士の絆が、宗教的な役割をしていると私は考えてます。 人同士の絆を勝手に切る事は、相手の「契約による神との絆」を勝手に切る事のようなものです。大罪ですよね。 相手に切られることは、相手によって自分の「契約による神との絆」を切られてしまうようなものですから恐怖です。 相手を尊重し、理解し、絆を切らないようにすることが重要になってます。 だからお互いに気を使いあう状態になり、相手の考えを読もうとし、これが高じて以心伝心や、礼儀正しさになるのだと思います。 とりあえず最後まで話を聞いてから考える。この辺がそのように見えてるのではありませんか? (↑この文章もあなたには質問の主旨ように見えるかも知れませんが、質問を読んで考え、私はこう思うと思った。ではこの回答を読んであなたももう一度考えてみて欲しい というメッセージで、理解し合おうとしているからこそ、出てくる言葉です) 以上説明を含む意見でした。
お礼
ふうかこうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。まづ その日本式対話術について ふうかこうさんは 肯定・否定のどちらの見方をなさっていますか? ( a )★ とある本で、日本人は イエス、バッド ばかりだ。それはノーという意味だ。と欧米人によく言われる。といった言葉がありました。 ( b )★ ノーと言うと角が立つので、イエス あなたの意見はこうなのだという事を認識しました。あなたの意見は尊重します。 バッド 私のそれに対する意見は~~です。といい、意見の摺り合わせ(お互い相手の意見からもう一度考える)をしてるんです。落としどころを見つけるとも言います。 ☆ ( b )の《意見の摺り合わせ》を経て《落としどころを見つける》方式は よろしいという見方でしょうか? そうですね。正直な反応を述べてまいります。 ★ この角が立つですが、ノーは日本人には全面否定であなたの意見は尊重しません。といった攻撃的なものに映りがちなんです。 ☆ これは 受けて立つ側が どういう応答をするかの局面ですよね? 具体的に言えば このやり取りの場では 質問者の側にも回答者の側にも そういう局面はあります。 すなわち 質問者が回答を得て これに答える場合もそうですし それだけではなく 回答者が初めに回答を寄せる場合も 同じように《ノーで始めて意見を述べるか あるいは イエスで始めて そのあとバットをはさんで意見を述べるか》の方式選択の問題があります。 局面として 質問者にとっても回答者にとっても 同じかたちの場面です。 すなわち もし質問者が・つまり早く言えば質問者となっているわたしが ノーをあたまに持ってくる応答方式を採ったとすれば そのとき回答者は その初めの投稿となる回答の中で どういう方式を採っているか? これが問題となります。そういう問題だと思います。 質問者であるわたしが どういう応答方式を採るかは だいたい――単純にバランス感覚による応答のかたちとして――最初の回答者の応答方式いかんによって 決まって来る。のではないでしょうか? つまり 回答者が 質問の趣旨説明に対して ノーで受けるか イエス、バット方式を採るか。これによって 質問者の受け答えのかたちも変わってくる。のではないでしょうか? 話が長くなっていますが 結論です。 わたしが ノーで始める方式を採ったのは 回答者の応答方式に合わせた。だけのことであります。 質問の趣旨に対して 初めから それはマチガイだ ダメだという発言の開始方式を採る場合もあれば イエスとは言わずとも ふにゃふにゃ ぶつぶつと言ってから バットと言い出す転回方式を採る場合もあります。 つまり 明らかに質問者であるわたしの応答は 回答者の投稿の態度や姿勢に合わせたものであるということです。 角が立つというのなら どちらが立てていましょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ この辺については、何との絆を大切にするかの宗教を含む考え方もあります。 キリスト教(欧米文化の基本になってますね)は、神との絆が基本です。 個人が神と契約し、絆があるので個人主義にもなる。 日本では、そんな神との契約が無いので、人同士の絆を大事にします。 だから、親しくなるのに時間がかかります。 絆を作っていい相手かどうかは見極めないとならないからです。一生ものですから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このあたりは お言葉を返しますが いまではすでにどちらも同じようになっているのではないでしょうか? クリスチアニティにしても イエス・キリストのあとでは 《契約》は無くなりました。やっと二千年を経て そのことが現実化して来ました。(エレミヤ書31:31以降⇒へブル書8章)。 それに日本人が 神とかかわりがないかと言えば そんなことはないでしょう。先祖以来の神々を心に思っていますよ。祭りや季節の節々に地方の暮らしではじゅうぶん生活の中に溶け込んでいます。 生涯の友を得難いのは どこでも同じでしょう。A.スミスもそんなことを書いていますね。18世紀のことです。 もし ★ 相手を尊重し、理解し、絆を切らないようにすることが重要になってます。 ☆ とおっしゃるとおりであるならば 問題は 投稿者が最初に回答を寄せるときの質問趣旨への《応答方式》をどうするか? ここにことを決める要因があるのではないのでしょうか? ★ だからお互いに気を使いあう状態になり、相手の考えを読もうとし、これが高じて以心伝心や、礼儀正しさになるのだと思います。 ☆ あえて反対してみましょうか。 つまり そんな七面倒なことはないはずですよ。だいたいは 文章を始める最初の調子で分かるのではないでしょうか。つまり その投稿には アラシの気配があるかどうかがです。 何でもない普通のやり取りが出来るという場合も かんたんに分かりますよ。 そして そのような《ふつうか アラシか》の判定は 質問と回答とのあいだのやり取りの内容には 関係ありません。《論理と道理で》議論をすすめるだけのことです。 あるいはもっと反論するならば: ★ 相手を尊重し、理解し、絆を切らないようにすることが重要になってます。 ☆ というのであれば ますます《論理と道理とで》――と言っても確かに それぞれの主観によるより他にすべはありませんが――相手の議論に対して イエスならイエス ノーならノーとはっきりと述べること このことこそが 大事なのではないでしょうか。 要するに 一部の人たちは 自分の回答内容にノーと言われた あぁ くやしい いっぺんくらいは イエスと言えと言って 駄々をこねている。だけのことです。 一般論を展開されましたが 具体的には いま述べたような実態となっています。そのやり取りは 残っていますから いつでも検証ができます。
- frau
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「答えが言い表し得ないなら、問いを言い表し得ない。 問いが言い表し得るのならば、答えも言い表し得よう。」~ウィトゲンシュタイン
お礼
ご回答をありがとうございます。 ヰトゲンシュタインは ダメです。限界があります。 ☆☆ 【Q:この世界は 認識によって派生するのですか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8659031.html ◆ (その回答No.7) ~~~~~~~ 〔素朴実在論ないし環界の模写説をめぐって〕 (1) まず理想的には模写が可能であっても、そこには必ず人間の意志や恣意性が入るから〔単純には 模写説を受け容れらないの〕です。 論理哲学論考(模写説に基づく)を仕上げたヴィトゲンシュタインは、某汽車の中でそれに対する某哲学者から反論を受け、反論に一言も応えられなかった自分に衝撃を受けた、という話を読んだ事があります。そこから、彼の死に至る病が始まります。 ☆☆ (同上・お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ * ヰトゲンシュタインについて 推測として言えば その模写説はどうも物理的世界に人間が吸収されているような感じがします。 〔そうではなく 次のような世界観に立脚すればよい〕。 自然や歴史の世界に対して受け身という場合 その模写をおこないうる認識などの能力を 人間は あたえられているのだと捉える。そのような自然本性を立てている。ヒトとしての自然本性と 自然世界とが呼応し対応しているように受け取るものと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 「答えが言い表し得ないなら、問いを言い表し得ない。 問いが言い表し得るのならば、答えも言い表し得よう。」~ウィトゲンシュタイン ☆ 何らかの言葉を言い放つならば その内容が ただしいものであり 対話の相手にも有効にはたらくチカラを発揮するというこの上ない《思い込み》シンドロームに罹患しておられます。 少なくともその推論の過程をしっかりと示すなら まだしもなのですが ご自分も そのような理由説明をしようとする気配すら何もない。と来ています。 相変わらず 《おまえのかあちゃん でべそ! 叫び病》であります。
- kurinal
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B様、こんばんは。 >「果たしてこういう日本人は 人間であるのか? まだ人間に成っていないのではないか?」 ・・・これは、B様一流の表現なんですかね。 「教育、教育、教育」というのは、見たことがあるんですけど。
お礼
誰でしたか? トニー・ブレアでしたか? 《教育・・・》のほうは。 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 次のような説明になります。: ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~ 学問的な裏付けのないジョウシキ 言いかえると 世界に広く通用する普遍的なジョウシキではない部分 が大きい。それは ダメだと言おうとしています。 したがって そのような狭い・または浅いジョウシキに従った日本人式対話のやり方は まづい。いただけない。といった結論へみちびかれます。 ・・・ つまりは 《クウキ》にしたがうクセが どうしようもなく身に着いてしまっていて これを・つまりはやはりジョウシキを くつがえすには いわゆる《お墨付き》が要ることになる。言いかえると えらい人の承認や勧めが出て初めてあたらしいジョウシキに衣替えするようになる。しか道はないほどである。 このナラハシの中に生きているかぎり ちょっとやそっとでは クウキやジョウシキをうたがってこれを批判することは むつかしい。 だから 人びとは ウソをついてでも 世間に従うようになるのだし 対話にあっては むろんのことその同じジョウシキの型に嵌って話し合いをすすめる。よりほかに仕方がないというほどになってしまっている。 のではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このような状態と情況を たとえすぐさま抜け出さないとしても そのことを認識することをすらし得ないでいるとすれば 《人間以前の状態にある人間》であると言い得るのではありませんか? ところが このジョウシキを まわりの人たちに言いふらすことは お手の物であるらしい。つまり ジョウシキは ゆるやかな捉え方としては 道理になるという側面が出て来ます。 つまりは ジョウシキを言いふらすことは 道理を説いていることになっているらしい。そういう認識をその人たちは持っているらしい。 言いかえると そういったジョウシキに反する議論をおこなう人に対しては 《反感》をいだく。ということであるらしい。 つまり 自分たちの精神錯乱を まわりの人たちにも輸出しようとしている。 よって ★ >「果たしてこういう日本人は 人間であるのか? まだ人間に成っていないのではないか?」 ☆ という結論がみちびかれます。ということではないでしょうか どうでしょうか?
- doc_somday
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あなた様の「道理」は「定義」が不確定だと思います。 もちろん定義「らしきもの」は持ち込んだ。 >道理なら ひとにとっての筋道なのだから ただちに分かり合えるはずだという向きには この場合の道理とは いわゆるジョウシキなのです。と言わねばなりません。 これが「非常にオカシイ」から議論がスカスカだ。 あなたは「常識」を肯定しているのか、否定しているのか、それとも「どうでもいい」と諦めているのか分らない。 分内の「ただちに分かり合えるはずだという向きには この場合の道理とは いわゆるジョウシキなのです。と言わねばなりません」 これ何? >ただちに分かり合えるはずだという向き これは人間を区分している、だがこの区分には厳密な「定義」が無い、 >このような場合の日本人の対話というのは けっきょく自分自身の考えは打っちゃっておいて相手のそれに合わせたりする。それが むしろ対話のおもな内容となる。 それはあなたの勝手な思い込みで「データ」が無い。 確かに日本人の会話は密度が低い、だがそれは「日本語」という「母国語」が含む「性格」であって「捨てる」ことが出来ない。 日本という国の将来を憂慮するなら、現代用語の基礎知識」を全部「定義」からやり直し、古典を重んじている「広辞苑」に「最近の言葉」を「加えなければならない」だがそれは無理だ、言葉は生きており特に最近の言葉は寿命が短い。 だから現代用語の基礎知識を始めとする「知恵蔵」など「現代語辞典」をオンラインでWikipediaの様に供給する必要がある。それには国家予算ほどのお金がかかる、全分野の研究者が一年かけても完成は無理だろう、だが「今日出来て」「明日消える」様な「アホ」な言葉を無視し「少なくとも半年生き残った」言葉に限れば無理では無い。高校を一年延長してこいつを押し込めば、日本語はマシになる。 英語の基礎がシェークスピアにありドイツ語の基礎がゲーテにある様に、基礎を採用する「勇気が必要だ」私は「吉本隆明」を推す、詩人で文章は明快で美しい、難解な言葉は一切遣わない、大戦後特に日本共産党周辺のアホを徹底的に叩き潰したから、恨み骨髄の人も居るだろうが、吉本より立派で揺るがない「日本語」を書いた者は居無い。
お礼
どく_そむでーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ あなた様の「道理」は「定義」が不確定だと思います。 ☆ これは ごもっともです。そもそも 定義していませんでした。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >道理なら ひとにとっての筋道なのだから ただちに分かり合えるはずだという向きには この場合の道理とは いわゆるジョウシキなのです。と言わねばなりません。 これが「非常にオカシイ」から議論がスカスカだ。 あなたは「常識」を肯定しているのか、否定しているのか、それとも「どうでもいい」と諦めているのか分らない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この場合の《推論のオカシサ》は 道理をジョウシキと言い換えたとき そのジョウシキというのは 初めに《ひとにとっての筋道》だといちおう定義した道理そのものを じつは 言っていないことにあります。 おかしな運び方になっていました。つまり その意味は そのあとに出て来るかたちになってしまった。 ☆☆ (趣旨説明欄) 4. すなわち その場合のジョウシキというのは よいもわるいも一般のナラハシです。それは 必ずしも倫理的な推論や学問一般による裏づけがあるとは限らないと来ています。そういう場合が多い。 ☆ 《よいもわるいも》とつけ加えたことで――つまり 《よい》を付け加えたことで――初めの定義による道理の言い換えであるというかたちをかろうじて保ちました。 そのあと 《それは 必ずしも倫理的な推論や学問一般による裏づけがあるとは限らないと来ています。そういう場合が多い》という見方に転じて このナラハシとしてのジョウシキは 《道理》一般であるとは限らない。というふうに言おうとしていたようです。 話の進め方が オカシイ。その点 おわびして いま述べたように見直したいと思います。それで どうでしょう? ★ あなたは「常識」を肯定しているのか、否定しているのか、それとも「どうでもいい」と諦めているのか分らない。 ☆ 学問的な裏付けのないジョウシキ 言いかえると 世界に広く通用する普遍的なジョウシキではない部分が大きい。それは ダメだと言おうとしています。 したがって そのような狭い・または浅いジョウシキに従った日本人式対話のやり方は まづい。いただけない。といった結論へみちびかれます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >このような場合の日本人の対話というのは けっきょく自分自身の考えは打っちゃっておいて相手のそれに合わせたりする。それが むしろ対話のおもな内容となる。 それはあなたの勝手な思い込みで「データ」が無い。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ むろんわたしの主観における判定に成るものですが これには じゅうぶんな実例があると思っています。 この質問の前身ともいうべき質問でのやり取りが それです: 【Q:他人の言葉で 心が傷つくか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8705015.html ひとりで多数の回答を寄せている場合のやり取りは 《カスカス》であるとお分かりになると思います。 ★ 確かに日本人の会話は密度が低い、だがそれは「日本語」という「母国語」が含む「性格」であって「捨てる」ことが出来ない。 ☆ これにつきましては 真っ向から反対です。 【Q:日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8690362.html ☆☆ (その趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~ ・・・ ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。 といった要因があるのか。 ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。 それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。 ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか? ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おおよそのかたちですが 言語表現として日本語には――けっきょくにおいて――罪はない。それを使う主体の思考の問題であるという結論ですが どうでしょう。 ★ 日本という国の将来を憂慮するなら、現代用語の基礎知識」を全部「定義」からやり直し、古典を重んじている「広辞苑」に「最近の言葉」を「加えなければならない」・・・ ☆ という方向に反対はしませんが それよりも何よりも けっきょくはやはり同じく回りまわって《ナラハシ》に問題があるのではないか。その質あるいは中身が問われる。ということだと考えています。 つまりは 《クウキ》にしたがうクセが どうしようもなく身に着いてしまっていて これを・つまりはやはりジョウシキをくつがえすには いわゆる《お墨付き》が要ることになる。言いかえると えらい人の承認や勧めが出て初めてあたらしいジョウシキに衣替えするようになる。しか道はないほどである。 このナラハシの中に生きているかぎり ちょっとやそっとでは クウキやジョウシキをうたがってこれを批判することは むつかしい。 だから 人びとは ウソをついてでも 世間に従うようになるのだし 対話にあっては むろんのことその同じジョウシキの型に嵌って話し合いをすすめる。よりほかに仕方がないというほどになってしまっている。 のではないでしょうか? つまり ★ 高校を一年延長してこいつを押し込めば、日本語はマシになる。 ☆ その成ったあと 人びとの目の前に待っているのは 目に見えぬクウキたる社会力学じょうのシキタリなのではないでしょうか? これは 垂直壁であるようです。 ★ 私は「吉本隆明」を推す、詩人で文章は明快で美しい、難解な言葉は一切遣わない、・・・ ☆ まぁ どうなんですかねぇ。 確かに わたしがいましゃべっている《クウキ》の社会的な構造については 《アマテラス公民〔主導〕-スサノヲ市民〔主権が存するのに従属〕》なる連関制なのだと言っているのは 吉本隆明に影響を受けていますが どうですかねぇ。 あるいは 最近では 孤独とは孤独の関係であるといったその《わが固有時》なる視点を この質疑応答の場で提出しましたが それも吉本の影響のもとにあります。そんなこんなですが 吉本は どうですかねぇ。 つまり いまここで詳論することは出来ないほど多くを語らなければならないからには ひと言で済まそうとしますが よほど吉本は 認識の分野に徹している。のではないか? とは考えております。 志向性が あるようで 無い。と思います。 【Q:関係の絶対性について】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8033023.html 【Q:吉本隆明の思想について】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4462818.html ☆ 質問者の noname#80116 は わたし・ぶらじゅろんぬですが こういう質問をすでにして来ております。 できるものなら 活用しない法はないでしょうね。 こんなところになりました。
おひさしぶりです。「ウソつき」で「相手をバカにして」ゐるplapotaです。最近仕事が忙しくて、回答は短くできるものに限つてゐます。 >>こういうやり取りしかおこなっていないのではないか? >>日本人の対話一般の多くは。 私は、西洋式の論理でつめてゆくやり方には、限界を感じてゐます。日本の昔ながらの「以心伝心」といつたつながりが、見直されてもよいのではないかと思ひます。日本的な「対話」は、その中間に位置するものでせうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 私は、西洋式の論理でつめてゆくやり方には、限界を感じてゐます。 ☆ そうだとしても 《道理》は 洋の東西を問わないはずです。 (表現の仕方には違いがあっても 中身は ほとんど同じでしょう)。 (それは いのちのとうとさ。存在の尊厳。互いの意志の尊重。などなどです)。 ★ 日本の昔ながらの「以心伝心」といつたつながりが、見直されてもよいのではないかと思ひます。 ☆ 以心伝心は すでに《自己投影》だとか《ミラー・ニューロン現象》だとかの捉え方で 同じように捉えられるようになっています。同じでなくても 互いに重なって来ているでしょう。 よって ★ 日本的な「対話」は、その中間に位置するものでせうか。 ☆ というご見解には まだ納得するものが 残念ながら 見い出せなかったです。どうでしょう。 《論理と道理》と言っていることに留意してください。 ★ 最近仕事が忙しくて、回答は短くできるものに限つてゐます。 ☆ 《短くは回答する》というのは さすがですね。
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ いや、相当、厳しいですね。 ☆ はじめから出来る人は 少ないでしょうね。 ★ ハードルですね。 ☆ と受け取るか。それとも おのれの自由な自己表現にとって――ということは おのれが自由に生きるためにという意味ですが―― 欠かせないものであり それによって一歩一歩わが心をゆたかにして行くことが出来ると受け取るか。ではないでしょうか? ★ 「知性偏重」という表現もあります。 ☆ それは ものごとを知っているか知らないかで ひとの人間性までをも判定する行き方です。 いまこの問いで問い求めていることは そうではなく・《知性偏重》なのではなく 人間性の全体をおもんじる行き方です。黙りこくっていてはダメだという意味合いになります。 言いかえると イエスかノーかで答えられないと思ったなら ちょっと待ってくれ 時間をくださいという受け答えを互いにみながしましょうという行き方です。 答えが出るまで 一日二日あるいは一年さらにあるいは五十年と しっかり考えるから待って欲しいときちんと受け答えをするということ。これが 《全人教育》でしょう。 そうでなければ ★ 「素晴らしい人間だなあ」ということは、 ☆ ないと考えます。