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神は概念であるというだけのバカらしさ
《かみ》と 言葉で言っているのだから 何らかの概念であるに決まっている。 それで終わってしまうという神経が分からない。 なぜ人間は 世界のすべてを概念で知ってしまい得ると思うのか。 《無限》は 概念であるだけか? 二で割っても三で割っても その商はやはり無限であるというその概念説明は それで分かったと言えるのか。
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無限についてだけですが、前も言いましたように、 >二で割っても三で割っても その商はやはり無限であるというその概念説明は それで分かったと言えるのか。 については、わかったとは言えないと思っています。上手く表せませんが、「わかったの程度」は以下のようなものと、思います。 ・納得 → 理解 → 了解. 納得は、少なくとも内部矛盾や周辺環境(常識?)との不整合はなさそうだと、受け入れた状態。理解は、論理的・逐語的に追跡し終えた状態。了解は、手に取るようにわかった状態(いわゆる意訳できる状態?)。 意訳可能を了解とするならそれは、論理的・逐語的・概念的理解をやり切った後に起こる事です。 ところが無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約があるので、真の意味での了解は無い気がします。しかしそれでも、直感的な了解(非概念的了解?)はある。 また言いますが無限公理です。とんでもない仮定なのに、誰も文句言わない(^^;)。
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構造主義的にいえば、マルクス同様『上部構造の存在を仮定する』ってことなのだと思いますけれどね。要は、構造主義以前の哲学とは実存に執着しすぎているのですよ。構造主義は哲学ではないけれどね。重力は、存在しませんし『説明概念』ですからね。概念構築能力と言う意味で『かみ』を仮定することは、抽象世界を構築する上で重要な役割を担っていたと思いますけれどね。自然科学の発展が、アジアより西洋で著しかったのは、アジアの宗教では上部構造の存在を仮定しないからだと思いますね。私は構造主義を支持しますね。人の思考は言葉の中で閉じているものだと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ううーむ。ご説明が短すぎます。構想主義を・つまり構造主義なんかはと勝手に捉えて卒業したと思っているわたしには。 ★ 私は構造主義を支持しますね。人の思考は言葉の中で閉じているものだと思います。 ☆ ふうーむ。 よく捉えきれないので ぎゃくにこちらから質問します。 (あ) 構造主義は 社会が構造つまり関係からのみ成っていると見て 人間にとっては《無主体の過程》だと見ていると捉えてよろしいですか? このひとつに絞っておきましょう。 あとは どうかなと引っかかったところを取り上げておたづねします。 ★ 概念構築能力と言う意味で『かみ』を仮定することは、抽象世界を構築する上で重要な役割を担っていたと思いますけれどね。 ☆ (い) 《神》は 抽象世界の問題ではない。 と考えます。なぜなら 次のように《非経験の場 = 非知なるナゾ ⇒ わが心なる非思考の庭》というふうに定義し得る場ないしチカラの想定によると見るからです。 (う) 認識の対象として世界を区分する。 経験事象 可知 既知 未知 不可知 (知り得ないと証明された定理など) 非経験の場 (有無を超え因果関係から自由な場を想定) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) (え) 非知なる非経験の場を心に受け容れると わが心に非思考の庭が成る 信じる:非思考の庭:ヒラメキ ------------------- 考える:思考の緑野:コギト 感じる:感性の原野:センスス・コムニス ☆ むろん 《非経験の場》が 《かみ》であり――言わば普遍神であり―― 《非知》は 《絶対や無限》と同じように普遍神を説明する概念であり この非知なる非経験の場を心に受け容れる(=信じる)と そのわが心〔をも超えた自然本性ぷらすアルファなるところ〕に非思考の庭が成る。という寸法です。 単なる《抽象世界》ではない。はずですから 物言いをしました。 ★ 『上部構造の存在を仮定する』 / アジアの宗教では上部構造の存在を仮定しない ☆ 《上部構造》うんぬんにつきましては いささか違った観点をすでに構築しました。 (お) 社会形態――すなわち国家――は 次のような構造を成すと見る。 《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》連関制 (か) これまで 《 S圏・従属 - A圏・主導》という逆立ちした連関制であった。理論としては すでに民主制にあって 《 S圏主権・主導 - A圏・従属》と成ってはいます。 (き) このスサノヲ・アマテラスなる術語は 次のようにマルクスを――罪を告白せねばならないでしょうか――《模倣・剽窃》しています。 ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~ 結局のところ ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民) とは区別された ( S ) 人間 homme とみなされる。 なぜなら ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。 【 S‐A 連関】 《現実の人間》は ( S ) 利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ 【 A‐S 連関】 《真の人間》は ( A ) 抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス普遍科学語ないし人格語)においてはじめて認められるのである。 (城塚登訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 要は、構造主義以前の哲学とは実存に執着しすぎているのですよ。 ☆ それは おそらく《主意主義とか主知主義とか あるいは 主体に絶対性を付与する傾向》を《実存主義》の一面として捉えたからではないでしょうか。 《実存》といえば けっきょくわたしから見れば (く) 《スサノヲ市民 - アマテラス公民》連関なら成る或る個人における構造的な生活世界 あるいは (け) 《あやまちうるスサノヲ人間語 - あやまたざるアマテラス普遍人格語》の構造的にしかるべく連関する人間存在とその動態 だと考えられます。ので 棄ててはいません。 あまりにも大きな主題をいくつもかかえたご議論です。 少しづつ解きほぐして行けるのかどうなのか。・・・
- stmim
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> ☆ と言うのならば その概念内容を まづ自分が明らかにしてからその議論を始めなければなりません。 gooの辞書では神とは「信仰の対象となる霊的な存在」とあります。 これではいかがですか? この定義はよくできているなあと思いました。つまりどんなに超越した能力を持つ存在であっても「信仰の対象」でなければそれは神ではないということ。 また、神とは「霊的」な存在であるということです。確かに実体的な存在ではないですよね。 > つまり それでは《神という概念》はどうか? 犬だったら、これが犬ですよと事例を指し示すことができます。しかし、これが神ですよとリアルに指し示すことはできないですよね。それは竜や妖精と似ています。おとぎ話をしめして「ほらこれが竜ですよ」と示すことはできますが、リアルな世界で示すことはできません。ということは神は竜や妖精と同じように実態として存在しないということだと思うのです。 >☆ なぜですか? それは 何も説明しないですでに初めに論点(結論)先取で自分の頭の中だけで決めていたというに過ぎません。 過去にいろいろ説明したと思いますが、こうゆうことです。 神は超越した能力を持っていますよね。何の能力もないとしたら、それを神と呼べるのか?という問題が発生します。ではその超越した能力の存在はどうやっって、生成したのか?という問題が発生します。また、そうした超越した能力の存在が自然に偶然に生成されることは非常に難しい。それが神が存在しないと考える私の理由です。「神をつくったのは誰か?」問題です。 > ☆ そういう問題ではありません。論点がずれました。 そうですか?要するにbragelonneさんは神を信じたいわけでしょ?それはそれでいいと思いますよ。 bragelonneさんの書いていることは「信仰込み」なので哲学にはなじまないと思うのですよ。要するに哲学とか言われていますが、ご自身の信仰を語っているだけなのです。私は神を語るにしても信仰抜きで考えないと哲学にはならないと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ gooの辞書では神とは「信仰の対象となる霊的な存在」とあります。 / これではいかがですか? ☆ げんみつに言えば: (あ) 《信仰 あるいは 信じる》とは何か? (い) 《霊 霊的〔な存在〕》とは 何を言うのか? がなお問われるものと思います。 同じくげんみつを期すとすれば: (う) 《超越した能力を持つ存在》というとき 何を超越しているのか? が問われなければなりません。ま これは 《経験世界を》であるとは考えますが。 ★ ということは神は竜や妖精と同じように実態として存在しないということだと思うのです。 ☆ いえ。龍や妖精は 比べられるものがあります。 蛇のお化けであったり 主に自然界における不思議な(科学的に解明されていないかたちの不思議な または すでに解明されていて まぼろしであると分かっていながら ただ想像の世界であそぶために存在するとおもしろいというようなかたちで不思議な)現象であったりします。 おそらくそれ以上の内容を付されることはないでしょう。つまり いわゆる神として受け留められることはないはずです。 ですから 神とは何か? は依然として問われなければなりません。 ★ 何の能力もないとしたら、それを神と呼べるのか?という問題が発生します。 ☆ げんみつを期すならば そうであるかどうかは 神については分からないのです。分かるか分からないかが 人間には分からない。というふうに定義するしかないものです。 神は 何の能力もない――のかも分からないのです。人間が規定し得たら その規定する知性の能力の範囲内に 神が 閉じ込められます。そういうものではありません。 ですから ほんとうには ★ 「神をつくったのは誰か?」問題 ☆ は ないのです。あると言う人には説明しなければなりませんが。 ★ 要するにbragelonneさんは神を信じたいわけでしょ?それはそれでいいと思いますよ。 ☆ これも論点が違います。 あるいは 無理に合わせようと思えば こうです。 《その存在が知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ないナゾ――これを 非知という――》なる何ものかと人間のわれとの関係 これは すべて《信仰》とよぶ関係に入ります。 非知を受け容れる または 認めない・受け容れない これらいづれを選ぶにしても 《非知とわれとの関係》は 成っています。《非知》だからです。既知ないし未知の可知でもなければ 不可知でもないところの《非知》とは そういう関係にあり そういう関係にしかありません。 つまり いちど自覚して 神を受け容れた あるいは逆に棄てた というとき いづれの場合にも その人に 非思考の庭が成ってすでに《信仰》が動態として始まる。こういう寸法になっています。 すなわち このように信仰を哲学として分析し定義しています。 神や信仰について尻込みするのは 哲学の放棄です。 ★ 私は神を語るにしても信仰抜きで考えないと哲学にはならないと思います。 ☆ 神の定義が 何もないところでは まだ話は始まっていません。
- stmim
- ベストアンサー率24% (57/236)
神は概念である、というのはこうゆうことじゃないですか? 人間というのは勝手にいろいろな概念を作り出します。それが存在するとか存在しないとかおかまいないしに。そして概念として作ってはみたものの、実態は存在しないということもよくあります。神という概念も、概念だけで実態は存在しない。そうゆうことを言いたいのでしょう。 つまり神は人間の頭の中だけの存在。空想の産物。そうゆうことなんだと思います。 ただ、神を信じたい人は信じるということでいいと思います。 ひとそれぞれですから。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 神という概念も、概念だけで実態は存在しない。そうゆうことを言いたいのでしょう。 ☆ と言うのならば その概念内容を まづ自分が明らかにしてからその議論を始めなければなりません。 《神は概念である》と言っただけでは 話になりません。 成るというのなら 《概念》はぜんぶ《実態は存在しない》ということになります。 《犬》という概念は 類としての――犬という類または種としての――表現ですから その抽象性のゆえに 時に《犬なる概念は 実態として存在しない》という議論がなされることがあります。 それは そうだ。具体的な一匹ごとの存在から類概念として《犬》をみちびき出したのだから 当たり前だ。 でも 当然のごとく具体的なワンちゃん一匹づつの《実態》としての存在と対応しています。 つまり それでは《神という概念》はどうか? 何の説明もしていません。話になりません。 ★ つまり神は人間の頭の中だけの存在。空想の産物。そうゆうことなんだと思います。 ☆ なぜですか? それは 何も説明しないですでに初めに論点(結論)先取で自分の頭の中だけで決めていたというに過ぎません。 ★ ただ、神を信じたい人は信じるということでいいと思います。 / ひとそれぞれですから。 ☆ そういう問題ではありません。論点がずれました。 けっきょく《神は概念である》とだけ言って あとは信じたい人は信じればよいという含みを持って けっきょく哲学を放棄した に過ぎません。つまり 思考停止のアホバカ状態がよほど好きなあたまです。 いま現代にあって 日本人の哲学は こういう状態にあります。
ちゃんと睡眠はとれていますか。 精神疾患は発症していないでしょうか。 発症していなけばいいのですが、これ以上回答を続けると、あなたの意識の不安定さが進行すると考えられるので、これにて失礼することにします。
補足
ご回答をありがとうございます。 ★★ どこにもいないのに、本気で信じているなんて、古代人そのものにみえてきます。 ☆ どこにもいないのを、本気で信じているなんて、近代理性人そのものにみえてきます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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簡単すぎるじゃないか。 自己の自覚が無いから、どうして自分が生きているか理解が及ばないんだ。 ご存じのとおり、自覚があれば生は神抜きには語れない。 あんたの自己表現はこむづかしいが、コレは共通項だ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 No.1のでーでーてーさんへの返答を参考にしてください。 趣旨説明をかんたんにしたのは ちゃんとした説明がむつかしいから。 やり取りの中で分かるようにしたい。 ★ 自己の自覚 ☆ が有る・無いという議論は ややこしいのではないだろうか。説得力を持たせるのは むつかしいのでは?
本当にバカバカしいことですね。 遥か昔の類人猿よりちょっと進化した程度の人類が、雷や地震、火山の噴火なんかが理解できなくて、自分たちが理解している範疇の外側に神がいるなんて言い出して、それが広がっただけですからね。 それで雷や地震なんかが「これは神の怒りに違いない」なんて本気で信じて、供え物したり、生け贄なんかまでしちゃったり。 それが儀式になって、科学が発達した現代まで続いているなんて、つくづくバカバカしい。 そもそも、信じるとか信じないとか言っている段階では、理解していないということですからね。 どこにもいないのに、本気で信じているなんて、古代人そのものにみえてきます。
補足
ご回答をありがとうございます。 ここはしっかりと定義やその説明をおこなっていかねばならないと考えます。 そこでお訊きします。: ★ 自分たちが理解している範疇の外側に神がいるなんて言い出して ☆ この《外側》というのが わたしの見るところ 何ともはっきりしない。と思うのです。 何の外側なのでしょう? 前もって批判点を明らかにしますと おそらくこの経験世界の外側ということではないかと見るのですが しかしながら それですと けっきょくその外側は なお同じく経験世界であるのか? それとも そうではないのか? という問いが必然的につづきます。 経験世界の外側とは いったいどういう場なのでしょう? 世界(ないし宇宙)の果てがあったとしましょう。だとすると その先は どうなっているのか? けれども その境界は 認識し得ると言っているのですから 境界までは 経験事象が起こっている世界である。では その外側とは いったいどういう世界なのか? たぶん 経験世界を前提としたまま 内と外と言っても ほとんど議論にならない。のではないでしょうかねぇ。 つまり もし境界があって そのこちら側とそして向こう側とに分かれるといった程度なら なおまだどちらも経験事象が起きている同じような世界なのではないか? したがってその《外側に神がいるなんて言い出して》 ★ それで雷や地震なんかが「これは神の怒りに違いない」なんて本気で信じて ☆ ということになる――のは おかしい。内側の経験世界とさして変わらないのだから。 ですから 外側ではどう変わっているかを説明しなければならないでしょう。 ★ どこにもいないのに、本気で信じているなんて、古代人そのものにみえてきます。 ☆ 神の存在の証明がむつかしい――細かく言えば 証明が出来るか出来ないかが人間には分からない――と同じく 存在しないという証明も むつかしい。のですよ。 《どこにもいない》という命題は 決して自明でもなければ証明もされていないのです。 そんなあさはかな見方が ★ 科学が発達した現代まで続いているなんて、・・・
お礼
ご回答をありがとうございます。 無限にかんする《概念説明》: ★ については、わかったとは言えないと思っています。 ☆ ですから 《神は 概念である》と言うだけでは 意味を成さない。神は その無限であるゆえ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 上手く表せませんが、「わかったの程度」は以下のようなものと、思います。 ・納得 → 理解 → 了解. 納得は、少なくとも内部矛盾や周辺環境(常識?)との不整合はなさそうだと、受け入れた状態。 理解は、論理的・逐語的に追跡し終えた状態。 了解は、手に取るようにわかった状態(いわゆる意訳できる状態?)。 意訳可能を了解とするならそれは、論理的・逐語的・概念的理解をやり切った後に起こる事です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というところの《了解》には 神にかんする概念説明では人は 到らない。 ★ ところが無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約があるので、真の意味での了解は無い気がします。しかしそれでも、直感的な了解(非概念的了解?)はある。 ☆ ここですか 問題は。 (あ) ★ 無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約がある ☆ という命題は けっきょく《神は 概念である》という定義に 《ただしそう言い切っておしまいにすることができない余地がある》という但し書きを添えたものでしょう。 (い) 言いかえると 概念として神を扱っているが じつはそれは 便宜的にそう使い慣わしているということであって その本体(正体)は なおナゾである。というふうに 精確を期している定義でしょう。それが ★ 真の意味での了解は無い気がします。 ☆ の実質的な中身です。無限の扱いは 補助線を引いただけのことなのですから。 (う) 問題は ★ しかしそれでも、直感的な了解(非概念的了解?)はある。 ☆ という添え書きに やはりみたび・よたび 成ります。 (え) そのことは 次の説明と同じですので 合わせて検証しましょう。 ★ また言いますが無限公理です。とんでもない仮定なのに、誰も文句言わない(^^;)。 (お) すなわち 《便宜的な使い慣わし》の問題に帰着するということを 言わば最後に添え書きしておけば 最初の《神は概念である》という定義が それとして通用すると言っているのかどうか? となります。 (か) 答えは 自明です。当座の便宜のために但し書きつきで あたかも公理としてのごとくみなが用いる。に過ぎない。――です。 (き) つまりは 決してしかるべき結着はついていない――これです。これが 答えです。 (く) 哲学は 《文句を言う》のです。なぜなら 科学者にあっても誰もが 物言いを言っていいし実際に言えるというところの ★ とんでもない仮定なのに、誰も文句言わない(^^;)。 ☆ だけであるのだから。 神はサイコロは振るかも知れませんが 近似値にはなじみません。すなわち ★ ところが無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約があるので、真の意味での了解は無い気がします。 ☆ ではなく そうではなく ○ ところが無限は、「手に取れたら有限だ」という論理的制約があるので、真の意味での了解は 現象の知覚や理性による思考・認識としては(=それらこそが 論理的かつ現実的な制約のことなのだから) 無い気がします。 これを言いかえると 神についての人間による了解は あるかどうか・あり得るか否か それが人間には分からない。 ですよね? あるいはさらにつまり: ☆☆ 二で割っても三で割っても その商はやはり無限であるというその概念説明は それで分かったと言えるのか。 ☆ というとき その概念説明をとおして人間は ひょっとすると――あくまでその人の主観の内でのことであるが―― 分かったという場合がなきにしもあらず。と成り得ます。つまり 神について《人間は決して分からない》とか《分からないことが証明できた(この場合は 非知ではなく 不可知である)》とかという答えにはならない。(なるかならないかが 分からないといった定義の仕方がつづく)。 よって 《神は概念である》という定義は マチガイである。仮りにひとつの概念であったとしても その概念は すでにいちど無限の場ないしチカラを経由して来ているし それはあくまでひとりの人間の主観内における出来事にとどまる。――こう定義しなければならない。 このように回りまわってたどり着いたところで やっと: ★ しかしそれでも、直感的な了解(非概念的了解?)はある。 ☆ という表明が――それは 《非概念的な了解》として・つまりはけっきょくヒラメキとして―― ひとりの人間の《固有の時(非思考の庭)》の枠内において ささやかに持たれ得る。かも知れない。