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禅の「無分別」の意味
こんにちは。 禅でいうところの「無分別」の意味を教えてくれる人をご存知の方がいらっしゃいましたら、国内外問いませんので、どうかお教え頂けますでしょうか。 ※質問にお答え頂くための「定義や趣旨の擦り合わせ」としての意見交換なら歓迎しますが、ここで議論(無分別についての意見交換)をする気は全くありません。 質問の経緯を下記します。 分別は世を秩序的に保つために大切なものです。 分別にもレベルがあり、「味噌も糞も一緒にしか見えていない程度の分別とは言いがたいもの」から「多くの人にとって同一にしか見えないものに関する繊細で鋭いとても重要な分別」もあり、前者は論外ですが、後者のように磨かれた分別であれば「考えてはダメ」だとか「区別する事自体の無意味さ」なども当然踏まえられた上での分別になっています。 でも、私が受け取る禅の言う「無分別」の意味は後者ですら前者と大した違いは無いと言えてしまうほどかけ離れたもののように受け止めているのですが、いかんせん意味が分かりません。 人助けは良し、快楽殺人も良し、貧しい中から身を削いで与えるは良し、趣味の盗みも良し。 この境地だとでも言うのだろうか。。。 もしそうだとすれば「言うは易し、行うは難し」。言葉遊びに明け暮れてる救いようの無い泥酔状態の愚か者が大勢居そう。 「悟り」という言葉からイメージを連想すると、確かに「殺人事件を意に介さない」様な側面というと語弊がありますが、人の死、それも凄惨な死すら平常心の内に受け止める、いや受け入れるような側面があるように想像します。 ですから、「無分別」という意味には殺人も良しという意味が全くないかと言えばそうでもないと言われたとしてもさほど驚きはしないのですが、それは所謂サイコパスとは全く違う正常な智慧であると思わざるを得ない。。。 果たして一体「無分別」とはどういう状態の事を言うのでしょうか。。。 と思った次第です。 悟りを得た人でなくとも、禅のいう「無分別」を意味をちゃんと答えられる人であれば遠くてもかまいませんので、教えて頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。
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私は昔、若い時ですが、鎌倉の禅宗寺院の座禅会に参加して、半年間でしたが禅の修行をしたことがあります。 師家は故・安谷白雲老師、大正・昭和の名僧、原田祖岳の遺鉢を継ぐ人で、禅風は曹洞宗と臨済宗の折中という感じで、座るときは曹洞宗と同じ面壁、そして公案を用いるところは臨済宗という感じでした。 毎朝、6時頃から夕方の8時頃まで、中に昼食と老師の提唱を挟んで、座禅三昧の日々でした。 提唱のテクストとして使われたのが、「臨済録」で、老師は駒澤大学の教授をしていたことがあり、大学の講義を聞いているようでした。 当時は鈴木大拙の英文の禅の本が世界的に「禅ブーム」をひき起こしている時で、諸外国からもたくさんの修行者が集まって、国際色豊かな座禅会でした。 鈴木大拙の禅の本はたいてい読みました。 それによると、分別とは物事を「分けて考える」、つまり分析して考えるということで、私たちが物事を考える場合、たいてい分別です。 つまり合理的に考えることです。 ところが禅は無分別でなければならない。 分別を乗り越えて、無分別を目指さねばならない、と言われます。 知を乗り越えて、非知に至る。 たとえば、禅の公案に、趙州「無字の公案」というのがあります。 姿・形のない、文字を見てきなさい、という問題です。 無理難題で、合理的に考えたのでは、解決がつきません。 禅の公案集がたくさんありますが、「臨済録」でも、「無門関」でも、禅の公案というのはすべてがそれを合理的に考えたのでは、解決がつきません。 解決がついた時が「悟り」です。 分別を乗り越えて、無分別に至る、そうして初めて解決ができます。 あなたは分別は世を秩序的に保つために大切なものです、と言います。 確かに世間的には分別が必要でしょうが、自分の死を考えた時などには、分別は役に立ちません。 生と死を分別して、別々のものと考えていたら、死の恐怖を克服できません。 克服するためには分別を棚に上げて、是非とも無分別に、分別を越える必要があります。 ちょうど禅の公案が、分別を以て克服し、解決ができないように。 そのためには「生即死」「生死不二」に至らねばなりません。 禅は言います、 「生は生にして生にあらず、ゆえに生なり」と。 この論理が分かりますか? 禅の基本経典、華厳経の「即非の論理」というものです。 「臨済録」で、臨済は「仏は仏にあらず、よって仏である」と言っています。 合理的な分別をもってしては理解できないです。 「悟り」を開いて初めて、理解できるようになります。 あなたはその無分別を「人助けは良し、快楽殺人も良し、貧しい中から身をそいで与えるのも良し、趣味の盗みも良し、この境地を言うのだろうか、・・・・・・言葉遊びに明け暮れている救いようのない愚か者が大勢いそう」と言っていますが、それも分別です。 善とか悪とか、その分別を乗り越えて、善悪の彼岸に至る、それが禅です。 言葉遊びに聞こえるかもしれませんが、禅は「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」をモットーとします。 文字を用いず、経典によらず、人の心と心で伝え、己の本性を知って成仏する、ただそれだけです。 言葉遊びを否定します。 「悟り」というと何か特別のことのように、神秘的なことに勘違いしますが、道元によれば「目が横に、鼻がタテについている。それを知ることが悟りである」と言っているようにごく日常的なことです。 ところが人間というのは、このごく日常的なことが、もっとも分からないのです。 だから私たちは「知」と言えば、この日常を離れたどこか別のところに求めます。 しかし、禅は「非知に至る」ですから、日常的な、当たり前のことこそ、求めるべきものです。 「無分別」というと、同じように何か神秘的に聞こえますが、何のことはありません。 「知」を交えず、物事をその「あるがままに」見ればいいんです。 それが「非知」。 「知を乗り越えて非知に至る」と言っても、別に天に昇ったりする必要はありません。 自分の足元を見るだけでいいのです。 誰も人はふだん、自分の足元なんて見ないですから。 でも、物事を「あるがままに見る」って、ひじように難しいんです。 先入観があるし、余計な世間知もあるし、常識もあるし、そういうものが妨げになって、私たちは、物事を「あるがままに」見ることは出来ないのです。 もし、禅の無分別が何であるか知りたかったら、言葉で云々することをやめ、直接に座禅をすること、立派な師家に付いてその指導を仰ぎ、出家して座禅三昧の生活をすることです。 それしか知る手立てはありません。
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- a_hona
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全くの正気でいることは難しい。しかし、覚った人は全く正気であるはずです。 おっしゃるように、正気であるから道を志し、次第次第に正気を起こし道を歩み進め、ついに完全に正気になるのかもしれない。 ところで、100対0の意味が掴みかねますが、どういったことでしょうか?
- a_hona
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私は、正気である事は道の始めであると考えます。例えば病人の闘病生活が、気をしっかり保つ事から始まる様なものです。意識も朦朧としている様な状態では、道の歩みは適わないでしょう。 病人には病識が欠かせないように、自身をよく知り謙虚であって、しかも自らを励まし歩むならば、健康を取り戻す日もきっと遠く無いでしょう。 空蝉の世界とは、(現身という意味もあるようですが、)私見では、要するに空じることに取り憑かれて空から離れられなくなった状態かと思います。真理の無い世界と言えばそうでしょう。 覚りに向かう心まで空じてしまい、当初の目的を達成でき無いばかりか、まともな神経まで損じてしまう、そんな事だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 100:0の考え方でしょうか。 正気が僅かに残っているから道を歩きたいと思い始め、思っているうちに正気が増すから道を歩き始める。歩き始めれば道を進むにつれて正気度を増していく。 これが悟りの過程ではないかと私は考えています。 ありがとうございます。
- a_hona
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壇教によると、空蝉の世界に落ち込んでしまい、覚りを求める心まで忘れてしまう、と言う記述があったかと思います。今、手元に文献がないので表現にムラがあるかもしれませんが、およそそのような事が書いてあったかと記憶しています。気違いとは、そのような空蝉の世界に落ち込んでしまい、ともすれば廃人になってしまいかねないような人々のとを言ったのではないかと推測します。 世の人々については、皆、多かれ少なかれ、身体的にであれ精神的にであれ、病んでおり、全くの健康な人というのは少ないと思います。 また、私の考える分別智とは、決してそれ自体が悪いものではなく、それが全てだと思い凝り固まったり、執著して無分別智の存在を信じられなくなってしまうことが問題なのだと思います。 また、分別智は、頭で考えることだけでなく、もっと、衆生の心に深く突き刺さるケイゲ、即ちひっかかりと妨げにより生じているもので、本能的なものではないかと思います。 次に、頭脳によらない識別作業というのが何を表しているのか掴みかねますが、余計な識別作用が滅すれば、感覚器官の接触も整えられるのだろうと思います。従って、頭脳によらず、諸々の感覚器官の接触にもよらない、人々の心底から湧き起こる初めての識、これが智慧だと考えられます。これをアマラ識とよび、智慧の源としているのではないでしょうか。あくまで私の見解に過ぎないですが。 さらに、言っておくべきことは、正しい考えというものが存在し、それは道に適ったことであるから、衆生の思惟考研が仏智に届かないものだとしても、考えそのものを否定してしまうとかえって道をそれてしまうでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 仰って頂いた事はもともと私の中にもありました。 でも、あえて他人の口から仰って頂いた事によって結構力が抜けた気がします。 やはり対面せずともこの世界のどこかに正気を残している方がいらっしゃるという事を感じれるだけでも心が軽くなるものなのでしょうか。 改めてこの点のお礼もさせて頂きます。 ありがとうございます。 さて。 衆生の思惟考研が仏智に届かないとしても~ 私も衆生ですし、私は私の思惟考研にそれなりの自信も持っていますので否定はしていません。 ただ自分の想像を超えて無駄(害悪)な部分も多いのであろうなと思っている程度です。 空蝉の世界。 真理の無い世界、真理の無い意識と言い換える事ができますでしょうか。いかがでしょうか。 「悟りを求める心まで忘れる」とは「神を思う心まで忘れる」即ち「人間の本性」つまり「正気」に戻ろうとする心まで忘れると言う意味に捉える事は可能でしょうか。いかがでしょうか。 私は悟りとは「正気」の事だと思っています。 悟っていない人は即ち「正気」ではないということです。 私自身も含めて「気違いばかり」の世界がこの世界。 悟っていなくてもこの自覚と自覚に伴う謙虚さ慎重さが伴えば大分違うと思うのですが。。。 iOSでは変換できるのにMacOSでは「ケイゲ」がでませんでした(笑) ともかく。 ケイゲとは中々深い言葉ですね。 ケイゲからの解放があればそれだけで天国の様な世界になるように思えます。 ご回答ありがとうございました。 このカテでは期待するだけバカを見ると思って「ここで意見交換をするつもりはない」と言いましたが、有意義なやりとりになりました。 他に何か加えて仰る事があればぜひお待ちしております。 では。
- a_hona
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無分別智とは、仏智の別称で、おそらく、妨げ無き智慧の事かと思われます。衆生の分別を超えている様は、まるで大人が子供の抱くあらゆる見解を超えているようなもので、衆生の知見の集大成も、仏智には一歩も及ばないというものです。 例えば子供は遊びの達人で、子供の遊戯に関しては大人よりもはるかに詳しいにも関わらず、大人はそれらの遊戯で得られる楽しみを超越しています。当然です、大人ですから。 仏智が衆生の知見である分別智を超えている様もそのようなもので、無分別智を得るという事は即ち覚るという事に他なりません。 また、私の聴いたところでは、覚りは漸悟ではなく頓悟だという事です。つまり、小悟や大悟、そして悟後の修行などないという事です。私も一度ならず所謂魔境というものを体験したことがありますが、それは、かつてない感覚、光になったような感覚でした。人々が座禅に執著して悟りを目指そうとするのも無理はないと思います。 しかし、六祖壇教にあるように、「ある種の者は人を座らして、心を見つめ、心の空なるところを見つけよと教え、動かずにじっとしているように努力させている。自分を見失ったやつは何も知らずにすぐにそれにとりついて、気が違ってしまう者が数百人もいる様だ。もちろんこんな教えは大間違いである。」という事なのだと思います。 子供の見るところと比べ、大人の知見が大人の世界というものがあるところから来ているように、仏の世界、法界から、仏智、即ち無分別智は来ているので、覚らない限り、衆生のままでそれを知る事はできないのでしょう。 また、覚りは識別作用の滅でありますが、この際滅するのは余計な識別作用であり、すべての判断能力が停止するような事にはなりません。世間解であり、悪を止めた仏が、非常識であったり悪い事などするわけがないという事です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 わりと私と似た考えをお持ちの方かと思いました。 「気が違ってしまう」というのはどういう状態でしょうか。 私は現代日本人が正気を保っているとは考えていません。 真相に無関心にイメージだけで判断するのはもう論外ですし、経済社会の競争原理に毒されすぎて歪んだ正義感等を持っている類いも論外。 貧困や孤立の恐怖から半ばヒステリー状態で時を過ごす人。 またそういう人たちとは違って自分は冷静だと考えているが、その実心拍数や脳波が触れていないというだけで思考傾向や判断水準などはあるべき人の姿から遠く離れている等々。 こういう風に一つ一つを見ていくともう既に現代人は正気を失っています。 そうだとすればそういう多くの気が違ってしまっている人たちから見て気が違ってしまったところで他の人たちとの差は対してありません。 気が違って見えやすい分マシとさえ言えるかもしれないとおもいますし、こう言う人たちの言う「中庸」はどことどこの間の話しをなさっているのですか?と問い返したい気もある位です。 さて、脱線はこの位にしておいて。 仰っている事は私の言葉で言うところの「頭脳による区別作業」を分別とし、「頭脳に寄らない識別作業」を智慧と仰っているという理解でよろしいでしょうか。 間違っていればご説明を、合っていればその根拠をもう少しご紹介頂けましたら幸甚と存じます。 何卒、よろしくお願い致します。
- kurinal
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urbanite様、こんばんは。 この間、テレビを見ていて「ふーん」と思ったのは、 曰く、「(カラスが気になって仕方の無い時は、)カラスの境地になること。そうすれば、カラスの鳴き声も気にならなくなる」 ということでした。 聞きかじりで、すみません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 すみません。 私にはご意見を参考にする技量が足りません。
- amenhotep2000
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urbaniteさん こんにちは。 私は仏教は趣味の茶の湯と哲学者西田幾多郎の理解のため、かじった程度なので、禅における「分別」ではなく、西洋的な「分別」を参考になればと思い回答します。 ラテン語で日本語の「分別」と訳される語は「discretio」という言葉です。 この言葉はギリシャ語の「diakrisis」から派生したそうですが、元々ギリシャ語でどのような意味だったかと言えば、「切る・離す・ふるい分ける・区別する・感覚的に諸性質を識別する」の意であり、そこから、「善悪を区別する・真と偽とを識別する」という意味になったそうです。 また「discretio」はギリシャ語の「metron」という語にも密接に関係し、「測定する・制限する・適度にする」という意味から、「節度と中庸を意味する調和を与える」という意味も兼ね備えたそうです。 この中庸という言葉は、プラトンは「メネクセノス」の中で「何事も度を越すなかれ、という古いことわざが名声を得たのは、それが真に正しいからである。」と言い、アリストテレスは「二コマコス倫理学」で「徳は尺度であり、中庸であり、両極端の均衡にある。過多も過少も良くない」と言っています。 以上はギリシャ哲学における自然的秩序における「分別」ですが、キリスト教が西洋で広まると、「discretio(分別)」は神という超自然的秩序に基づき、人間に働きかける霊を見極めて、それが神からのものか、人間からかdiscretio、また悪魔からかを「分別」する能力とされました。 そして中世の修道院においては「discretio(分別)」は「一般的識別能力・道徳的価値のあるものを知る能力・賢明な中庸、すなわち修行による極端な厳格と、度をすぎた寛容の拒否」とされ、これらは、謙遜によってのみ与えられる、神からの賜物であるとされました。 本論の禅の話に戻すと、禅宗は、お経を読むことによって、頭で理論的に真理にたどり着くのではなく、ひたすら座禅という肉体を酷使することにより悟りを開く宗派で、悟りの境地は言葉では説明出来ないと聞きます。 これは、中世のキリスト教の修道院に近いところもあるかもしれませんが、私のような長文の回答を書くようでは、悟りは程遠い。しかし、中庸と言う言葉は、洋の東西を問わず、ひとつのキーワードで座禅を通して、自分の心をコントロールし、いつも中庸に保てるというのは、禅における「悟了同未悟」の見地ではと思われます。中庸でなく、おごり高ぶったり、卑屈になる人は多々います。 最後に補足ですが、私は、白隠の達磨禅師の絵が好きですが、2010年の12月から1ヶ月程、千葉市美術館で行われた、アメリカの蒐集家が日本から持ち去った「帰ってきた江戸絵画~ギッター・コレクション展~」で白隠の「一富士ニ鷹三なすび図」なるものを観ました。 正月の初夢で見ると縁起が良いとされるものを、白隠らしい絵が描かれてましたが、その上に漢字で「是什麼(これなんぞ)」と書かれてました。「是什麼(これなんぞ)」とは実に意味深です。やはり禅の悟りの境地にならないと白隠が何を言いたいのかという本質は分からないと思いました。 では、修行に戻ります。悟りに至ったら、次に回答するときは何も書かず、真っ白な回答をしますので、そこから何か読み取ってください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 謝るのもかえって失礼に当たるのかもしれませんが、すみません。 あまり参考にはなりません。少なくとも今は。 よろしくお願いします。
- yuimakozi
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こんにちは。私の回答が、あなたの望むものかわかりませんが一応回答します。 「分別」(ふんべつ)とは、一般的には「物事をわきまえる。判断する。」という意味ですが、禅のいう「分別」とは「識別する心の働き」という意味です。 私たちは、自分では正しく判断したり識別したりしていると思っていますよね。 でも、仏教では「凡夫」は、自分に執着して「自我」を捨てる事が出来ないから間違った分別しかできないと考えます。 人間は判断をする時、自分自身が見たり感じたりして考えたのだから正しいと思います。しかし、そのことこそが自分に執着しているという事なのです。 その結果、多くの煩悩を生み「悟り」からは遠ざかってしまいます。 つまり「無分別」というのは、凡夫の分別は悟りの妨げとなるから無い方が良いという意味です。 では、どうすれば正しく判断したり識別したりできるようになるのか。 禅宗系では、「禅定」がそうなるための修行の一つだと考えているのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 No.3さんと同じ感想を頂きましたので、重なる部分が多い事をご容赦下さい。 私は悟り、つまり真理を目指す者が自分の発言に対して真摯な姿勢から異を唱える事に対して憤慨するとは中途半端と考える傾向があります。 私ならそれが真摯な姿勢から発せられたものであれば自分の意見に対する異であってもありがたく受け取るべきだと思うからです。 ですから、「常識」では失礼に値するかもしれませんが、以下ご容赦とご寛容をもってお読み頂ければ幸甚です。 結論から言いますと、私の質問に対する答えには至っていません。 これはyuimakojiさんが至っていないという意味では必ずしも無く、私の理解力に対して至っていないという可能性も含んでいます。 仏陀でもキリストでも相手の理解力に依存する部分が大きいのは実証済みですから、「至っていない」即ちyuimakojiさんが至っていないという意味ではないという事です。 かなり大胆な質問の仕方に直すと以下の様になります。 悟りが無分別、つまり何も区別しない事なのであるなら、悟った人は殺人を平気でする可能性がある事か?そうでないなら分別はそこに存在しているのではないのかという事です。
- pupPeTeer119
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ご質問を読んでふと思い出したのが「理趣経」の内容でした。 仏陀は弟子の悟りに応じて教えを説いていたということですから同じ宗教の教えといえども過激に見えるものもあれば穏やかなものもあるように思えます。 理趣経の内容も仏典としてどうなのか、と思える程度に一見大胆な表現が用いられていますが、もしかしたら質問主さんの疑問に答えてくれるものかもしれないと思い回答してみました。 もし既知のものでしたらご放念下さい。
お礼
ご回答ありがとうございます。 どんな本かど思い色々と調べていたら、文庫で売っていたので早速買ってみました。 読んでみます。 ありがとうございます(^^)
お礼
ご回答ありがとうございます。 むろん競うつもりは全く無いのですが、一応自己紹介として半年の座禅三昧、しかも朝の数時間のみであるなら、少なくとも時間的には私の方が座禅三昧をしていると言え、因に私は死は無いと思っており、人間は死ぬ事がないと考えている事を申し上げておきます。 また、悟りが悟りを共有できない人たちの間ではイメージするほど格好の良いものではない事も想像はしていますが、悟りを共有できる間ならとても神秘的な(側面も備えている)ものだと考えています。 仏陀も何日も酔いしれたのですよね? 私も垣間みた事がありますが、あれが何日も続いたならばそれは酔いしれるでしょうし、その先の人生の全てを投げうってもそれに準ずる価値あるものである事は明白でしょう。 悟りの初期段階では山は山でしかなく、中期では山が山でなくなり、後期に至と山はやはり山であった。 という言葉もあるようですが、これは側面を言い表しているに過ぎないのかもしれません。 そういう意味で、目が横に、鼻が縦についている事を知る事が悟りであるとは小悟なのであろうかという思いもよぎります。 当たり前の事を知る事の大切さを否定するつもりはありませんが、そこに小さく落ち着いてしまって本質を見失う人も多そうだとおも思っています。 悟りは一筋縄では行かないのではないでしょうか。 マザーテレサの言葉にこう言うものがあります。 「遠くの人を愛する事、思いやる事はそれほど難しい事ではありません。目の前の人を愛する事こそが困難でも大切な事です」 細かい言い回し等は覚えていませんが、意味的にはこういう趣旨の言葉でした。 生死まで論点を持っていくと話しは簡単です。 でも、我々は生死とはあまり関係のない境界で生活しています。 生死の狭間の問題であればいとも簡単に捨てる様なもののために生死の境ではない境遇だからこそその際には簡単に捨ててしまえるもののために殺人さえ起こります。 全く悪気がなく、素朴な発言でも相手の受け取り方でモラハラやセクハラが成立するほど弱者過保護なこの世界で権利ばかりを主張して義務を果たそうともしない腫れ物どもが自己保身のために平気で確認作業もしないまま”自分の気分を害された”だけで人を訴える世の中で、分別がないということはどういう事を意味するのでしょう。 刑務所に入ってもOKな境地なのでしょうか。 悟りの境地に至れば当然そうかも知れませんが、大抵の悟りについて語る人はいざ自分が刑務所に入る状況に陥れば悲しみますよね。 ここが言葉遊びと本物の悟りの境界とでも言いましょうか。 キリストも死ぬために生まれて来たのに、死ぬ直前には「可能ならこの試練を自分から除いてほしい、でも私の望みではなく、神の御心のままに事が進みます様に」と祈っている事から、悟りを得ていても体は弱い事は伺えます。 人助けは良し、快楽殺人も良し~も分別として排除すべきなのであれば、悟りを開いた人は殺人OKという事ですか? もしそうでなく頭脳の区別作業によらないが悟ったものは殺人等しないということであれば、頭脳の区別作業とは関係ない次元の分別は存在している事になりはしませんでしょうか。 頭脳の区別作業を分別と言うならそれは愚か極まりない側面が結構大きいのは解ります。 これは論外です。 でも無分別は頭脳とは関係のない分別すら否定するのかを知りたいのです。 もしそうであれば味噌も糞も一緒の境地との区別が解らない。 そういう趣旨の質問です。 失礼な文面も多々あろうかと思いますが、真剣な質問故、ご寛容をもってお読み頂ければ幸いです。 何卒、よろしくお願い致します。