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神経症について質問です
人生問題の解決のブログから来ました。 そこで思ったことがあるのですが、神経症を患っている人達は、禅で言う「見性」、別の言い方をすれば、「悟りを開く」ことをしないと、苦しみから解放されることは無いのでしょうか。 「見性」か、「治らない」かの二つしか道はないのでしょうか。 また、自分に自信が持てなくなるのは神経症が由来でなる場合はありますか。 後者は前者とは関係の無い質問になってしまいましたが、答えられる範囲で良いので、お答え頂きたいです。 突然な質問、失礼致しました。
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- hakuin24
- ベストアンサー率50% (1/2)
神経症克服者です。 問題が問題ではなくなる。以前として課題は目の前にあるけれども越えると覚悟する...感覚です。 前向きな覚悟をした時期からパタリと神経症は消えました。
- ebiharu
- ベストアンサー率25% (27/108)
私も、悟りとはまったく関係ないと思います。 私もどちらかというと神経症の部類で、いつも不安ですし自信もないですが、受診するまでは無いか、と思っています。 どーせ、治りゃしないか、とも思ってますし。 治らないのだから仕方ない、そう思うと楽になります。 不安な時、考え込んでしまいますが、その時、「俺は病気なのは嫌だ、あーぁ、嫌だ、嫌だ、ホントこの病気嫌だ」って心で繰り返して跳ね返しています。 あきらめの境地、そこから這い上がる努力、この辺りですかね。
- 177019
- ベストアンサー率30% (1039/3444)
禅でいう「見性」「悟りを開く」と神経症とは一切関係がありません。禅宗は経教を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとします。確かに衆生はすべて仏と言えますが、それは単なる理論上の仏であって、実際の仏ではありません。私達の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずる事は出来ません。だからこそ釈尊(お釈迦様)は、「涅槃経」に「願って心の師と作(な)るとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきでない、と誡められています。今、悩みをお持ちであるなら、それは過去の「因」が現在の「果」となって顕われて現在の「因」がまた未来の「果」を招くというように過去・現在・未来にわたり一切の事物に必ず原因と結果が存ずるのです。お大事に。