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神が死んだのなら 生きていたときがあったのですか
そんなバカな。 生きたり死んだりするものが どうして神なのか? 多くの人が催眠術にかかっているのではないだろうか?
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- stmim
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bragelonneさんの示した考えというのは、哲学なのでしょうか?それとも思想とか他のものですか? 学問としての哲学ということなら、人間の理性が扱えない範囲はやはり哲学でも扱えないと思います。もし、思想ということなら、それは本人の自由でしょうけど。 多くの民族がそれぞれ神の概念を持っていることについて私は以下のように考えています。 人間の生物としての進化が神の概念をつくっていると。 次の2つ、がそのもとになっています。 (1)恐れの感情 (2)理屈づける能力 (1)恐れの感情は人間の進化で身についた能力です。危険なものを恐れることによって、危機から脱することができます。あるいは危険なものに近づかない。 (2)理屈づける能力は人間にとって重要です。これがあるから、いろいろな現象を解明して、人間は知恵をどんどん獲得してきました。しかしながら、なんにでも理屈づけをしてしまうため時として空想を作り出します。 人類の歴史においていろいろな災難が襲いました。疾病、自然災害など。こうしたものは、科学が発達していない時代の人類にとってなぜ起こるのかさっぱりわかりませんでした。よくわからないものに理屈をつけて神だとしたのではないでしょうか。そして神に従うことによって災難を避けることができるようになると。 人類に神の概念があるのは、神が存在するからではなく、人類の本能が、あるいは脳が神を想起させたのだと思います。どの民族でも神をもっているからと言って、神が存在することとはつながらないと思います。
- amenhotep2000
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bragelonneさん こんばんは。 議論が発展しているようなので、ちょっとお邪魔し、論点の軌道修正的な、回答をします。 ドラえもんのタイムマシーンに乗って、過去へタイムスリップ。 bragelonneさんは、覚えているかもしれませんが、聖書のコリント人の第二の手紙の12章に「第三の天」という記述があります。 当事の人々は天は、雲があるこの世(第一の天)、星が張り付いているところ(第二の天)、そして楽園がある場所(第三の天)という三層構造の宇宙観を持っていました。 ところで、聖書の「使徒言行録」において、魔術師シモンという人がいて、パウロと論争しますが、この魔術師シモンは、当事にすでにキリスト教の異端とされた思想であった、グノーシス思想のシモン派を率いた人物です。ここまでは、すでにbragelonneさんには回答したと思います。 その後、この異端とされたグノーシス思想の「ポイドマンドレース」というのを読んだら、なんとグノーシス思想では、天は10層に分かれ、さらに円の外側に「叡智界」という神のいる場所を考えたようです。 つまり、われわれは、どこまでも円の内側の「有限」な世界で生きるが、神は円の外の「無限」に生きる。 さて、タイムマシーンで現在に戻ると、科学の発展によって、探査機を飛ばし、冥王星の画像などが、最近やっと分かり始めた、宇宙は魅力ある研究ですが、果して、人類は科学により「宇宙」たるものの、どこまでを理解しているのか? 数学的な机上の仮説からの推定に過ぎないのではないか? 宇宙は、「有限」か「無限」か?古代の人が考えたように有限なら、その外側に無限の世界が拡がっているかもしれません。 話は変わりますが、東京は8日連続の35度以上の猛暑日を記録更新しましたが、bragelonneさんのいるところはいかに。 この、猛暑に、科学をよく知らない人でも、「地球の温暖化」は確実だと、言っています。 しかし、科学的には、地球の気温は寒冷期と温暖期の周期があり、本当に二酸化炭素が、温暖化に関わっているのかは、まだ、議論が続いていて定説ではない。科学的認識とはこの程度です。 この、異常気象が続いたら、私の世代くらいまでは、大丈夫かもしれませんが、将来、日本には、中心気圧900ヘクトパスカルの、スーパー台風が来たり、アメリカやオーストラリアの穀倉地帯は植物の生えない、不毛の土地となり、100億人と言われる、地球の人口の、食をまかなえなくなり、食糧をめぐって、戦争が起きるかもしれません。 その時、人類は、科学を見限り、破壊しつくされた「自然に帰れ」ということは出来ず、「神に帰れ」と言い出すかもしれません。 bargelonne哲学とyuniko99哲学とpsytex哲学をIT mediaにおいて融合して、子孫に残すことを望みます。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 グノーシス主義は 文学です。 ★ つまり、われわれは、どこまでも円の内側の「有限」な世界で生きるが、神は円の外の「無限」に生きる。 ☆ あめんほてぷ神学の弱点が ここにあります。 ★ 神は〔有限世界としての〕円の外の「無限」に生きる。 ☆ 《無限》という説明は 合っていますが 《経験世界の そと》という捉え方は 根本的にマチガイです。 内と外なら その境界があるはずです。経験世界に属するなら 人間の思考によって認識し得ます。神は この境界をも超えている〔という想定な〕のです。 もっともこの世界の《外》というのは どういう場であるのか よく分かりませんが いづれにしても 内と外との大きな世界をも超えているのが 《非経験の場 ないし 非知なるナゾ》です。 もっと分かりやすく極端に言えば 《非知なるナゾ》は 経験世界を超えているゆえにこのわれわれの経験世界に 中性子のごとく介入して来ているかも分からないのです。指と指とが互いに触れなんとする状態で 非知なるナゾはわれわれに迫って来ているかも分かりません。さらにあるいは この神は すでにこのわれわれの現実世界にあまねく存在しているかも分かりません。むろん その遍在も 非知なるナゾとしてですから 非在としての存在になるでしょうが。 そしてあるいは 神などはいないという捉え方をするのも 自由です。非知なのですから。神はある・いるという場合と同じく 非知についての仮りの捉え方にしか過ぎないからです。 科学にとって 神は非知です。この概念による説明をどうかかみしめてください。 ★ yuniko99哲学とpsytex哲学 ☆ すでに見限っています。
- stmim
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bragelonneさんの言われるのは、神の認識論ですよね。可知とか不可知とか。 その前にまずそもそも神が存在するのか存在論をしておく必要があると思います。 なぜなら、もともと存在しないものに非知だとかあれこれ考えても無意味だからです。 まず認識の対象である神が存在するのかしないのか、存在するなら、それを人間が認識できるのか、という順番で話がすすむべきでしょう。 私はあまり存在する蓋然性は低いと考えています。 というのは神に特別な能力(宇宙創造、全知全能など)を期待してしまうと、その分存在の可能性が下がると思うからです。 さて、仮に存在するとした場合に、bragelonneさんの認識論の話になるのだと思います。 そこで私が考えるのは、神は観測可能かという点です。 神そのものでなくてもよいです。神がいて何か現実に影響を与えている証拠があれば、それは神を観測できるということになります。 もし観測できるのであれば、それは神がいるという証拠になります。 原理的に観測できないというのであれば、人間が観測する限り現実のいかなるものにも神は影響を与えていないということです。 仮に神が存在しても、人間の現実に何も影響を与えていないなら、それは存在しないのと同じです。したがって神は存在しないと扱ってもいいでしょう。 現在までのところ神が存在する確実な証拠はありません。 現在の時点で考えるなら神は存在しないか、存在しないと同じかのどちらかと思います。 それから、神を考える上でやっかいなのは、人間は神を求める存在だということです。 これは人間の動物としての進化上の制約だと思います。 神の証拠はないのに、どの民族でもたいがい神や宗教を持っていますから。 私たちがついやってしまうのは神がいたらという願望込みの議論です。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ bragelonneさんの言われるのは、神の認識論ですよね。可知とか不可知とか。 / その前にまずそもそも神が存在するのか存在論をしておく必要があると思います。 ☆ この場合 存在論を兼ねています。 可知・不可知そして非知という認識の対象(非知の場合は 非対象)のこととすれば その存在論になっています。 可知・不可知は 経験事象という存在(存在の動態ないし過程)を扱いますし 非知は 《非経験の場》という存在(ないし 非在なるもの)を 大きく存在論としてあつかっていますから。 言いかえると 神については 通常の存在論にはおさまらず 認識の対象ではなく 認識し得るかし得ないかが知り得ないものであるゆえに そのままの内容を想定するということになります。 《知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ないナゾ》という存在を 想定するというかたちです。 なぜなら じんるいは どの言語でも《かみ》という言葉を持っていますし 経験世界があるとすれば その特徴としての有る無しの認識やものごとの原因結果の関係についてのやはり認識を超えた《非経験の場》が おのづから・必然的に想定されることになるからです。 《非知》で説明するのが いちばんだと考えますが むしろ《永遠・無限・絶対》といった概念で説明すると分かりやすいはずです。《うつろいゆくもの・有限・相対》といった対比する概念があるので 分かりやすい。 (非知も 可知や不可知との対比で分かりやすい説明になっているはずですが なにしろこの説明方法はわたしが考えたことなので まだ知られていません)。 よって: ★ なぜなら、もともと存在しないものに非知だとかあれこれ考えても無意味だからです。 ☆ という理解にはなりません。《もともと存在しないもの》という前提は どこから来ますか? すでに人間の経験合理性によって判定しうる認識であるなら その規定じたいも規定の対象も 経験事象のものです。神について何らあたらしいことは 哲学できていません。 以上のように 次のような通常の哲学における手続きは 要を成さないのです。経験事象を超えているからです。因果関係から自由な場を捉えようとしているのです。: ★ まず認識の対象である神が存在するのかしないのか、存在するなら、それを人間が認識できるのか、という順番で話がすすむべきでしょう。 ☆ 存在するにしろしないにしろ 人間が認識し得たなら その対象は 経験事象であるに過ぎません。その経験現実に対応することから離れて抽象的な概念になってしまうにしても それは 人間のあたまの中の想像世界という経験事象であるのです。 ですから 次のような《蓋然性》や統計学の問題ではないということ このことがすでにはっきりしているはずです。: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 私はあまり存在する蓋然性は低いと考えています。 というのは神に特別な能力(宇宙創造、全知全能など)を期待してしまうと、その分存在の可能性が下がると思うからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 神の属性については 次のように理解してください。 非経験の場:因果関係から自由な場ないしチカラ :認識のもんだいとしては 《非知》である。 概念として次のように説明され得る。 :絶対・無限・不可変性 ここから 説明はさらに派生して物語のごとくにも編まれて行く。 :《絶対》の擬人化⇒ 絶対者 ⇒ ならば全知全能で 真理であり 善悪の彼岸であり 正義であり 愛であり慈悲であるうんぬん。 全知全能であるなら 世界を超えた場として・またそのチカラとして 創造主である。 ☆ これは あくまで神について説明をするための普及版です。代理表現であり 仮りの説明であり 補助線です。 ★ さて、仮に存在するとした場合に、bragelonneさんの認識論の話になるのだと思います。 ☆ うんぬんというお話は わたしの示す神論とは 縁もゆかりもない。となりますので これまでの説明にてご理解ください。 ただしその一つの帰結としての: ★ したがって神は存在しないと扱ってもいいでしょう。 ☆ は そのとおりだと考えます。言いかえると 《神は存在すると扱ってもよいでしょう》という派生的な帰結と 互いにひとしく有効であると。 つまりは 有る無しを超えている非知なるナゾについては 仮りに有ると言っても無いと言っても どちらもその非知なる想定にあてはまります。ゆえに 有神論と無神論とは互いにまったく同等である。と言えるはずです。 《有る神》と《無い神》とは 表現が違うだけで 同じ非知なるナゾです。有る神の名前が ヤハヱーであろうとアッラーフであろうとあるいはブラフマンなりアミターバ・ブッダなりであろうと みな互いに同等です。非知なるナゾであることにまったく違いはありません。 ★ 現在までのところ神が存在する確実な証拠はありません。 ☆ これは すでに初めに神を 現在において《未知》だと規定しているところから出発しています。わたしに言わせれば 神論ではありません。 神に対するのぞみ・よすが・ささえであることといった願いは 非知なるナゾに対してなのですから まったく主観の自由です。人間は よわい存在ですから いくらでも願い祈り頼ればよいわけです。ただし 風は気ままに吹くとは言われています。気休めとしてでも 寄りすがるのも まったく自由です。
- stmim
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逆になぜ、神が生きたり死んだりしないものなのかお聞きしたいです。 なぜなら神とはよくわからないものでしょう? 死ぬとか生きるとか決められないと同時に、そうでないとも決められないと思いますよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ なぜなら神とはよくわからないものでしょう? ☆ ですね。ですから しかもこの場合の《分からない》ということの中身を しっかりと捉えなくてはならない。 なぜなら 人間が認識や思考やあるいは想像によっても《分からない》という場合 けっきょく《未知》と《不可知》とそして《非知》とがあるからです。 《未知》は 大きく《可知》に分類され 《既知》ではない知になります。やがて既知になるであろうと見なされています。 《不可知》というのは ややこしいですが 《可知》ではないわけです。ですから同じ《分からない・知らない》でも 《未知》とは別です。 つまり 数学の定理か何かで《人間には知り得ないと知った(証明し得た)》というような事柄があるようです。これを言うはずです。 人間の論理で明らかになった事柄であれば その限りでこの《不可知》なるナゾは 経験事象であるということになります。人間と同じ経験世界に属しているけれど その人間には知り得ない現象や想像じょうのものごと。これが 不可知であると。 ところが人間にとって分からないナゾとしては 《非知》が さらにあります。 どう定義すればよいでしょう。 《人間にとっては知り得るか知り得ないか そのことさえもが 知り得ない》ナゾ。ではないでしょうか? もし この定義がみとめられるならば とうぜんのごとく 《非知》なるナゾは: ★ 生きたり死んだりしないもの ☆ であるとなります。あるいはつまりそんなことは 人間には分からないわけです。 生き死にの経験世界を超えているナゾである。これが 神です。 《生きたり》は あとでも触れますが 《生まれたり(つまりは 人間がこしらえたり)》の意味に採れるゆえに アウトです。 ★ 死ぬとか生きるとか決められないと同時に、そうでないとも決められないと思いますよ。 ☆ これについては 《有るか無いか(居るか居ないか)》としてそのいづれかを人は好きにえらんで 自己表現の中に用いればよい。となるはずです。 有る神か 無い神か です。どちらも 非知を仮りに分かりやすいように表現し変えたものです。ふたつは 表現の差にかかわりなく 互いにひとしい。 《有る神》派は たしかに《神は生きている》といった表現をも用いるでしょうね。そしてそれは 《非知なるナゾ》について おのれの信仰〔としての主観〕の範囲内で表現しているのだという説明のもとに成りたちます。 ところが 《無い神》派にしても 神は生まれたとか死んだとかというふうな表現は――論理的な定義の問題ではなく表現のカザリやインパクトをのみ狙った文学でないかぎり―― 通用しません。 生まれる・死ぬは 時間的な事象であり 経験世界におけるものごとです。《既知かまたは未知であるものごととしての可知 あるいはそして不可知》でしかないと考えられるからです。 死後のことは分からないとしても 死のこととその時点は 可知です。(同じ人間である他者の死について 可知です)。この経験事象である死によってあたかも始まったと見られる死後の時間・空間(?)は その起点が経験的であるかぎりで 経験世界の問題となるはずです。 よって 神については 《生まれるとか 死んだとか》というふうに哲学として規定することはあり得ない。こうなるはずです。 人間がこしらえたあたまの中の観念の神なら それは 概念であり観念であるのですから 《生まれた・生きている・死んだ》という表現を用いたければ用いるでしょうが それは 哲学にとって意味がありません。 死んだと言いたいときには 初めから《居なかった》と言うべきです。そしてそれは 《無い神がいる》ということに――《非知》なるナゾとして―― なります。《非知》の想定にもとづくかぎり 絶対的にそうなります。
- ways
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神様は死んでいませんよ。しかも日本には、800もの神が存在すると言いますし。神様は昔から、子である僕らを見守っていてくれます。場合によっては助けてくれますし。
お礼
ええ。分かります。 《神は死んだ》という発言が取り上げられ それが 哲学としてその発言の前と後とで歴史が時期を画すとまで言われているようです。そういう見方が 一部でなされています。 それは おかしい。おかしくないという人は 説明してください。――という問いです。 神は生き死にとは別の次元にある。それゆえ 時間的な生き死にのふつうの経験世界にあっては 言葉のうえで確かに生きていると言ったり死んだと言ったりしても それとして通る。という見方もあるかも知れません。 ですが そのとき 《神は生きている》と言う側のその発言については そのまま一人のひとの主観として・心として そう表現されたのだと受け留めればよい。だけである。 のに対して とは言うものの 《神は死んだ》と言う側については けっきょく《生きていて そのあと 死んだ》というのは おかしい。すなわち そうではなく 初めから《神はいない》と言うのなら よいわけです。 つまりその場合は 《無い神がいる》と言ったと同じになるからです。 ご回答をありがとうございます。
イザナミノミコトはカグツチを生んだ時に火傷して死にました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%83%9F
お礼
でも 黄泉の国になおまだいましたね。イザナキがおとづれて行っています。 つまり 神話や伝承伝説における神もしくは神々というのは ひとつに 人間や自然の神格化(つまり 超自然の存在として描いてみせること。ほんとうの神ではありません)であり ひとつに 想像力の問題であるに過ぎません。 想像力は いかようにも物語を語れます。神々についても人間についても 動物から自然現象から何から何まで たくましくした想像力をどう使ったかの問題です。 神は 別です。 ご回答をありがとうございます。
- amenhotep2000
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bragelonneさん おはようございます。 あいかわらず、こんな質問をしているようでは、bragelonne哲学は、baragelonneさんが、死ぬまでに無理と思います。少しは、聖書を熟読してください。 神の子であるイエス・キリストが、人間として生きたのは、人間という生き物の人生における苦難や絶望も神は体験して良く理解してくださり、十字架における激しい痛みの苦しみにおける死をもってしても、「愛」が真実であり、人類の「愛」の行為により、人間と神を和解させるものと思います。 聖句をあげると 「事実(キリスト)御自身、試練を受けて苦しまれたこそ、試練を受けている人達を、助けることがお出来になるのです。」ヘブライ人への手紙2章18節 神が人間と同じように一度死なず、不死身であったなら、まったく、人間の苦しみは神は理解出来ていないと、こんなに、キリスト教たるものは2000年も信仰されていないかったと思います。 大体、神の子なら、なぜ、ヨハネによってヨルダン川で「洗礼」を受ける必要があるのか。これは、イエスは人間としての模範を示すためと考えられており、神の子は徹底的に人間になった。 ローマ人への手紙5章12節から始まる、「アダムとキリスト」の項を読んでみてください。割愛しますが 「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によってすべての人が義とされ命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって正しい者とされるのです。」ローマ人への手紙5章18節~19節 アダムとエバによる原罪とは「死」であり、人間は逃れることができない。しかしイエスは神の子でありながら徹底的に人間となられた。 ゲッセマネの祈りの場面を読んでください、神の子なら、やっと死んで、役割は終えて、天国に戻れると、「やったー、十字架で死ねる!」という祈りでなく、額に汗が血が出るほどの祈りでした。 まあ、アルツハイマー病が近いbragelonneさんは、脳内に老人班(β-アミロイド)が蓄積しないうちに、哲学を完成させえるように、応援してます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 聖句をあげると 「事実(キリスト)御自身、試練を受けて苦しまれたこそ、試練を受けている人達を、助けることがお出来になるのです。」ヘブライ人への手紙2章18節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんなことは おまけです。 ★ 神が人間と同じように一度死なず、不死身であったなら、まったく、人間の苦しみは神は理解出来ていないと、こんなに、キリスト教たるものは2000年も信仰されていないかったと思います。 ☆ そういう考え方は ただの子供だましでしょう。先ほどのおまけについた飾り物です。 ★ 大体、神の子なら、なぜ、ヨハネによってヨルダン川で「洗礼」を受ける必要があるのか。これは、イエスは人間としての模範を示すためと考えられており、神の子は徹底的に人間になった。 ☆ あめんほてぷのアホ! イエスが弟子たちの足を洗ってやったことを知らないのか。 へりくだることのとうとさ。 《模範》などは くそくらえ。倫理規範(律法)は 問題ではない。 オシへは もう誰も教えなくなるのです。(エレミヤ書31:31以下の《あたらしい契約》=へブル書8章)。 オシへを垂れること これが いちばん阿呆です。とくに信仰の問題においては。 ふたたび: ★ 神が人間と同じように一度死なず、不死身であったなら、まったく、人間の苦しみは神は理解出来ていないと、こんなに、キリスト教たるものは2000年も信仰されていないかったと思います。 ☆ これは 《苦しみ》の理解という問題を正面に据えることではありません。 神が そのチカラをもって 十字架の上から降りて行かなかったということ ここに焦点と意味があります。 じじつ 神の子ならそこから降りて来いとなじられていました。けれども 早い話が イエス・キリストは 奇蹟を起こさなかった。 つまり もし奇蹟を起こして 磔の姿から生きて起ち上がったとしたら それは・それこそ 神だから出来るのだ おれたち人間には無理だ お呼びでないと人びとは思ってしまう。何にもならなかったことになる。――そういう問題です。 ★ ローマ人への手紙5章12節から始まる、「アダムとキリスト」の項 ☆ これも 先ほどの《エレミヤ書31:31以降=へブル書8章》に もうひとつの主題として書いてあります。 先ほどは 《神を知れと言って 人が人におしえることはなくなる》という事柄でしたが いまひとつは 《神はもう人びとの罪をおぼえない。わすれる》という主題です。つまり イエスは 第二のアダムとなって 第一のアダムらが犯した罪を根底からつぐなうというエレミヤ預言を成就した。 けれども これも イエスの登場にとっては おまけです。原罪などは初めからなかったのです。そういう説明・そういう物語として 人間とその信仰の問題を語ったのであり また人間の社会には 法律という取り決めが持たれるということを先駆けて語っていた。そういうおまけの物語です。 ★ ゲッセマネの祈りの場面を読んでください、神の子なら、やっと死んで、役割は終えて、天国に戻れると、「やったー、十字架で死ねる!」という祈りでなく、額に汗が血が出るほどの祈りでした。 ☆ ここで取り上げるのは 《額に汗が血が出るほどの祈りでした》です。 役割りを 十字架上ではりつけとなって さらにどう果たすか。このことについて 考えをめぐらせていたのです。むろん 人間イエスとしては 単によわいということからですが 大声で泣いてもいます。 つまり イエスとしては この《盃を取り除いて欲しい》と思い それでも神のこころのままにと願い しかもその傍らで 神の子でありみづからも神であるキリストとしては のぞんでこの死の道に就いた。のであるからには その役割りを どのように果たすか。これが 一大事だったのだと思います。 わたしは 生きることも みづから死ぬこともできると言っていたはずです。 すでに触れたとおり はりつけの姿からキリストのチカラを出して 生きて降りて行こうとする気にもなるかも知れない。わけです。 ローマ兵士が 苦しみを少しでも和らげてやろうとして水をイエスの口に含ませたか あるいは 膝を折ってやろうとした。けれども イエス・キリストは すでに息を引き取っていた。 その役割りをすべて果たし切った。ことになります。 説明は このようにするものです。これは すごいぞ これを見てください これをしっかり思ってくださいよ ではダメなのです。たんたんと事実およびその認識や解釈を 自分の心で述べて伝えるものです。 哲学を完成するかどうかは 問題ではありません。
- hekiyu
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神が存在するのは、人間の頭の中だけです。 だから、人間の信仰心がなくなれば、神も 死んだことになります。 信仰心はあっても、神による秩序維持機能 が失われれば、やはり死んだことになるでしょう。 また、信仰心があっても、神には頼らない ということになれば、死んだと同じです。 ”生きたり死んだりするものが どうして神なのか?” ↑ 多神教の神は、けっこう生きたり死んだりを やっていますがな。 ”多くの人が催眠術にかかっているのではないだろうか?” ↑ 神が存在する、なんてのが催眠術です。
お礼
へきゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 この主題でこの問いとしての切り口は あんがい有効であり広く深く情報交換や問い求めが出来るのではないかと思いつつあります。 しっかりとお応えしてまいります。(いつも 回答のしっぱなしのようですので 残念ですが)。 ★ 神が存在するのは、人間の頭の中だけです。 ☆ 証明できますか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~ だから、人間の信仰心がなくなれば、神も 死んだことになります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それは 人間のつくった観念の神の場合だけですね。 それに 観念の神は 人間があたまの中に想像力(プラス推論力もありましょうか)でこしらえただけなのですから たとえその論理的・精神的かつ情感的な意味内容にマチガイがなくても その《神を想像し創生するという人間の意志》を取り下げれば ただちに 《死ぬ》運命にあります。 というよりも 観念の神であること自体が 仮りに起こした現象であり 何ら永続するものではありません。 観念の神をこしらえた時点で 言わば気休めのための偶像です。つまり 創生されたとき 即 死んでいます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 信仰心はあっても、神による秩序維持機能 が失われれば、やはり死んだことになるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その観念が仮象であり 仮象による効果をあてにすること自体が 死を背負った行為です。はじめから 死んでいます。そのように取り扱わないことが どうかしています。 《秩序維持機能》があると捉えることが くるっています。 ★ ~~~~~~~~~~~~ また、信仰心があっても、神には頼らない ということになれば、死んだと同じです。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《神》について 初めから《神が存在するのは、人間の頭の中だけです》という片寄った考え方を前提にしていま。《信仰》についても 何ら明確な定義をもって 考えてはおられません。 信仰は 神に頼る・頼らないは 問題ではありません。(人間はよわいものですから 願い・祈り・頼ることをおこないますが それが叶えられるかどうかは 神の問題ではありません。風は 気ままに吹きます)。 人間のこしらえた観念の神でない神であるなら・そしてのそれの信仰であるなら 信仰は その神のほうから与えられるものです。すべてが そうです(人間は 受け身だという意味です)。 もちろん いまの話を 経験合理性にもとづく議論としておこなっているのではありません。(合理的に説明しようとはしています)。 《神が存在するのは、人間の頭の中だけです》なる命題が そもそも経験合理性なる基準によっては 判断し切れないのですし むろんその証明も出来っこないのです。 それと同じように 《神は 非知であり 神のほうから人間に信仰をあたえる》という命題も 証明できない。と同時に 反駁することも出来ないのです。 神とは そういうあるか無いか分からない隙間に 人間が想定しています。《有る神》だけではなく 《無い神》をも 同等に自由に 想定しているということ。これが 人間の現実であり 世界の真実です。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ”生きたり死んだりするものが どうして神なのか?” ↑ 多神教の神は、けっこう生きたり死んだりを やっていますがな。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それは すべて《人間のこしらえた観念の神》のたぐいです。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ”多くの人が催眠術にかかっているのではないだろうか?” ↑ 神が存在する、なんてのが催眠術です。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから どういう神か? ここから始めなくてはまったく前へは進まないでしょう。 《神が存在しない》も 証明できないということ。せめて この真実から話をはじめましょう。 むろん 観念の神は 話にならないのですから 措いておいてです。
- weavaest
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死の概念は生物に対しての物だと思います。機械が壊れた場合も、そういう表現をすることはありますが、これはあくまで比喩だと思いますから、一種の言葉遊びですね。同様に生物でもない神に対して、あたかも生物であるように表現しているだけで、これも言葉遊びのような物ではないでしょうか。
お礼
▲ (ニーチェ:神は死んだ) ~~~~~~~~~~ 寒くなってきてはいないか? これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか? 昼前から行燈を灯す必要はないのか? 神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか? 神が腐る臭いがまだしてこないのか? ――神々といえども腐るのだ。 神は死んだ! 死んでしまい 蘇ることはない! しかも 我 々 が 殺 し た の だ! 殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか? これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。 (『喜ばしき知識』125番) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについて 多くの人は 画期的な発言だったと見なしていると思います。 たとえば この発言の以前では 人びとはなお漠然とでも けっきょく《宗教としての・オシへとしての・ということはあたまの中における観念の神》は 《生きていた》と思っているらしい。 それなりに機能していたのだと。 すなわち そのような頭の中の観念のハタラキが どうして《神》であるのか? こういう問いです。 こたえは 明らかです。しかも 多くの人はみとめたがらない。 そういう問題であると理解しています。これを問うています。 はっきりさせておくべきでしょう。 ご回答をありがとうございます。
- FEX2053
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信じている以上、「神は居ない」と言うことができないので、 仕方なく「死んだ」と胡麻化しただけでしょ? まあ、「神」は死んでも簡単に復活するんで、別に死んでも 全然問題ないっちゃ~ないんですけどね。神の生死なんて、 信者の都合のいいように改変されるもんですから。 本当の神がどうしてるかなんて、人間には判りません。
お礼
ごまかしは みとめられるような命題ではありません。 ★ 本当の神がどうしてるかなんて、人間には判りません。 ☆ のごとき哲学をつらぬくべきでしょう。 ごまかしにいい顔をする必要はありません。してはいけません。 ご回答をありがとうございます。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ bragelonneさんの示した考えというのは、哲学なのでしょうか?それとも思想とか他のものですか? 学問としての哲学ということなら、人間の理性が扱えない範囲はやはり哲学でも扱えないと思います。もし、思想ということなら、それは本人の自由でしょうけど。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 哲学です。 思想としての――本人の――志向性については 禁欲しています。価値自由に話しています。 志向性の問題に触れるときにも たとえば 《神は有る》派の志向性および《神は無い》派の志向性として中立・公正に認識し分析しています。 ただし そのような危惧を持たれる気持ちは分かります。 なぜなら 美学としての哲学については 絵画や音楽などなどを自分がじっさいに専門的によく行なえなくても それらの哲学を書く場合があり そのときに持たれるおそれは 一般に分かる気がするからです。 言いかえると 神を思想として・あるいは要するに信仰そのものとして語るときには もう哲学の領域を抜け出します。ですから そういう形式(≒内容)に落ち入っていないかという危惧であろうと思います。 落ち入っていません。哲学にとどまっています。 批判があれば どこがどうであるか 具体的にどうぞ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 多くの民族がそれぞれ神の概念を持っていることについて私は以下のように考えています。 人間の生物としての進化が神の概念をつくっていると。 次の2つ、がそのもとになっています。 (1)恐れの感情 (2)理屈づける能力 (1)恐れの感情は人間の進化で身についた能力です。危険なものを恐れることによって、危機から脱することができます。あるいは危険なものに近づかない。 (2)理屈づける能力は人間にとって重要です。これがあるから、いろいろな現象を解明して、人間は知恵をどんどん獲得してきました。しかしながら、なんにでも理屈づけをしてしまうため時として空想を作り出します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それは 人間がその思考や想像の能力を駆使してつくる観念としての神のことです。いかようにも《想像し創造する》ことができるでしょう。 そう考える根拠を示します。 《おそれ》というものは 二つの種類があります。 身に危害を受けたり心に傷をつけることになったりするものに対する恐れが ひとつ。 そしてもうひとつは むしろ身にも心にも 良し悪しや有る無しやあるいは慈しみと憎しみなどなどの二項対立としての相対的な経験世界をあたかも超えるかのような経験をあたえる畏れ。 赤ん坊は まだそのような善悪や好悪などの対立する二項のことを知りません。知らずに 全面的に無条件に母親に甘えます。――これをわたしは 聖なる甘えと呼びますが その後誰もにものごころが着きます。そうすると 聖俗だとか浄穢だとかのやはり双対の概念で世界を見るようなクセがつきます。 そうなると 俗で穢いものには憎しみをいだきそれを悪と規定しがちになります。 この悪を無くそうとして その悪を帯びたと見なした人間そのものに対しても 危害を加えるようになりがちです。 つまりこのようにして 身や心に危害を加えるものに対する恐れが生まれます。この恐れについての思索は 思想をつくり時には人間のこしらえる観念の神をもつくります。それによって 恐れから自由になりたいと。 これらすべては しかしながら 相対的な世界におけるもぐら叩きのゲームにしか過ぎません。 この経験的な思想やオシへとしての宗教を 屁の河童と見るのが 信仰です。聖なる甘えが きよらかな畏れとしてあらためて成った存在(人格)の状態 これが 信仰という動態です。 (2)の理屈づける能力は これもやはり《思想やオシへとしての宗教》の問題です。モグラタタキです。 ★ どの民族でも神をもっているからと言って、神が存在することとはつながらないと思います。 ☆ わたしは《神が存在する》とは ひと言も言っていませんよ。神とその信仰についての哲学理論を提示しているのみです。そういう存在論であり 人間観です。 ちなみに この神――普遍神――を《三位一体なる神》として扱うのは 個人的な志向性ないし好みの問題ですし 思想の問題です。《わたし》の信仰という特殊な主題になります。