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箱根関所破りで死罪となった人数。

下記のサイト「箱根関所・箱根関所資料館」には、関所破りで処刑された 「お玉」と「祭文語りと呼ばれる芸人の一座(男4人、女2人の6人組)」の事例が紹介されていま す。 他にも数件あったそうで、「5件6人」のネット情報もあります。 箱根関所破りで処刑された事例を、あと一つか二つ教えてください。 できればネットのサイトを教えてください。 よろしくお願いします。 箱根関所・箱根関所資料館 「関所こぼれ話」 http://www.hakonesekisyo.jp/shoko/index.html#shoko01

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  • Kittynote
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回答No.2

元箱根町立郷土資料館長の加藤利之氏の著書 『箱根関所物語(<箱根叢書1>かなしんブックス5)/加藤利之/神奈川新聞社/1985.3』 であれば、他の具体例情報も得られるかも知れませんが、 私の場合、プロフィール理由のとおり、悲しいかなネット情報に頼らざる得ません。 先ずは『箱根関所物語』の情報が得られる下記WEBページに着目しました。 ・江戸時代の刑罰施設/関東地方の刑場・牢屋/神奈川県 箱根関所 http://www2.hp-ez.com/hp/bunsei/page8/97 ・同上/神奈川県 箱根の衛星番所(関所) http://www2.hp-ez.com/hp/bunsei/page8/98 ・同上/神奈川県 小田原藩(3) http://www2.hp-ez.com/hp/bunsei/page8/96 上記抜粋 …箱根関所に関しては元禄15年(1703)“お玉”という女性が処刑になっている。 “元禄十五閏午四月二十六日、箱根関所破り候玉女儀明日死罪、おいたいらに獄門 にかけ成され候、川村宇門被遣山江登られ候”… …関所破りは磔と決まったのは八代将軍吉宗が寛保2年(1742)御定書百箇条を作っ て以降だといわれており、お玉の処刑は伝聞どおり打首獄門だったのであろうか。… …加藤利之著『箱根関所物語』には、箱根や他の五関所における関所破りの仕置例 が取り上げられている。 公式な関所日記が失われた関係で関所破りの正確な数は不明なようで、日記の抜書 や小田原藩の記録等から集計すると、箱根関所は5件6人、根府川関所は4件5人、 仙石原関所は1件6人、矢倉沢関所は3件5人となっている。… …矢倉沢関所の事例では、寛政6年(1794)関所破りした2人が、“関所から1km下 がった苅野一色村(現・南足柄市苅野)の、今は配水池になっている辺りで処刑” されたと記載している。 寛政9年(1797)にも、関所破り1人が苅野で処刑されている。 仙石原関所の関所破りは前述したとおり1件記録されているが、その人数が一度に 6人と多く、“仙石原御関所山越一件”として後世に伝えられている。 6人は祭文の一行で、天保11年(1840)5月に沼津で捕らえられ、同年12月、仙石原 の山の手にある大井平(現・箱根町仙石原大井平)で4人の男が磔、村はずれで7日 間晒首にされた。 女2人は婢となるべきところ赦免されて尼になったと『箱根町誌』は伝えている。… 以上から 仙石原関所1件6人(“仙石原御関所山越一件”事例)なので、 前記「箱根関所は5件6人、根府川関所は4件5人、 仙石原関所は1件6人、矢倉沢関所は3件5人となっている。」記述の人数には 死罪(獄門・磔など)以外の罪刑(奴・婢など)も含むものと読み取れます。 箱根関所5件6人の中、内1件1人は元禄15年(1703)“お玉”事例なので、 残り4件5人、その内の1件は複数犯(2人)の計算になります。 さて、前置きが長くなりましたが、情報源とされる日記抜書、小田原藩記録、 『箱根町誌』などへのアクセスはネット上では無理がありますので、 他のアプローチを試みてみましたところ、 残念ながら当事者(男)に関する直接の記録は見出せませんが、 その娘などに対する記録から一つの事例の輪郭が浮かびました。 ただし、これが「残り4件5人、その内の1件は複数犯(2人)」の一つに 含まれるか否かまでは定かでありません。 〇『御仕置例類集.第1輯第4 古類集 司法資料別冊第12号/司法省調査部/1943』 ・「御仕置例類集(古類集)貳拾五之帳 老幼幷愚昧片輪等之部」 ○一九三二/寛政十一未(※1799)年御渡 [九拾壹番] <172/376>(274頁上・下段) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1150993/172 駿府町奉行伺 一 武州三反田村・織右衞門、女を連、箱根御關所を除、山越いたし候一件、   安藤八郎右衞門知行所   武州都築郡三反田村   百姓七左衞門店   織右衞門娘   むめ 右之もの儀、父・織右衞門儀ハ、徳藏・小四郎より、怪敷品々、買取、僞申、 質入いたし候段、全ク、盗品分取候趣、其上、去ル卯(※寛政七卯年/1795)年、 女誘引出し、箱根御關所裏山越いたし、御法度相破候段、重々不届至極ニ付、 磔ニ相伺、母・とよ儀も、織右衞門と馴合、被誘引出、欠落いたし候始末ハ、 主人幷父母とも蔑ニいたし、女之身分ニ有之間敷段、重々不埒ニ付、奴ニ相伺候ニ付、 此もの儀は、婢ニ相渡、 此儀、婢御仕置之儀、御定書ニも無之、取計方ハ難相分候得共、御定書上卷、 重科人之悴・親類等御仕置之儀ニ付、御書付ニ見合、無搆之ものニて、 殊當未四歳ニ相成候ものニ御座候間、不及沙汰、 [朱書]評議之通 上記「武州三反田村・織右衞門、女を連、箱根御關所を除、山越いたし候一件」から、 「織右衞門(父)/磔」「とよ(母)/婢」が浮かびます。 あとは、字数制限の為、上記関連URLの貼付に止めますが、 「寛政七卯<1795>年~寛政十一未<1799>年」の間の当事者・関係者状況が少しは 明らかになると思いますので、お時間が許す時にでも御覧いただければ幸いです。 〇『同前』 ・「御仕置例類集(古類集)貳拾三之帳 女之部」 ○一七三七/寛政十一未年御渡 [九拾壹番] <90・91/376>(111頁下段~112頁上段) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1150993/90 〇『御仕置例類集.第1輯第3 古類集 司法資料別冊第11号/司法省調査部/1943』 ・「御仕置例類集(古類集)拾七之帳 等閑又は麁忽之部」 ○一一八七/寛政十一年未年御渡 [九拾壹番] <129/326>(192頁上段~193頁下段) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1150979/129 ○一二一四/寛政十一年未年御渡 [九拾壹番] <138・139/326>(211頁下段~212頁下段) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1150979/138 ○一二七二/寛政十一年未年御渡 [九拾壹番] <161/326>(256頁上・下段) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1150979/161 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳細なご回答真にありがとうございます。 よく分かりました。 祭文語り一行6人は仙石原の関所破りなので、箱根の関所破りとは、別にして数えねばならないので すね。私のミスでした。 >箱根関所5件6人の中、内1件1人は元禄15年(1703)“お玉”事例なので、 >残り4件5人、その内の1件は複数犯(2人)の計算になります。 そういうことですね。納得です。 そして、「武州三反田村・織右衞門、女を連、箱根御關所を除、山越いたし候一件」が残り4件5人の うちの1件かもしれない、ということですね。 この1件は密通も絡んでいるので、ご提示の資料をもう少し読んでみます。 面白い資料を教えて下さったので、また楽しみが増えました。

その他の回答 (1)

  • kurione
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回答No.1

実際には磔になった数は以外と少ない。それは小田原藩による「藪入り」という温情措置 だそうです。もっとも無宿人(現在の戸籍台帳と呼べる宗門人別改帳から名前を外された者)は殺されていた可能性はありますが、記録がない。 http://asobiba.jp/asobiba/contents/asobiba067_sekisyo.htm

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 このサイトでも「5件6人」という具体的な数字が出てきますね。 誰が何を根拠に言い出したのか知りませんが、検索すれば何十件もヒットします。 「お玉」と「祭文語りと呼ばれる芸人の一座(男4人、女2人の6人組)」の2件だけで、 男4人、女1人合わせて5人処刑されています。 そもそも「お玉」と「祭文語りと呼ばれる芸人の一座」の話には異説もあって、 どこまでがホントなのか、疑問です。

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