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日本の戦争と有力者の関係
- 日本の戦場となった土地の有力者とはどのような存在でしょうか?戦が起こった土地の住民にとって戦は迷惑なものであり、田畑や建物などが被害を受けました。
- 大名となるような有力氏族は戦の許可を得て行動していたのでしょうか?戦闘は力関係によって行われ、住民は黙っているしかなかったのか疑問です。
- 文献には戦争に関連するエピソードが記されているのでしょうか?戦は自分の支配下の土地で行われることが基本だったのか気になります。
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日本の昔の戦争、といっても千年以上ございまして時代が違えばいろいろと事情も変わるものであります。なので、今回は最も有名な時代である戦国時代の事情を書きます。 戦国時代の合戦というと、大軍団がぶつかり合う激しい戦いを想像しますが、意外にもああいう映画やドラマにあるような戦いというのはそんなにありそうでなかったんですね。敵の城を攻めに行ったが、援軍が来たので退却した、なんてのが結構多いのです。だから戦国時代の軍事行動でとても多かったのが「青田刈り」でした。 敵の領地、ほとんどの場合はそんなに敵地奥深くではなく、国境地帯の相手領地に行って稲や麦を刈ったり燃やしてしまうのです。収穫の時期直前にやると非常に効果的です。 この軍事行動の主な目的は「こうやって嫌がらせをされるのは嫌だろ?だから降参してこっちの家臣になりなさい」とさせることです。こうやってじわじわと自分たちの領地を増やしていくのです。 なお、戦場になる場所はお互いの戦国大名にとっての係争地なわけです。そこの土地の有力氏族は、どっちの味方になるかを決めなければいけません。長篠の合戦で有名な長篠城は菅沼さんという土地の有力氏族が作りましたが、その帰属を巡って徳川家康と武田家との間で何度も争いになったので、そのときにどっちが有利かによって菅沼さんはあるときは徳川方につき、またあるときは武田方についたのです。基本どこでもそういうもんでしたよ。 寺社は戦さに巻き込まれないために、その大名の軍の大将から「安堵状」という保証書を貰います。そこには「このお寺の中に入っちゃダメ、敷地内の木や竹を勝手に切っちゃダメ、やったら軍律違反で罰するからね。大将○○」と書いてあるので、その軍勢が来たらその安堵状を見せるわけです。 もちろん、この安堵状はタダじゃもらえません。それなりの「お支払」は必要となります。戦国時代に寺社に送られた手紙が残っていて、そこには「今度の軍事行動では、御寺の敷地内に入らないように、勝手に木を切らないようにという命令をお殿様から頂きましたので安心してください。お金これだけ頂きました。反物をこれだけ頂きました。ありがとうございます」なんて書かれています。手紙は保証書であると共に、領収書も兼ねていたようです。使いの人が勝手に中身を抜かないように具体的な受領書は必要だったのでしょうね。 また寺社は巻き込まれないためにあえて自分たちの施設をその軍勢に提供することもありました。本能寺が有名ですね。織田信長が京都に滞在するときの宿泊施設としてお寺を提供していたのです。
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- Pinhole-09
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戦場(いくさば)になった土地の収入には、戦死者から 具足、衣装、武具などをはぎ取って売るのがあります。 領主が死者の埋葬を頼みその代わりにさせます。 勿論立派な鎧兜、武具など目星いものは戦利品として 領主や部下が持ち去った残りですが、それでも相当な 収入になります。 長篠の戦では織田軍が柵用に持って来た三千本の丸太は そっくり徳川の収入になりました。 地元にも相当なおこぼれがあった筈です。 落ち武者狩もありますが、これは被害を受けない人の まるもうけですが。 戦場となった農地や町屋の被害については、 盛本昌広著「戦国合戦の舞台裏」洋泉社 2010 が参考になります、
お礼
回答ありがとうございます。 知らないことばかりでとても面白く読ませていただきました。 戦場になるとデメリットだけでなく、メリットもあったのですね。 書籍の紹介もありがとうございます。ぜひ読んでみたいです。
>戦が起こった土地の住民にとって戦はたいへん迷惑なものであったと思います。 迷惑であったり、なかったりと時代や戦の動機で違っていました。 >戦で被害をこうむっても保障などはなかったんですよね? 直接の被害についての補償はありませんでした。 戦の動機によっては、土地が増えるなどのメリットがありました。 時代が下って戦国時代ともなりますと、いろいろ対策が取られました。 実はこの辺が武士とか惣村というものの発達の歴史と深く関わっています。 >またその土地にはのちに大名となるような有力氏族がいたものと思いますが戦はそういう有力氏族の許可を得て行われていたのでしょうか。 許可というよりも、戦の動機が多くはむしろ農民側にありました。 >力関係などから黙っているしかなかったのでしょうか? 武士層の発達とも関係しますが、黙っているなど呑気なことはせずに強い奴を味方にしました。 壬申の乱など平安時代以前の武人と平安時代中期以降に生まれた源平などという武士とでは大分性格が違っていました。 これは荘園制度の変化と大きく関係しています。 源平は元々は天皇になれなかった皇族です。 皇籍を離れる代わりに領地(荘園)を貰いました。 この一族の領地争いが源平合戦です。 一方でこの荘園の用心棒のような連中がいました。 これを公式に認めさせたのが頼朝です。 守護、地頭などと呼ばれました。いわゆる守護大名の元です。 この辺までの戦では農民は確かに迷惑だったでしょう。 室町時代になりますと、足利幕府は地方の統治に全く無関心でした。 税収は専ら通行税や酒屋などの都市の経済組織に対するものでした。 結果として、農民は自分達を守るために惣村という集団生活を営むようになりました。 この惣村の用心棒のような連中が現れました。 腕力の強い奴の方が安心ですから幾つもの惣村を掛け持つ奴が出てきます。 これが後の戦国大名です。 日本の農村は水田が基本ですから水の確保が必要不可欠です。 川は限られていますから取水権争いが起きます。(水争い) 山は材木などの住宅用や燃料などの重要な産地です。 さらに落葉や下草は貴重な肥料です。 村の間でこれ等の採集権争いが起きます。 用心棒の出番です。 このような隣国同士の戦の場合には大概農民の利害が絡んでいますから迷惑とだけは言いきれませんでした。 この用心棒の成れの果てである戦国大名が勢力争いをした場合にはできるだけ農村は荒らさないようにしました。 勝っても復旧に手間取ります。 城郭も守りやすい山岳地帯つまり山城が主体でした。 戦場も耕作地の少ない原野が使われました。 川中島の戦のように特定の場所が使われました。 関ヶ原の時にも弁当持参で見物にいっていたようです。 このように村の自治組織というものが戦国時代を通じて高度に発達しました。 役職者も選挙で選ばれていました。 統治に当たる領主や大名が気にらなければ、首にすることもあったり、村ごと隣の領地へ逃げ込むということもありました。 江戸幕府というのは、この自治組織の上に乗っかっていただけです。 代官という窓口の役職を設けて間接統治をしていました。 代官は下級役人ですから常に中央政府(幕府や大名)の許可が必要でした。 国定忠治の事件の際にも代官は江戸の勘定奉行に米を数俵払いだす伺いを立てますが許可されませんでした。 この間に国定忠治は豪農を襲って米を奪い農民にばら撒きました。 忠治が芝居などで義賊とされているのはこのためです。 代官は官僚ですから一部始終を報告書にしてありました。 お蔭で今でも全貌が分かります。 話しがだいぶそれましたが、荘園制度、武士の発祥、村の発達など総花的にみませんとなかなか実態が見えてきません。 ネットに以下のようなサイトがあります。 戦国時代の村の安全保障・外交交渉・戦時体制のまとめ | Kousyoublog kousyou.cc/archives/4688 武士は元農民。農民の勇気と誇りから生まれた生き方。 - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/2133903784637327401 武士道の歴史(上)――武士の成り立ち―― www.geocities.co.jp/Berkeley/3776/bushido.html 惣村 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/惣村 書籍にはご質問の回答に直接該当するものは寡聞にして知りませんが以下のようなものがあります。 歴史の中の都市と村落社会 田中喜男 思文閣出版 武士と荘園支配 服部英雄 山川出版社 中世に国家はあったか 新田一郎 山川出版社 戦国時代 村と町のかたち 仁木宏 山川出版社 戦国時代の地域国家 有光友学偏 吉川弘文館 逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦 宮崎克則 中公新書
お礼
回答ありがとうございます。 知らないことばかりで大変楽しく読ませていただきました。 戦国大名はできるだけ農村は荒らさないようにしていたのですね。 たくさんのリンクをありがとうございました。 武士が農民から生まれたなど、全く存じ上げませんでした。 農民のイメージががらっと変わりました。 書籍もたくさん紹介してくださりありがとうございます。 ぜひ読んでみたいです。
- darknes2000
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江戸に入るまでは冬に戦をしてたみたいです。 なので畑が荒れても問題はなかったみたい。 領地の持ち主も戦の当事者なので許可も何も ありません。
お礼
さっそくの回答をありがとうございます。 ウィキペディアによると 藤原仲麻呂の乱・・・9月 宝亀の乱・・・5月 藤原純友の乱・・・2月~翌年6月 天王寺・岡山合戦・・・5月 なので戦は冬にしていたとはいえないのではないでしょうか? また田畑に影響はなくとも寺社や民家が被害をこうむるということがあったのではないかと思います。 >領地の持ち主も戦の当事者 湊川の戦いで新田・楠木vs足利尊氏が戦っています。 これは九州からせめてきた尊氏を新田・楠木が迎え討つ戦いであったので 湊川は新田・楠木らの支配する土地であったということでしょうか? 湊川付近を収めていた有力氏族がいて、その氏族が新田・楠木に加担したため ここで戦が起こったということではないんでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 知らないことばかりで、とても面白く読ませていただきました。 「青田刈り」という言葉は聞いたことがありましたが、軍事行動であったとは知りませんでした。 やはり人間が生きていくうえで食糧は欠かせないものなので、まずそこをたたくというわけですね。 菅沼氏の話はとても参考になりました。 寺社が「安堵状」をもらっていたというのも面白いですね。