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神橋について
- 神橋とは、あるところから別のところへ渡すものであり、仏教や神社でも見られる存在です。
- 多くの神社や神宮でも神橋は川の上に架かっており、日光二荒山神社では勅使や将軍が渡るための橋として使われています。
- 神橋が渡す場所には、あらゆる次元や界も含まれる可能性があります。
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冒頭に「橋といえばあるところ云々」とされて1.2のご質問をお書きになられた趣旨が今一つよくわかりません。 >多くの神社や神宮でも神橋のの下は川なのでしょうか? 川とは限りません。立地条件次第で池の場合も沢山あります。 御存知の通り、東京世田谷の浄真寺は浄土宗の寺院です。 浄土宗で二河白道という逸話は弥陀の浄土へ往生する際の心得を例えたものです。 臨終の際の恐怖心に囚われることなく、弥陀の本願を信じ通せという比喩です。 川や白道はあくまでも比喩で、物理的な川でも橋でもありません。 参考 二河白道 www.d7.dion.ne.jp/~gyoun/niga.htm もともと神道にも仏教にも、空間を聖なる領域あるいは清浄なる領域と俗なる領域あるいは不浄の領域とに区分する考え方があります。 前者を常世(とこよ)後者を現世(うつしよ)と呼んだりします。 一向宗の欣求浄土厭離穢土という考え方もこれに立脚しています。 これを視覚的あるいは物理的に区分して神域として扱いました。 周囲の俗域から神域へ出入りする際にその境界を示す構築物が設けられます。 鳥居などがそれに相当するものです。 伊勢神宮や二荒山神社のように地理的に付近に川があれば、その境界を川で区切り、二つの領域を往来するための構築物として橋を架けました。 つまり、寺社に設けられている橋に対する考え方としては、ご質問にもお書きになれておられますように「場所と限らない、次元や界もありうる」ということになります。 どちらも単に視点の違いです。 このような性格を持った構築物ですが、神社の場合は地理的な条件の制約から境界を表す鳥居の内側の神域内に設けられた結果、構築物としての橋そのものの由来や権威づけのために各神社毎に色々な理由づけがされています。 神奈川県の鎌倉にある鶴岡八幡宮では 太鼓橋の両側にも橋が架けられているが、当初は左側の橋のみだった。太鼓橋の左側の池は「平家池」。 「平家を踏みつぶす」という意味で架けられた橋であったらしい。後に右側の橋も架けられた。 とされています 参考 太鼓橋~鶴岡八幡宮~ www8.plala.or.jp/bosatsu/page041taikobasi.htm 東京の亀戸天神では 池と橋を人の一生に見立てて「三世一年の理」といって、最初の太鼓橋は生きてきた過去を、つぎの平橋は今が見える現在を、つぎの太鼓橋は希望の未来をあらわし。三つの橋を渡るごとに心がきよめられ、神前へと進みます。 とされていますが、これに対して 心字池と太鼓橋はその形により、神様に近づく道真公の波乱の生涯と傘ね合わせて造られたように感じられます という受け取り方もされています。 参考 境内のご案内|亀戸天神社 kameidotenjin.or.jp/sp/guide/ 二荒山神社の神橋に渡河する人物に貴賤の区分を設けたのは、ごく自然かと思います。 現在は東照宮と分けられていますが、元来は一体で運営されていました。 これらを陽明門などと同時に現在の姿に多額の費用をかけて改装したのが三代将軍の家光です。 ときの権力者が利用者を峻別したとしても当然の発想でしょう。 現在でも社長専用の社有車などはザラにあります。 蛇足 日本は古来神仏混淆ですので、神社に仏教的な考え方があったり、寺院に神道的な考え方があっても不思議はありません。 これを峻別する考え方は明治政府が無理やりやって破綻した神仏分離令の影響です。 現在も当時の姿が残っていますので止むを得ませんが、明治以前の文物や行事をお考えになられる場合には、本来の神仏混淆あるいは神仏習合の視点からご覧になられることをお勧めします。 以上ですが、何かあれば追加で補足質問をお願いします。
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- SPS700
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1. 神橋はやはりあるところ(場所と限らない、次元や界もありうる)から別のところへ渡すものでしょうか? はいそうだと思います。 1-2. 神橋が渡すところ(場所と限らない、次元や界もありうる)からところにはどんなものがあるのでしょう? 日光に二荒山の場合は、下記のように人沙門勝道が、奈良時代に華厳の滝から出る大谷川を渡る時、出来た蛇橋が始まりだそうですから、単に川向こうに渡るのが目的だったと思われます。 http://bunkabito.jp/magazine/article_report/vol_0008/index.html 別に勅使や将軍でなくても下図のように新婚さんも渡っているようです。 http://www.futarasan.jp/wedding/watari.html 2. 橋の下はやはり川だと考えているのでしょうか? はい。 二河百道も下記に示されているように、善導の比喩で火河と水河、と川が#1さんのおっしゃるように実際の川でなく喩えとして使われています。しかしその喩えが川である点も見逃せないでしょう。 http://www.narahaku.go.jp/english/mobile/meihin/kaiga/053.html
お礼
いつもありがとうございます。 今後ともどうぞご指導ください。
補足
いつもの通り素晴らしいご解答をありがとうございます。 川、これには彼岸と此岸が伴います。 そしてその川。両界を隔てる。 この川が私には関心なことなのです ありがとうございました。
仏教での教えの「河」は 通常の場合 「醜い この世」を意味しています・・・ 本当の「流れてる河」ではありません・・喩えです・・あなたが 其処から間違えてるだけです・・・
お礼
ありがとうございました。
補足
私の質問文章も必ずしも流れている河に限定してはいなかったのですが。 仏教では河を以て、醜い、この世を象徴することがあるんですね。 ありがとうございました。
お礼
人為的に何かと、改まるきっかけや条件ってとても大事ですよね。 ありがとうございました。
補足
近所の親しい亀戸天神が出てきてのご説明はとても勉強になります。 何か決心して進んでいくとき、人間ってとても改まった気持ちになりますね。 ありがとうございました。