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絶対有と絶対無とは同じである。
一口メモによる情報交換です。 相対と絶対。 経験世界と非経験の場。 変わりゆくものごとと変わり得べからざること。 経験事象としての有ると無い。 これを超えるものとしての絶対は 有ると言っても無いと言っても どちらも当てはまる。 自由なご見解をお示しください。
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ここで唯識を説明する気はありません。紙面が限られております、あらましだけでも不可能です。あらましは「空とは有無を超越した相互依存、万物流転」以上も以下もここで書く気はありません。中村元博士の「空の原理」にあるはずですが?それにあらましなら本をお読みになったとの事。ご理解されているのではないですか?意見が違うのならそれはそれで良いのでは?ここで論争する気はありません。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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今回、妖精という言葉を使ったがね、神々が見届けようとする者は人のほかにもいるんだ。 君が記憶の荒野を歩く時、多分ないだろうが、もし振り返るとするならば、すぐ後ろをついてくる者がいる。 祝福するのは私の役目じゃないんでね。 多くは語らなくてもいいだろう。 私は自らを誇り、黒き明星と名乗るが、君は誰に会うのか。
お礼
たぶん 自分の中に何もかもがというほど おさまっているのだと思う。 一つひとつを取り出して 妖精だ何々だということは しない。 なぜしないか? もともと しないで生きてきた。ただそれだけ。 妖精は 人間のチカラを超えているのかも知れない。 ただし それはけっきょく 霊なる神のしわざであると見ることになる。さまざまなハタラキをぜんぶ 神の霊におさめたかたちで 自分の中にはたらいていると見る。はたらいてくれるわけなり。 わたしは 何もしない。 後ろを振り返るか。 誰に会うか。 たぶん そういうひまを持たないのだと思う。 そのときただ今の情況を見ている。 そのときの相手を見ている。 それで手詰まりになる。 あとは わたしの中で 妖精なら妖精がはたらいてくれている。 ご回答をありがとう。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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実は、 天才的な私ですら、 永遠は心にしみているが、 絶対がなにやらさっぱりわからない。 以前ちらっといったと思うがね。 時の流れを自覚する永遠の中で、絶対と言えば今と言う刹那だ。 あんたは確か反論的だったよね。 ところでこの前聞いた、あんたというか人間の知覚能力には疑問点があってね、 現在がすでに過去の記憶なのではないかい? たくさん抱きしめ続けた、妖精たちがそう言っていた。 妖精たちは泣いていたよ、死の運命がもたらされるのは、人間ではなく私たちだと。 人類として君達は生き延びるかもね。 愛せないまま犠牲を作って生き延びるんだ。 私にしかわからない話で、私にしかどうにか出来ない話だけどね。 荒野の記憶がある君はどう見るかい?
お礼
ご回答をありがとう。 《絶対》とは 《永遠》のことだよ。 われわれは 何百年も生きるわけではない。つまり 《永遠》なんて じつは知らない。分かっていない。 それでも 永遠という言葉を使っている。 ♪ あなたへのわが愛は永遠です♪ とか。 それと同じように 絶対なんて まったく肌で感じるなんてことはあり得ない。それでも 使う場合がある。 うつろいゆかざるものは 永遠であり絶対である。 ★ 時の流れを自覚する永遠の中で、絶対と言えば今と言う刹那だ。 ☆ それは このいまの一瞬におさまるかのようである。という意味だと思う。 ★ 現在がすでに過去の記憶なのではないかい? ☆ それは そのように言われていると思う。 過去は 記憶として現在にあり 未来は 予期・期待としての現在であると。 ★ 妖精たちは泣いていたよ、死の運命がもたらされるのは、人間ではなく私たちだと。 ☆ だとすると その妖精というのは 守護霊のようなハタラキをするということなのかなぁ。 もしそれなら 妖精は わたしの場合は自分の中におさまっていると思う。
- amenhotep2000
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bragelonneさん こんばんは。 仏教を批判するつもりは、ありませんが、「有」と「無」の二項対立を考えるにあたり、論理的な矛盾を提示します。 聖書の出エジプト記に、新共同訳聖書には、神がモーセに言った言葉は 「私はある。あるというものだ。」 と訳されていますが、古い文献の70人訳聖書 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%BA%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8 において正確に訳すと 「私はあるというあるだ。」 だそうです。何が言いたいかというと、前者のあるは「存在のある(有)」であり、後者のあるは「本質のある(有)」とのこと。 この言葉をそのまま、仏教の「無」に当てはめると「私は無いという無いだ」となります。 後者の仏教の本質の「無」は肯定できますが、存在が「無」というのは、いかがでしょう。 色即是空 空即是色 と言いますが、色の「形」がないという意味は、存在がないと解釈できるのでしょうか?難問です。 これは、現世におけるbragelonne哲学の経験事象の論理的矛盾でしょうか? 私が幼い頃、テレビで見た、アニメ「一休さん」のように、 ポク・ポク・ポク、チーン。ひらめいた!と私もなりたいものですが、まだ修行が足りぬ(笑)。 bragelonneさんの得意のヒラメキか、他の回答者様の回答を欲しいところです。 では、お礼にて考察をお願いします。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ▲ (新共同訳聖書 出エジプト記 3:14) ~~~~~ 「私はある。あるというものだ。」 ▼ ( Septuaginta Exodus 3:14 ) ~~~~~~~~~~~ http://www.ellopos.net/elpenor/greek-texts/septuagint/chapter.asp?book=2&page=3 〔καὶ εἶπεν ὁ Θεὸς πρὸς Μωυσῆν λέγων·〕 ἐγώ εἰμι ὁ ὤν. egoo eimi ho oon. I am the Being. ○ かつての訳:わたしは ありてある者なり。 △ ( Hebrew Exodus 3:14 ) ~~~~~~~~~~~~ http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Exo&c=3&t=KJV#s=t_conc_53014 3:14 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים אֶל־מֹשֶׁה אֶֽהְיֶה אֲשֶׁר אֶֽהְיֶה Ehyeh ser ehyeh . I-am that I-am. ○ 《わたしはある》 これがわたしである。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 70人訳聖書において正確に訳すと 「私はあるというあるだ。」 だそうです。何が言いたいかというと、前者のあるは「存在のある(有)」であり、後者のあるは「本質のある(有)」とのこと。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そんなに複雑なのかなぁ。 へブル語聖書の英語逐語訳: I-am that I-am. 七十人訳ギリシャ語聖書の同上: I am the Being. こうですけれどね。ギリシャ語訳文は 《わたしは the Being です。》と言っているはずですが。 ですから もし言うとすれば むしろ最初の《ある》が 存在そのもの――たとえば《生命とか 生命存在とか》――を言っていると受け取られます。あとの《ある》は 《わたしは》を承ける《です》のことです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この言葉をそのまま、仏教の「無」に当てはめると「私は無いという無いだ」となります。 後者の仏教の本質の「無」は肯定できますが、存在が「無」というのは、いかがでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。えらい複雑なことを考えるんですね。 なんで《無》にあてはめるんですか? あぁ。《絶対有が 絶対無と同じである》と言っているからですか。 だったら 《わたしは・・・です(である)》の有るは 相対的な存在(存在者)のことです。 《わたしはある》の有るは 確かに――神のことですから―― 絶対有のことです。 ですから 神の名前は 《わたしは〔絶対として〕無い》であると言えばよいのではないですか? 問題は それより 人間が神をどう捉えて語るかです。 有るという言葉で捉えるか。無いという言葉にするか。――この選択は ひとによってまったく自由にえらべばよい。と言っています。 つまり 無いをえらぶときには 《「私は無いというものだ」》となります。きちんと言えば 《わたしは 〈わたしは無い〉である》 というかたちです。このとき 《わたしは有る》は そのまま感じとして絶対的な存在を言っているようにひびきますが 《わたしは無い》と言うと 感じとして《単に 有ったり無かったりするときの無い》を言っているように響きますね。――趣旨は そういう意味ではないわけです。《絶対的に無い》という者だと言っているわけです。 ★ 色即是空 空即是色 と言いますが、色の「形」がないという意味は、存在がないと解釈できるのでしょうか? ☆ 《空観》というのは 色=かたちが――そして受も想も行も識も同じく―― 仮りの姿でしかないと見る見方です。すべての現実の事象は 仮象であると見る。ただし それらは仮象としては じっさいに現象しているのだとも言い添えています。これが 空観です。両面を同時に見ています。(詳しくは 空仮中の三諦という理論です)。 有ると無いとに直接にはかかわっていないはずですよ。
補足
マチガイの訂正です。 出エジプト記からの引用文で 次について正します。 x Ehyeh ser ehyeh . ○ Ehyeh aser ehyeh . エフイェー アシェル エフイェー。です。
- momochan_0110
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No.1です。参考文献として唯識独自の概念である「阿頼耶識」を解説した(1)「阿頼耶識の発見」横山紘一著幻冬舎新書 (2) 小説の立場から三島由紀夫「豊穣の海」全4巻 (3)一通りの解説本として「唯識とは何か」横山紘一著 春秋社 (4) 極め付けとして難解でしょうが中村元博士 「空の論理」中村元選集第22巻 春秋社を挙げておきます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 (3)と(4)は読んだと思います。 思いますというのは 横山紘一にしろ中村元にしろ ほかの題名の本であり((1)は知りません)ほかの主題ごとに編まれた全集の一巻としてだと思います。 というより あらましをまだ あ_ほなさんが言い表わし得ないならば 質問者としては その回答をお待ちすることになると思うのですが。
補足
momochan_0110 さん たいへん失礼しました。 蛙のマークでてっきり あ_ほなさんだとばかり思っていました。別の方だったのですね。 回答の問題としては まづあらましを――みなさんにとってもそうだと思うのですが―― 知りたい。こういう順序になるかと思っています。 お名前をまちがいましたこと 重ねておわび致します。すみませんでした。
これは哲学の領域から問われ続けてきた問題です。 それも古くから、しかも西洋哲学史と東洋哲学史、 仏教、キリスト教、そしてイスラム教、古い中国の 儒教などが、答えを用意していますが、いまだに 解決してません。 上にあげた各宗教は、発生した地域と時代の哲学 を内に採り入れているので、結局哲学上の問題とな ります。 さて、古代ギリシャの哲学が世界最古のそれか、 そのなかのひとつなのはご存知でしょう。 たとえば、「万物は流転(変化)する」といった 哲学者もいれば、理念的な「イデア(観念)」説を 唱えたプラトンもいました。 イデアについて簡単に説明すると、たとえば、 現実の世界には色々なテーブルや椅子があり、今日 のアイテムとしては、さまざまなパソコン、スマート フォンが存在します。それらは形あるもので、やがて 壊れたり無くなったりするのですが、ひとつひとつの スマホやテーブルなどが無くなる、つまり、非有の 状態になっても、スマホやテーブルといった観念は無 くならず、私たち人間の頭脳に思いうかびます。 その想念、イデアこそが絶対的な存在だと、プラトン は説きました。 しかし、そうなると、たとえばゴミやガラクタのイデ アはあるのか、という意地悪な質問をする反論者が出て きました。 また、スマホやパソコンというのは、ただの名前じゃ ないか(これが唯名論)。それに、話す言語がちがえば、 別のイデアがそこに「在る」のか? こうした展開から、「唯名論」と「実在論」がキリスト 教の教義論争を生みましたが、現代の哲学では、有限 な存在であるヒトと、ひとりひとりの個人が死んでも 在り続ける世界は、存在のあり方がちがうのか、という 論争になっています。これが、実存主義という哲学の 一派をかたちづくりました。 面白いのは、こうした実存主義の議論は、すでに仏教 の教義でも展開されていたことです。 あなた自身のことをふりかえってください。 生まれた時のあなた、幼い子供時代のあなた、そして その時身のまわりにあった街など、今は有りません。 それでも貴方は、自分が今生きて存在すると自覚し ているでしょう。 これが中観派とよばれる仏教の一派で、すべては 「空」(無いというのではなく、変転して止まらないこと) であると説く思想です。 経験事象としての有ると無い という、 あなたの設問の核心に、一番近いところまで来ていると おもいませんか? といっても、以上にのべたことは最終的な答えでは ありません。 今では難しい哲学や宗教の中身をわかりやすく解説 しているガイドブックが数多くあります。 それらをご自分で読んで、理解を深めていくことを おすすめします。
お礼
ご回答をありがとうございます。 おっしゃっていること おっしゃろうとしていることは おおむね分かりましたが――つまりその概観や展望はわかりましたが―― ご自身の答えは どうなのでしょう? 質問は すでに趣旨説明として 答えを出しています。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~ 経験事象としての有ると無い。 これを超えるものとしての絶対は 有ると言っても無いと言っても どちらも当てはまる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これです。どうでしょう。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
相対性理論にしても量子論にしても、認識体との相対によってしか 存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。 客観的絶対時空や認識から独立した存在はない、というものです。 それは、不確定性原理において、ある性質を絶対的に確定しようと すると、それに実体を与える他の性質が無限不確定(=無)に発散 する、換言すると階層的現象を表面的に(経験によっていい加減に) 捉える事で有限的な存在性は(現象表面性に付随して)生じる事に つながります。 さらに換言すると、無=無限の潜在的な認識可能性(感受表面 (量子相互作用)=現在=光速)からの自我仮説(経験(時間の流れ) =過去=超光速)と空間仮説(予測(空間の広がり)=未来=光速下) の相補分化なのです。 それが先の、階層現象的表面性の非光速性(「いい加減に捉える」 事による)に基づく時、存在性は本質的な根っこを失うのです。
お礼
補足要求にはいっさい――最後までは――答えないご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ)客観的絶対時空や認識から独立した存在はない、というものです。 それは、不確定性原理において、 (い) ある性質を絶対的に確定しようとすると、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この(あ)と(い)とは その内容がかみ合っていません。 言いかえると 《絶対》という言葉の定義が 違って来ています。相対的な経験世界においてその《究極性》といったような意味で このご回答では《絶対》が用いられています。 《絶対》とは 《客観的〔窮極なる意味での〕絶対〔の〕時空や認識から独立した存在》ないし《領域 または 場》のことです。 言いかえると 《認識から独立した》というよりは 《認識することが出来るかどうかが 人間は知解し得ない》その場ないしナゾのことです。 さもなければ 相対世界において どこが・何が 果ての果てであるかなどという探索を延々とつづけるのみになります。 ★ 無限不確定(=無)に発散する ☆ これが 《究極性》の問題です。それは 経験世界に属します。《絶対》ではありません。 ★ 無=無限の潜在的な認識可能性 ☆ この《無=無限》は 絶対のことである可能性があります。つまり 絶対無であるかも分かりません。 そうだとして その絶対無は けっきょく絶対有と同じである。どうか? と問うています。
- momochan_0110
- ベストアンサー率29% (17/57)
仏教の唯識思想の見解です。仏教では両極端を排除致します。この場合絶対有と絶対無は最初に排除されます。ですから同じといえば同じなのです。また、>変わりゆくものごとと変わり得べからざること とありますが唯識では「総てのものはうつろいゆくもの」ととらえております。 唯識の「空」の見解を一言で著すと「有無を超越した相互依存(縁起の意味)・万物流転が前提である。」 ちなみに唯識は日本では奈良時代の仏教の煩瑣哲学で体系的なものです。私も舌足らずな面もありますからご希望とあらば参考文献を提示致します。
お礼
ご回答をありがとございます。 今回の内容は 疑問符がわたしの中ではつきます。 参考文献は あらましをまづ知りたいですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ >変わりゆくものごとと変わり得べからざること とありますが唯識では「総てのものはうつろいゆくもの」ととらえております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《変わり得べからざること》というのは むろん現実ではありませんからそれは 想定に成るものです。 うつろいゆくすべてのものと言うときの《すべて》とは この経験世界におけるものごとの全体であるはずです。 それを超えたところに《非経験の場》を想定するという意味です。 想定してはいけないという立ち場である場合には その根拠をお知らせください。 ★ 仏教では両極端を排除致します。この場合絶対有と絶対無は最初に排除されます。 ☆ ここですが 微妙であるわけですが 《両極端》というのは やはり経験事象としての極と極でしょうね。 ならば《絶対(その有も無も)》は 《排除される》のではなく もともと含まれていない。こうなるはずです。 相対世界に絶対が ふくまれることはない。ですよね。 この疑問符をほどいてください。 つまり 結論は同じようなのですが それをみちびく筋道が異なっていると思われます。 ★ 唯識の「空」の見解を一言で著すと「有無を超越した相互依存(縁起の意味)・万物流転が前提である。」 ☆ このくだりを避けて通ろうと思ったのですが 触れます。 《有無を超越した》というのは 《非経験》ということであるはずです。 《相互依存(縁起)》というのは 《原因と結果や 依存関係にあるそのものごと》が有るということです。《有無を超えて》いません。 このような疑問です。
お礼
ももちゃん_0110さん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。 あらましが だめですか。 読んだことと しっかり覚えていること(またはその内容にもとづいてこの質問の趣旨を書いているかということ)とは別だと思うのです。 つまり 問題は 問いとして《絶対有と絶対無とは同じである。》と言い切っていますので それについて 然りとか いやいや 否だとかというズバリのご回答をいただければありがたいと思っています。 つまり あらましというのは そのようなイエスかノーかの回答につながる部分の内容が知りたいという心つもりで言いました。 もう少しみなさんのご回答をも合わせて 質問者としても考えようかとは思っています。 これに懲りずに またどうぞお越しください。この質問にも あらためてのお考えがありましたら どうぞお寄せください。