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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:コインキデンチア・オッポシトールム)

コインキデンチア・オッポシトールムとは?

このQ&Aのポイント
  • コインキデンチア・オッポシトールム(coincidentia oppositorum)は、対立物の一致(合一・統一)を指す命題です。
  • この命題は古代ギリシャの哲学やインド、道教などの思想にも見られます。
  • しかし、人間の視点からは対立物の一致は見ることができず、神の目から見てのみ成り立っていると考えられます。

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回答No.3

baragelonneさん おはようございます。 物事を考える時、二元論で考えるとわかりやすい。しかし、人はそれを、どうにかして融合し一元論にして物事を考えたくなるものと思います。 ところで、bragelonneさんは魂(霊魂)の存在は信じますか? 現代の科学が発達した時代では、ばかばかしいと否定する人が多いかもしれませんが、この投稿で、命題は古代ギリシアの思想まで遡って考えて思考した回答をしていいというならば、当時の人は霊魂の存在はあたりまえのように信じていた。 stimimさんの魂とは?という投稿に回答しましたが、プラトンは魂の存在を肯定し、不滅の魂は肉体に結合する前は天上界(イデア)を観照していたが、この世では魂は肉体という鎖に繋がれ、イデアを忘却してしまった。そこで出来る限り肉体を離れ、魂だけになりイデアを想起し不滅の生に立ち返ればならないとしました。魂と身体(肉体)の二元論を展開しています。 アリストテレスは膨大な書物を残したので、その書物のどこを引用して考察しするかによって意見は分かれるかも知れませんが、「霊魂論第二巻412a」の 「魂は可能的に生命を自然物の第一の完全現実態である。」 と、定義すると生命はひとつの全体であり、身体と霊魂は分離せずひとつであるとアレストテレスは考えていたと思われます。 また、bragelonne哲学の思想に大きな影響を与えたと思われる、キリスト教の聖人のアウグスティヌスは、無論、当時は、まだアリストテレス哲学はキリスト教世界には入って来ていない時代であり、アウグスティヌスはプラトンの考えをキリスト教の理解のため融合しました。そのため原則的に魂と身体は分離するという二元論の考えと思いますが、アウグスティヌスの書物を解釈するのは、私には難解であり、「三位一体論15巻7章11節」に 「人間は魂と体からなる理性的実態である。」 という、魂と身体が分離した二元論と考ええるべきか、一元論と考えるべきか悩む表現をしています。 これが、近代哲学になりとデカルトは「思惟(精神・心・魂(まとめてギリシア語のプシュケーとします))と「延長(身体)」と分けました。 デカルト後、西洋哲学は試行錯誤しながらも、やはり、一元論化は出来ず、観念論(唯心論) vs 唯物論(科学)という二元論的対立が現在においても続いているのではと思ってます。 前置きが長くなりましたが、私が考察するに、死んだ後、魂が分離するとか、心は魂に属する一部か?などは良く分かりません。 しかし、現世において人間が生きる上で、大事なのは、キリスト教においてパウロがよく使う、肉(身体)があるが上におこる罪とか、仏教における煩悩とか、煩わしい肉体(有)から発生する罪や煩悩をない(無)状態にした心(魂)を持つことが大切であると思います。 発想を転換すると、魂と身体の二元論的考えは、現世に生きる人間においてひとつ(一元化)にされていると考えることができるのでは。 しかし、かなり高齢の枯れはたてたbragelonneさんは、悟りの境地に至っているかもしれませんが、若い、私は、キリストが、よこしまな目で女性を見るだけで姦淫という罪を犯していると言われようが、仏教で煩悩だと言われようが、やはりベッピンの女性を見たら振り返りますし、女性も男性にも「生理」があって、そのくらいは悲しき男性の性(さが)として多めにみてくれる事を望みます(笑)

bragelonne
質問者

お礼

 amenhotep2000 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 物事を考える時、二元論で考えるとわかりやすい。しかし、人はそれを、どうにかして融合し一元論にして物事を考えたくなるものと思います。  ☆ 表現にも この場合はわたしはこだわります。  つまり用語ですが 《元》と言ってしまったらそれはものごとの究極のみなもとを言うというのが ふさわしい。ともしすれば けっきょく形而上学に行き着き 《非知》なる神の想定として用いると考えます。  《非経験の場》は 有るとも無いとも人間には分からないので それは全体としてひとつであると捉えるよりほかありません。つまり 神は 想定じょう 《一元》です。ほかには考えられません。    ヒンドゥイズムは多神論だと言っても 主宰神ブラフマンのもとに 保守のヴィシュヌ神と破壊のシヴァ神とが一体( Trimurti )となっています。《一元》のハタラキを ヴィシュヌとシヴァとに分けたに過ぎません。象や鰐や雷や何やらの神々も すべてこの一元のもとにおさまっています。  ですから 経験事象について語るときには 事項といった言葉で 二項対立だとか対立概念による双対というふうに表現するのが 分かりやすいと考えます。  ★ ところで、bragelonneさんは魂(霊魂)の存在は信じますか?  ☆ 《非経験の場》を想定し これを《非知》として説明し切り得たならば ひとはこの神と 否応なくカカハリをもつことになります。  そしてこの非経験の場は 経験世界における有る無いを超えていますから 神は有るとも無いともどちらの言葉ででも表わしてよいことになります。(有る無いは 言わないことにしようと取り決め合えば また話は違ってきますが 神なんているもんかと言う人もいれば いや 確かに存在する いなければおかしいと捉える人もいます。そのとき 哲学は どちらも対等にありだと捉え どちらを選ぶのも自由だと説明します)。  したがって 神を信じる(想定した神とのカカハリを無条件に受け容れる)と言っても神を信じない(神は無いという自己表現でカカハリを持つ)と言っても 大きく《信じる――カカハリが出来ている――》ことに変わりありません。  わたしは 聖書をとおしてキリスト・イエスからこのように説明する神のことを伝えられたという経緯がありますから 信じています。  非知――知り得るか知り得ないか それが人間には知り得ないナゾ――は そういうナゾであるゆえに《霊・たましひ・霊魂 あるいは 生命・いのち等々》という言葉で呼ばれます。何なら イワシノアタマと呼んでも 何の問題もなく また ほかの神の名前と互いに同等です。  ただし 神は 《鰯の頭》なのかと言って その経験事象――魚はうつろいゆく経験事象です――のことを神だと決め込んでしまっては 困ります。《非経験の場》だと初めに前提して想定しているのですから。  ★ 〔* 人間は〕この世では魂は肉体という鎖に繋がれ、イデアを忘却してしまった。  ☆ このプラトンは ダメ。神をイデアと呼んでも構いませんが その神とこの経験世界とを 人間である自分の勝手に――想像力を駆使して――つなげています。  すなわち そんな想像をたくましくするのなら たとえば神は イデアなる神つまりみづからを人間をして忘却せしめ 人間の――自由意志によるかたちで――好きなように考え行動することをよしとせしめた。これが 神の寛容であるといったように想像することも まったく同等に自由なのです。  神をすでに忘れた心の状態においてこそ 何となくにでも神の心に沿うように考え行動することが 人間に出来るならば ほめてやろうと思ったかも知れない。まったくの自由の世界をあたえたと見ることは じゅうぶん出来るでしょう。  ただし そういう解釈が 唯一の・神の理論であるのではない。いろんな解釈――神学――が自由だということであり そこで表現されて来る各自の神論については みなで評価しさらに考え合って行くのもよし。そして あるいは 神は無いという信仰のもとに 科学〔のみを〕する人もあってよし。  こういう手放しの自由なる世界を 神は人間にあたえた。こう来なくっちゃ イエスが出た意味がなくなります。  ★ 魂と身体(肉体)の二元論を展開しています。  ☆ いい加減にしてくれ。と ここでは言いたい。  ひとの自然本性は 身と心。肉体と精神。  精神=心を たましひと言うことはありますが たましひ・霊は すでに触れたように 《非経験の場》のことに当てて表現するのが ふさわしいでしょう。  霊魂は 神としてつねに一元であり 身と心とは ヒトなる存在として・自然本性として 一体です。  しかも 神の霊がひとにやどるとか 一切衆生悉有仏性とか 要するに梵我一如なる観想を想定するときには 身と心の一体なる自然本性が 神なる霊とも一体であると じんるいは 思って来ました。  (そうでなくても 無神論者が この信仰の動態を《否定する》ことは出来ません。否定したかたちにおいて 信じている(受け容れている)ということでしかない。思考によっては 知り得たか知り得なかったかがどこまで行っても知り得ない)。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~  「霊魂論第二巻412a」の   「魂は可能的に生命を〔持つ〕自然物の第一の完全現実態である。」  と、定義すると生命はひとつの全体であり、身体と霊魂は分離せずひとつであるとアレストテレスは考えていたと思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アリストテレスについては さらにおしえてください。  いまの段階で勝手に言いますが これは 《心・精神》を――つまりこの感性にもとづきつつも感性を或る種の仕方で(というのは 物体から離れた観念だけによっても想像しうるという仕方で)扱い得るかに見える心=精神を―― 簡単に安易に《霊魂》とつなげてしまっている。と見られますが そこは どうなんですか?  《生命なるチカラや霊・魂》は 非知なる神にあてはめたほうがとよいと考えます。その霊が――《非思考の庭》において――ひとにも宿ると見ますが 神なる霊と人間の精神とは 絶対的な隔たりがあるとも見ます。  非経験の場:神:霊・たましひ・生命・いのち  経験事象:ひと:自然本性(身と心。肉体と精神。感性と理性)  そして もし生命=たましひを 人間という存在にとってのデュナミス(可能態あるいは潜在力)と見ると単純に人と神とは直接につながっていると思われてしまうと思います。  生きる存在としての人間は デュナミスの実現したエネルゲイア(現実態)であるということだと思うのですが ぎゃくに考えれば この現実の姿は 単なる仮象であるとも言えなくもありません。なぜなら 移ろいゆかざるを得ないものだからです。  可能態が完全にその目的である姿を実現したという完全なる現実態――エンテレケイア(?)――であっても 所詮は《仮象》であると言わざるを得ないかも知れません。(回答No.1のあ_ほなさんからは 《空》観としてそういった見方が提出されています)。  アリストテレスに沿って 議論を深めてくださればうれしいです。わたしの議論のあやまりをも修正しておいてください。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「三位一体論15巻7章11節」に   「人間は魂と体からなる理性的実態である。」  という、魂と身体が分離した二元論と考ええるべきか、一元論と考えるべきか悩む表現をしています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 補足欄に継ぎます。  

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からのつづきです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「三位一体論15巻7章11節」に   「人間は魂と体からなる理性的実態である。」  という、魂と身体が分離した二元論と考ええるべきか、一元論と考えるべきか悩む表現をしています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アウグスティヌスですが 原文は次のようです。  ▲ (アウグスティヌス:三位一体論) ~~~~~~~  [・・・]一つの人格 すなわち それぞれの人間は精神においてこの三つ〔* 精神と自己知と自己愛〕を持つ。  もしまた 私たちが 人間は魂と身体とから成る理性的な実体である というように人間を定義するなら 疑いなく人間は身体ではない魂を持ち魂ではない身体を持つのである。  このゆえに この三つは人間ではなく 人間の有(もの)であり あるいは人間の中に存在する。人がもし身体を除いて魂だけを思惟するなら 精神( mens )は魂( anima )の或るものであり いわば魂の頭 眼 顔である。しかしこれらのものを身体的に思惟(おも)ってはならない。したがって魂ではなく魂において卓越した部分が精神であるとよばれるのである。  (中沢信夫訳 1975  15・7・〔11〕)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《精神においてこの三つ〔* 精神と自己知と自己愛〕を持つ》というのは 記憶と知解と意志の三つのことです。  精神が精神するとき それは《記憶》しているということであり さらに詳しくは 知識や情報をあたかも自己組織化するかのように秩序立てて整理することを言うと思います。これが 広義の精神が持つ狭義の精神のことです。  自己知というのは 二つ目の《知解》を 自己についての認識ないし知解にかぎって言っています。  自己愛は 《意志》のことですが そもそも《愛》とは 相手やものごとに対するマ(間合い)の取り方にかかわって その方向線がさだまりさらに向きが 正負(たとえば愛憎)のどちらかに決まり しかも自己表現というチカラをともなった動きを持つ。つまり 中立・中性の愛とは そのまま意志のことです。カカハリのあることが 愛なのです。好き嫌いいづれをも 含みます。  そうして 申し訳ないことに アウグスティヌスにしても 《魂》の規定であいまいであると考えます。  片や神の霊としての魂と そして片や《身と心》とを超えたところに――ヒラメキといった――ハタラキを持つ《非思考の庭》としてのやっぱり魂 これらの両方を含んでしまっています。  さらにしかも この心ないし精神を超えた《非思考の庭》としての魂のことを 《精神》という言葉でも言っているようです。  魂や精神を 次の図解によって区別して捉えてくださるとありがたいです。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場(これは 想定である)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)を受け容れた⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ プラトンやたぶんアリストテレスは この《非経験の場〔なる神〕――イデアやあるいは不動の動者・第一原因――》とそして人間とをホットラインで直通であるかのようにつなげて言っていると思います。(アウグスティヌスにも 同じくそう見られかねないところがあります)。  絶対的に隔たっている。と同時に――神のほうから――その隔絶の溝を埋めるかたちで おそらくおとづれがある。というかたちだと捉えています。その神のおとづれは もうそのときには 一人ひとりの主観の世界の問題になります。  だから 信教・良心の自由が 絶対的に・無根拠においてでも 受け留められます。  だから この信仰を 二人以上があつまって論議したり取り決め合っても それは無効です。組織宗教が 非人道的ないとなみであると言う所以です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし、現世において人間が生きる上で、大事なのは、キリスト教においてパウロがよく使う、肉(身体)があるが上におこる罪とか、仏教における煩悩とか、煩わしい肉体(有)から発生する罪や煩悩をない(無)状態にした心(魂)を持つことが大切であると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは 真っ向から反対します。  《身と心とから成る自然本性》に じつは――同じく自然本性の特別版と言いましょうかあるいは奥の院としてと言いましょうか―― 《非思考の庭》がそなわっている。そこには 神の霊がやどる。ブッダターが有る。自性清浄心である。つまり 梵我一如である。  というのであって この霊〔をそのまま受け容れている非思考の庭なる動態〕にあっては 身の欲望や煩悩から自由である。あるいはこの煩悩を思うようにならない苦( dhukka )だとしか見ることの出来ない狭い精神の弱い理性から 自由である。  つまり パウロの言うには 身と心〔だけから成る自然本性〕では確かにせいぜいが美しき悩みとさえ見られ得る人間的な苦しみや葛藤をどうすることも出来ない。あぁ さいわいなるかな われら 霊によるバプテスマを受けた者にあってはと言っています。  肉体の欲望やそれを引き金とした罪なるおこないが 人間の能力と努力とによってだけでは 解決が出来ない。と言っています。それゆえ 信仰のことを示唆しています。  煩悩を無くせ・消してしまえとは言っていません。また それが――人間の人となりと成るほどにつねにそして長期にわたって――出来るとも言ってはいません。  ★ 若い、私は、キリストが、よこしまな目で女性を見るだけで姦淫という罪を犯していると言われようが、  ☆ これは われわれに宿る《自性清浄心――ブッダター(仏性)――》というのは 《佐々木希を見て その意志を踏みにじるかたちで襲うこと》が姦淫であると告げるチカラであるだけではなく 《よこしまな目で見るというその心の動き》すらからも自由な境地であるのですよと語っているのです。  罪を犯している あぁ だめぢゃないかというようなことを語っているのではありません。  イエスの言葉は すでにつねにみな わたしたちにきよからな元気を湧き出させてくれるということを内容として語られています。そういうチカラが――霊なるチカラが・お望みならば 魂なるデュナミスが―― 拡大版の自然本性にはそなわっていますよと。  ★ [・・・]やはりベッピンの女性を見たら振り返りますし、女性も男性にも「生理」があって、そのくらいは悲しき男性の性(さが)として多めにみてくれる事を望みます(笑)  ☆ 大目には見ません。なぜなら その《さが(性)なる生理現象》じたいが 自性清浄心のもとに発現する境地――自然本性の奥の院――があるのだから そうなりなさいと言っています。  池に落ちても 水に濡れずに上がって来るという意味です。  ★ かなり高齢の枯れはたてたbragelonneさんは、悟りの境地に至っているかもしれませんが、  ☆ 年長者であることと枯れ果てることとは 別ですよ。  悟りの境地とは 悟りとはどうでもよろしいと言える境地のことです。

その他の回答 (14)

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.5

そうですね、ただの観念論に終始しないとなると、問いは、如何にして争論を超えるか、その事に空は役立つか、ということになると思います。世の中では空について論争が起こるくらいであり本末顛倒と言ってもよいかもしれません。 以下も私見ですが、空の理解や体得は、忍耐、忍辱などの徳の発揮に役立たないわけではない、とは言えると思います。争論が起こった時に、個々の言葉に対する偏見を超えているならば、争論が燃え盛ることも無いように思うからです。 この度は中途半端で申し訳ないが、如何でしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ただの観念論に終始しないとなると、問いは、如何にして争論を超えるか、その事に空は役立つか、ということになると思います。  ☆ 確かにひとつの道としてそうなりますね。  でしたら その行き方もけっこう面倒ですので(単純に言って手間暇がかかりますので) 別の方向から いまいちど尋ねてみておきたいと思います。  尾を引かないような問いとして。  空観に立てば 争論を伴なっても いちおうのケリがつけばいわゆる《しこり》は消えますか?    そうだと思うか やはり無理かなぁと思うか。そういうかたちで答えていただくと それとして分かりやすいと思います。  展望として人びとは捉えておくでしょうから。

回答No.4

bragelonne さん  また脱字です。 「魂は可能的に生命を自然物の第一の完全現実態である。」→「魂は可能的に生命をもつ自然物の第一の完全現実態である。」 回答の急所であるので、訂正します。 今日は帰宅が遅くなると思いますが、他に回答する人が、たくさんいればいいですね。

bragelonne
質問者

お礼

 了解しました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.2

追記です。 先ほどの回答は、私見であることを了承くださいませ。

bragelonne
質問者

お礼

 了解。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.1

空寂の中でなら、対立する概念は等しくなる。万物は皆空であると見るならば、諸々の対立する概念は対立を離れ、それぞれの個性のみの独立した概念として捉えることが出来る。独立している故に対立しない。 善は善であり、悪は悪であり、白は白、黒は黒となる。 それぞれの概念は対立概念ではなく独立概念として受け取ることができるようになるのは、空というプレーンがその下敷きになっているから。 空と言うのは満ちているが空っぽであり、あらゆる音や色があるのに静寂で透明である。 だが、空を覚知するのは簡単ではない。物の根源を見極めようとした時にはからずも空に遭遇する。存在と非存在を含有しており、在ると無いを含有している。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《おまえのかあちゃん 出べそ!》と言われても 対立しない。あるいは一たん〔仮象は仮象としては現象しているのだからその限りで〕対立したとしても――《空》なる観想のもとでは―― 独立した存在〔どうし〕として 対立を離れる。ということでしょうか?  むろん 出べその問題にとどまらず いろんなののしり・中傷誹謗の言葉――果ては ひとの意志を踏みにじるあやまち――をふくめて言っているのですが それでも最後までは《対立》はしませんか? 最終的に和解に持って行けましょうか。  観念論に終わらないものであることを いま一度 みなさんは説明して欲しいと思っていると思いますが どうでしょう。

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