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呉の海軍工廠にいたスパイ

工廠にいたスパイが空襲の日に丘の上に登って赤い灯火を振って 敵の飛行機を誘導していたと聞きました。 工廠ではかなりの地位にあった人物だったそうです。 空襲の少し前に部下を使って建物の屋根に識別の丸ペケ記号を書かせたと言います。 部下には空襲を受けた後に復旧作業をするための目印だと説明し、 部下たちはなんで壁に書かずに屋根に書くのか不思議だなと思いながら命令に従ったと聞いています。 この目印は攻撃目標が空から一目瞭然わかるようにしたものです。 誘導灯を振っていた姿を見つかって逮捕されて間もなく終戦を迎えたので その後どうなったかも不明だそうです。 赤灯を振るのが最後の任務でそれを実行すれば作戦完了だったのでしょう。 全体の詳しい話をご存知の方教えてください。

みんなの回答

回答No.3

●薄暗くなるほどの数の飛行機が低空を飛行し ○低空で侵入した飛行機で周囲が薄暗くなるほどの機数って・・・・何百機でしょう?それにそんなに密集したら接触してしまいますよ(笑) ●西洋人は人を殺す時でも笑っていられるのだそうです。 ○地上を機銃掃射したときに操縦士の顔が見えた、というのは時々聞く話ですね。白人の有色人種への人種差別・偏見はありましたし、「戦争」というのは狂気ですからそういうこともあるでしょう。  当時の日本人だって戦地おける行為では大差ないです。 ●屋根に打った識別記号に従って戦後の占領に使う建物はきれいに残していたといいます。 ○火災で類焼することもあるし、高射砲もあって迎撃することはできますよ(高高度で侵入するB29には手が出せなかったのですが)。  施設そのものを爆撃の対象から外すことは可能でしょうが、建物ごとに区別するのは無理でしょう。爆撃時だって時速数百キロ、よほど大きな目印でないと気づけないし、そんな目印をしていたら特高に見つかってしまうでしょうし、第一「戦後復旧に使うため」であればそもそも施設そのものを空爆の対象から外します。類焼してしまったら元も子もありません。  偶然焼け残った施設が戦後使われたことでそんな都市伝説が生まれたのでしょう。  「文化財の多い京都は爆撃対象から外され、実際に空襲もなかった」という伝説と同じような気がします。

mog411118
質問者

お礼

ありがとうございます。 周囲を薄暗く感じる現象はあると思います。 私も子供の頃カラスの大群に出会ったことがあり 百羽もいなかったと思いますが数十羽で十分周囲は暗くなり ゾッとして子供心に恐怖を感じた経験があります。 太陽のある方向に幾らか集中すると辺りはかなり暗くなります。 部分日食を見た経験がある人なら幾らかわかってもらえるかも知れません。 私は何人かの従軍経験者に話を聞きましたが、 お祭りの夜店で玩具の銃を撃っているような顔付だったと言います。 「俺たちはとてもあんな顔で人を撃ち殺すことはできなかった」と聞きました。 まあ有色人種にも色々な人がいるとは思いますが、白人にその傾向は強かったようですね。 呉の空襲の時にはすでに船や飛行機の燃料はおろか高射砲の玉も残っておらず 敵は安心して低空に降りてきたらしいです。 呉の港には敵の航空機が侵入することは地形的に不可能だという考えで 全ての物資は戦地へ送られてしまっていたようです。 まるで今の原子力安全神話のような論理を昔から使っていたのですね。 実際に飛行機はどのくらいの高さに感じましたかと聞くと「電信柱の頭くらいまで降りて来る飛行機もあって 操縦士がニヤニヤしながら機銃を撃っているのがよく見えました」という答えでした。 屋根に打った識別記号は、空襲を受けた後の復旧作業のためという偽りの理由で スパイが日本軍の一員として部下に命令して付けさせたものです。 プロペラ機が低空を飛んで機銃を打つ時には降下しながら相手に向かって進み照準を合わせるわけですから 撃たれる方が操縦士の顔の表情がわかるくらいの関係にあり屋根の上の識別記号は十分に認識できます。 識別は破壊すべき工廠の生産設備と職工の宿舎等には破壊すべしの印を 鎮守府の庁舎などにはGHQが戦後7年間の占領事務をするときに快適に過ごせるように残せの印を付けたそうです。 事実としてその建物は返還を受けて今も残っています。

回答No.2

艦載爆撃機ならともかくB29などの大型爆撃機は高度2~3000mから爆弾を投下しますので、そんな程度の目印では気付いて排除できないでしょう。

mog411118
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですね大型の爆撃機はかなりの高度から爆弾を落とします。 太陽光線が遮られあたりが薄暗くなるほどの数の飛行機が低空を飛行し操縦をしている人の笑い顔が見えたと言います。西洋人は人を殺す時でも笑っていられるのだそうです。迎撃する高射砲に込める玉もないので、敵も怖いもの無しで工廠の設備を女工さん諸共破壊し尽くしました。しかし、屋根に打った識別記号に従って戦後の占領に使う建物はきれいに残していたといいます。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11083/34534)
回答No.1

その手の都市伝説は世界中のどこでもありますよ。有名なのはマンガ「はだしのゲン」にも描かれた「屋根に『P』と書いてあったらそれは捕虜がいるサインだから空襲されない」という話ですね。 他にも、「パールハーバー奇襲ではハワイ在住の日系人が日本機を誘導した」という話があります。パイナップル畑(あるいはサトウキビ畑)に基地の方向に向けて巨大な矢印を置いた、とかね。この話はかなり信じられて日本人が強制収容される原因のひとつにもなったそうです。 戦争中なら、事実は別としてちょっと不自然な行動をしているように見られた人は片っ端から取り調べを受けたでしょうから、そういう人は日本中のあちこちにいた(スパイがいたという意味ではなく、スパイの容疑をかけられた人がそれだけいた)と思います。単に容疑だけで終わった人は後からなにかされると困るから戦後の混乱のうちに資料が焼却処分されたのも多かったのではないでしょうか。

mog411118
質問者

お礼

ありがとうございます。 そのようですね。 でも、私は呉の海兵団の生き残りの人に聞いたので事実と認識しています。 話を聞いた時には”第何工廠の誰それ”と階級まで聞いたのですが、残念なことに記憶に残っていません。 資料の焼却処分は聞いたことがあります。 私に話をしてくれた人も重要資料を抱えて機銃掃射の中をかい潜り豪まで運んだそうです。 もう一人の人は走っている最中に足首を飛ばされたと言っていました。 足首がなくても豪に到着し指摘されるまで本人は気が付かなかったらしいです。

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