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アブデュル=ハミト2世の憲法停止
オスマン帝国スルタンのアブデュル=ハミト2世が露土戦争を口実に憲法停止したのは何故ですか? もともと憲法を停止したくて、そのための口実はべつになんでもよかったのですか? もしそうならなぜ憲法を停止したかったのですか? おねがいします。
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原因はアブデュル=ハミト2世が皇帝になる前からあったと思われます。当時のトルコは丁度幕末明治のような状況下にあり専制君主制を排して近代的憲法の下議会制政治を行い皇帝は憲法の上で認められた権限しか認めないという改革派の人々がいました。当然それに反対する皇帝やその取り巻きの保守派がいるわけです。皇帝は事態を 沈静化するために妥協したようで、改革派の青年たちに人気のあったハドハト=パシャが宰相に任命され憲法案を作成、公布しています。その直後にロシアとの戦争が勃発したため、皇帝は非常事態という口実のもと旧体制、つまり専制君主制に戻したのです。(1878年)皇帝自らが改革を進めていたわけではなかったので千載一遇の機会を逃さなかったのでしょう。 トルコはロシアとの戦争に敗れ領土を失ったことにより 青年を中心とする改革派の勢いを抑えることが出来ず 結局憲法を復活(1908年)し、その翌年皇帝は廃位させられています。
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流れをみると口実のようです。 この時代、トルコの革新のためには皇帝専制をやめ、立憲国家になるしか方法がないことは、知識人の間では定説となっておりましたが、常にその動きは弾圧されてきました。 1872年に大宰相に任命されたミドハト=パシャは制憲派の頭目となり、皇帝アブデュル=アズィズに解任されると自分の憲法草案を新聞に発表し、これに国民の支持が高まるとクーデターを起こし、皇帝アブデュル=アズィズを退位させ、ムラト5世を新皇帝として憲法を発布を約束させます。 その後ムラト5世が変節すると、甥のアブデュル=ハミトを即位させ、やっと新憲法を制定「ミドハト憲法」と呼ばれます。 ところが皇帝アブデュル=ハミトは、国内の革新勢力の沈静化の為にミドハト=パシャを必要としただけであったのか、直ぐに罷免し死刑宣告をします。(減刑されてターイフに流刑・扼殺) 憲法も翌年に始まった対ロシア戦争を口実に中断させ、以後30数年もの独裁政治を行い、1909年青年トルコ党のクーデタにより退任させられますので、本心としては憲法を認めたくなかったのでしょう。
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よくわかりました!ありがとうございます!
お礼
ミドハト憲法は、皇帝の一時の妥協の産物だったのですね。ありがとうございました!