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キリストの受難と出家者の苦行と諦念

ゴータマ・ブッダが苦行をやめたので 仏教徒は特に苦行について考察する必要はないと思う。 キリストの受難とは結局、どのように考察するべきでしょうか? インドの苦行者たちとの関連も気になるところです。

みんなの回答

回答No.2

「人としての限界を越えるほどの受難と、それに対して突き動かされずにはおれなかった人間の本性、その相乗効果から得られた普遍性とそこから発展した伝統の重み」の象徴、くらいに私は理解しています。  苦行というのは「何が人としての限界かを実践を通じて模索する過程」なのではないでしょうか。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 限界を越えるか、越えないか、と。

  • pinetoil
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.1

簡単に言うと「メシヤの為の基台の失敗」なのだが・・・・ これで判らないのなら 聖書を読み直すのが先

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 基台とは? とりあえず聖書は読み直します。

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