今となっては、物語にひたすらあこがれていた昔のとりとめもない心も、ほんとうに悔やまれることだよと、ただもう、ひたすら思い知って、その当時親がどこの寺へも、私を連れて参詣したりなどしないで、そのままになってしまったことも、非難がましく思い出されてくるので、今はひたすら裕福な勢力のある身分になって、幼い子供をも思い通りにせわをし、立派に育て上げて自分自身も蔵に財宝がつみきれないほどの財産家となって、来世までのことをも願おうと、心をはげまして、十一月の二十日すぎに、石山寺に参詣する。おりから雪がちらちらと降って道中の景色までも赴深いうえに逢坂の関を見るにつけても、その昔上総から上京する時にここを超えたのも冬であったことだと思い出されてくるが、丁度その時も風がたいそう強くふいた。逢坂の関をふく風のおとは、その昔上京の時に聞いた音と少しも変わっていないことだなあ。関寺が立派に作られているのを見るにつけても、あの時荒作りの仏様のお顔だけが見られた。その時のことが自然思い出されて、あれから長い年月が、たってしまったのにつけても、感慨無量の思いがする。
といったところですかねぇ・・・。これからは自分で調べましょう。
お礼
すいません。ありがとうございます。訳わかってたんですけど、もっとちゃんと知りたいなーと思ってたので。ほんとありがとうございました。