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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:アメーバに知性や感情はあるのか)

アメーバに知性や感情はあるのか

このQ&Aのポイント
  • アメーバやゾウリムシなどの単細胞生物に、知性(とおぼしきもの)や感情(とおぼしきもの)はない。
  • 粘菌には知性や感情はないが、アリなどの昆虫や魚、鳥、哺乳動物などでは知性や感情が存在する可能性がある。
  • アメーバやゾウリムシには心や魂・霊魂が存在するとは考えられていない。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#221368
noname#221368
回答No.5

 某brさんとも何度か話した事があるのですが、多少思弁的に言うと「人間は自分で自分を即時的に自己モニターする存在」だと思っています。この自己モニター無限ループのシステムとしての挙動が、意識じゃないのか?、と(無意識や勘も含めて)。  しかしアメーバやゾウリムシなども、ある種の自己モニターは行ってるはずだ。そうでなければ、外界のからの刺激に対して反応しない。それを言ったら植物も。  という事は、意識,知性,感情とは自己モニターシステムの完成度の高さを指す言葉なのかも知れない。そうだとしてそれを定量化できるかどうかなんて、現在のところ全然わからないが、したみたらそれがキルリアン放射だったりして(←冗談です(^^;))。  ※ネコさんにだったら、キルリアン放射なんて言っても「漫画の読み過ぎ、アニメの見過ぎ」とは言われないだろう(^^;)。  という訳で、自己モニターシステムの存在という意味では、動植物を問わず生物全般に意識はあるという事になるが(←なるのか?)、たぶん人間はコミュニケーション可能な範囲しか相手にしないだろう。  キルリアン放射の物理的閾値によるなシステム定義と、霊長類研究によるコミュニケーション可能範囲が一致したなんて仮定をネタに、一本SFでも書けたら楽しいですが、コミュニケーション可能だった我が家のバカ犬は「知性,感情,心」を持っていたとどうしても思える(異論があるのは知ってます)。  エッ・・・、魂・霊魂?。気の迷いかも知れないが、自分は幽霊を見たと信じています。気の迷いだったかも知れないが、見ちまったものはしょうがない(^^;)。むかし祖母が死んだ時、化けて出てくるのでは?と、夜も眠られない時期がありましたが、今は亡きバカ犬の幽霊はちょっと見てみたい。  ・・・でも出てこないでね。やっぱりちょっと怖いから(^^;)。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 センサーとその制御系であるCPUを有した機械やロボットも「(人間は)自分で自分を即時的に自己モニターする存在」ですよね。 であるならば、コンピュータを内蔵した機械は心を持っているのかもしれない(^^ゞ ☆たぶん人間はコミュニケーション可能な範囲しか相手にしないだろう。 ◇アンドロイドならば、人間とコミュニケーションをとることも可能(・・? http://www.youtube.com/watch?v=lDIyJYTEjvo ☆コミュニケーション可能だった我が家のバカ犬は「知性,感情,心」を持っていたとどうしても思える(異論があるのは知ってます)。 ◇SONYのペットロボットAIBOの方が賢いかもしれない。 http://www.sony.jp/products/Consumer/aibo/ 対象が知能(知性)や感情、心を持っているかどうかは、 人がその対象にそれを認めるか認めないか、 実はそれだけの問題なのかもしれない。 他の存在にこうしたものを認めようとしないのは、人間は他の存在とは異なる特別な存在であるという傲慢のなせる業(わざ)だったりして。 たぶん、人間の脳と同等の能力を人工知能・AIが獲得しても、ヒトは色々な難癖をつけて、AIに知能の存在を認めないんですよ(^^♪ キリルアン放射 http://kouhakudou.blog.fc2.com/blog-entry-679.html これについては、不思議な現象ですね、としかいえないですね。 回答、ありがとうございました。

その他の回答 (17)

回答No.18

 こんにちは。No.16を承けます。  整理します。  1. 質問のねらいは 何でしょう?  2. 動物が すでに決められた範囲の本能に従ってにせよ・あるいはひょっとして本能の枠を超えてだと思われるかたちにせよ 人間と同じように知性をはたらかせて行動することが 観察されている。このことに 異論は出ない。  3. 動物の場合は 人間がおこなう《実験》においておもにそのことが観察されているといった点は 芳しくないようにも思われる。  4. 問題は それでも人間とのあいだに《分け隔て》を置くかどうかであって しかもその分け隔ての判定基準を何にするかでも 議論があるかも知れない。  5. わたしの考えでは 知性のある動物が 人間の社会の一員となりたいと言って来ないかぎり 分け隔ては当然置かれている。という見方です。残念ながら。  6. なお 動物にわたしはなじみがないのですが 二三のエピソードは 胸にのこるものとして持ってもいます。  (あ) 昔のローマで 象のサーカスがあった。幾頭かの象が一緒に芸をする。そのときその中で からだの動きのぎこちない小さな象が 或る夜ひとりで何か運動をしているのが見られた。よく見ると 芸の練習をしていたのだった。その作者の言うことには その象は ほかのみんなにわるいから 何とかみんなと一緒に振る舞うことが出来るようにと練習していたのだとか。  (い) スペイン領ピレネーの山の羊飼いの家に飼われた羊飼いの犬の話。  人間たちが山を下りて町に行っているあいだ 赤子がふたり揺り籠にのこされていた。そこへ狼がやって来た。赤子を目がけてすでにまっしぐらに襲って来た。犬は 体当たりでこれを防いだ。赤子らは無事だったが あとには 二匹の死骸が横たわっているのを 帰って来た羊飼いは見つけた。  7. そして 動物好きな人たちに対して苦言を呈しましょう。分け隔てなくかわいがっていると言っても けっきょくペットとして飼っているということではないのでしょうか? もっと・と言うかふつうに自由に 自然の中で思う存分生きるようにさせてやりたいとは思わないのでしょうか?

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 ☆1. 質問のねらいは 何でしょう? ◇質問文に「皆さんのお考えを教えてください」とあるとおり、 皆さんのお考えを聞きたい、 です。 皆さんが、知能や知性、心というものをどのように考え、 そして、 何を根拠に知能や知性などを有する生き物の境界線を引くのか、これを知りたい、ですかね。 わたしは、ドラえもんなどのアニメで育った世代ですから、 体が有機体であろうがなかろうが、 人間が作った人工知能であろうが、 体などの仕組みの違いは認めつつ、「こいつは人間と同じだ」と感じられれば、思えれば、 《こころ》を有すると判断する派ですかね。 (《こころ》という存在の)見做し派と言ってもいいかな。 そして、このことについて何の違和感もおぼえない。 だからと言って、こうした考え方を他人に押し付けるつもりは全くありませんけれど。 ですが、 不思議なもので、 人間の姿形に近づけば近づくほど、人形(ひとがた)のアンドロイドというものに対して、強い違和感や不気味さ、気持ち悪さをおぼえてしまう。 人間との表情や仕草の相違、違いが目立ってしまう。 少なくとも人形のアンドロイドは外見的にヒトに似せればいいというものではないらしい。 似せれば似せるほど、作り物めいて見えてきて、ヒトから遠ざかっていく。 気持ち悪さが増してくる。  ───ヒトは他人の表情や仕草の微妙な違いから、無意識的にその人の感情や考えを読み取ろうとするためか─── ホント不思議ですよね。

NemurinekoNya
質問者

補足

《知能》や《こころ》という言葉の意味をより広くとらえる、と言った方がいいのかな。

  • kanto-i
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回答No.17

お礼ありがとうございます。 >捕鯨反対の最大の根拠は旧約聖書の創世記で、人間は地上の(哺乳)動物を管理する権限を神から与えられていますけれど、海に住む哺乳類である鯨やイルカの管理権を神から与えられていない。 つまり歴史上、権限があったから黒人を奴隷化したのでしょうか。 キリストは有色人種なのに有色人種を見下す理由が掴めません。 鯨を保護して黒人などの有色人種を差別する、大きな矛盾は 陸に住むか海に住むかの思想の価値観でしたら 心を有しているかどうかより権利が先に立つ考えだと思います。 実際には、権利の主張と人種の違いで心を有する者を優先させるのは どちらも同時に叶えることができると思います。 労働力の確保で、黒人を下だとこじつけたのは分かりますが 行動の圧倒的な矛盾点を、いかにこじつけと言い訳で塗り固めて 生きているのか。 矛盾的行動こそ、知性や感情・心を持つとするラインとして 判断基準の一つになり得るかなと考えました。

NemurinekoNya
質問者

お礼

☆矛盾的行動こそ、知性や感情・心を持つとするラインとして 判断基準の一つになり得るかなと考えました。 ◇かもしれないですね。 誤りをする、時に誤った判断をすることがある、ということが、知能や知性の重要な一面なのかもしれませんね。 ところで、 とある医療診断プログラムに患者が高熱を発したときの治療法を尋ねたところ、 「その患者を殺せ」 という治療法(?)が出されたことがあるそうです。 これは実話です。 確かに、この患者さんを殺せば、熱は下がる。そして、これは根本的な解決策なのかもしれない(ポリポリ)。 回答、ありがとうございました。

回答No.16

 No.15を承けます。  ▲ (ネズミは仲間見捨てない…米大学チーム確認) ~~~~  【ワシントン=山田哲朗】  自分は得するわけでもないのに、困っている仲間を助ける。他人の感情を共有するそんな「共感」の能力をラットも備えていることが、米シカゴ大学チームの実験でわかった。  人以外では、これまでサルでしか確認されていなかったという。9日付の米科学誌サイエンスで発表した。  実験では、まず、わなの扉を外から頭で押して開けられるようにラットを訓練。そして1匹のラットをわなに閉じこめると、訓練を受けたラットは扉を開けて仲間を救出した。  わなの外にチョコレートがあるときも、自分が独り占めできなくなるのを承知でラットは扉を開けてやった。出てきたラットと接触できないようにしても行動は変わらず、仲間と一緒にいたいという自分の一方的な望みが動機でもないらしい。雌の方が仲間を助ける傾向が強かった。   (2011年12月9日12時30分 読売新聞)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それでは いぢの悪さをなお発揮します。  ▲ まず、わなの扉を外から頭で押して開けられるようにラットを訓練。  ☆ ここが なお曲者だと思います。  もし《共感》の能力を自然本性としてそなえていて仲間を助けようとする考えを持つとしたら そのときそれが人間と同じ知性であると言うためには 次のことが必要ではないでしょうか。  すでに生まれつき仲間との共生を本能だけとしてではなく 知性としてそなえていたならば 罠に閉じ込められた仲間を見て その罠の出入り口を見つけ出し そこを何とかして開けようと考える。――のだと思います。このように行動したとき ネズミは ヒトと姿形は違うけれど あぁ 人間と同じなんだなぁと思うと思います。  もしサルには ヒトと同じように知性をはたらかせる事例が見つかっているとするならば その知性をとうとび われわれはこのサルとのさらに親密な共生をしようとしているはずです。  それは それでも種がちがい――つまり 差別ではなく 生存・共存のかたちが違うという意味において違いがあり―― 互いに別々にその生活世界をかたちづくっている。ということではないでしょうか?  つまりはたとえば男と女とでは 同じヒトなる種であるか? と問うことがあり得るとき これは同じ種だと公理のごとく――どちらが主導してかは知りませんが――確認されています。それと同じようにほかの動物でも成ったときには 知性をはたらかせるという要素をヒトと共有するというだけではなく 人間と分け隔てがなくともに人間世界として共生することになるはずだと思われるのです。  あるいはつまり こういった種の差を超えて共生しうるかどうかの問題を 人間からではなく ほかの動物から率先して考え 問い求めようとしてもよい。そういう問題だと いまのところ 考えられるのですが お気にめしませんか?  現在の韓国人は きちがいであり 中国人は 世界を征服することしか考えていないと思われるとき――これでは まともに共存できないと考えられるのですが―― それでも同じヒトなる種であると認識してか・または同じ種であるとも認められないけれど相手も言葉を話す生物であると見て共生すべきだと捉えてか やはり生活世界を共有するということは 取り下げることをしません。  それと同じように ほかの動物の知性の問題も 考えられるとわたしは思います。 分け隔てはないと ともかく考えるのならば 社会的な共生をも考えて行くべきではないでしょうか。それはしないのでしょう?

NemurinekoNya
質問者

お礼

☆すでに生まれつき仲間との共生を本能だけとしてではなく 知性としてそなえていたならば 罠に閉じ込められた仲間を見て その罠の出入り口を見つけ出し そこを何とかして開けようと考える。 ◇訓練をした、学習をさせたのは、観測時間の短縮化を意図したのと同時に、ラットに選択可能性を大きくしたのだと思いますよ。 ただ、罠に閉じ込められた仲間を助けるというのは、ラットの本能的な行動である可能性は否定できませんね。 ラットは「可哀想だから、助けようと」と考えてそのように行動したのではなく、本能や本能的な衝動にただつき動かされ、いても立ってもいられず、無反省にそうした行動を取っただけかもしれない。 ラットと人間は、人間的ない意味における意思疎通ができず、それ故に、ラットにどうしてそのように行動したのか質問し、このことの真偽を確かめようがない。 ですが、 哺乳動物のモノマネや模倣という能力が本当に共感を生み出したのであれば、 原始的段階ではあるかもしれないけれど、 罠に閉じ込められた仲間の姿を見て、その苦痛などを我が物として共有できるのかもしれないですね。 動物好きな私などは「そうであったらいいな」と思います。 以前、人間と人間の言葉でコミュニケーションを取れるヨウムのアレックス君を紹介しましたよね。 このアレックス君は、イタズラなどをして相手(研究者)を怒らせたりしたら、「I'm sorry(ごめんなさい)」と謝ったりすることがあったそうですが、 この言葉の意味を知らずにイタズラをして相手を怒らせたという状況から判断して、学習した「I'm sorry.」という言葉を使っただけかもしれない。 人間の言葉を使って人間とコミュニケーションが取れたとしても、その言葉の意味を理解しているとは限らない。 「中国語の部屋」のような問題が残るんですよ。 中国語の部屋 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B 回答、ありがとうございました。

回答No.15

 こんばんは。  ◇ (No.10補足欄) 「動物に心(Mind)が存在する」という質問が成立しないのか…。  ☆ ですから そのハタラキとして人間と同じような内容を動物もおこなっている。と見られる。  ▲ 《 to be aware of the world and their experiences, to think, and to feel》  というハタラキだけを取り上げれば 同じような中身の機能を持つと。  《考える》は ただし生存本能としての路線の範囲内なのではないか。  たとえば 変な事例ですが 動物は自死をえらぶことはありますか? すでに決まった範囲での自由度なのだと思われます。  そして ハタラキを持った存在の全体としては 種が違う。ということではないのでしょうか。

NemurinekoNya
質問者

お礼

☆《考える》は ただし生存本能としての路線の範囲内なのではないか。 ◇たぶん、高度な知能を有する鳥でさえも、この範囲を超えてはいないんでしょうね。 ネコは、飼い主に虫やねずみなどの小動物をプレゼントしたりするので、この範囲を超えているのかもしれないですけれど。 オスネコもこうした行動を取るので、飼い主へのプレゼント行為は本能に基づく行為とは考えられない。  ―――オスネコは、子育てに一切関与しない――― ネズミは仲間を見捨てない http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/697.html チョコを食べてから仲間を助けるのではなく、仲間を助けて一緒にチョコを食べる…。 ☆たとえば 変な事例ですが 動物は自死をえらぶことはありますか? ◇自殺と思しき事例は幾つかあるようですが、 たぶん、人間以外の動物は他者が死ぬことは知っているけれど、自分が死すべき存在であることを知らないんじゃないですか。 「ネコは死期が迫ると姿を隠す」とよく言われますが、 自身が弱っているので、他の捕食動物に食べられないように、安全な場所に身を隠しているだけであって、「自分は死ぬ」と考えていない、予想していない。 死期の迫ったネコが家から姿を消したとしたら、「飼い主のもとは危ないかもしれない。飼い主は弱ったオレをきっと食べるに違いない」と、飼い猫が判断したからかもしれない(^^ゞ 人間以外の動物は、直面する問題解決のために異常な行動を取った結果、死ぬことはあったとしても、人間の自死のように「死のうとして死ぬ」ことはないでしょうね。

回答No.14

 中枢の進歩とともに「情報処理の主体、感情、知性」の順に、発展しながら生体に獲得されてきたのが精神というものだと思います。脳という物質的構造の上の物理的性質の上に存在する一つの性質として。中枢がなければただの化学反応なのではないでしょうか。

NemurinekoNya
質問者

お礼

なるほど。 回答、ありがとうございました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.13

お礼ありがとうございます。 >人間を基にして類推せざるを得ない。 考えるのが人間だから、致し方ないように思いますが >心のあるなしなどを議論するとき、「人間以外の生き物に人間をあてはめて考えざるをえないんじゃないか」という問題提起。 心の有る無しを議論すること自体、なんででしょうねってのがあると思います。 心の有る無しで優劣を付けたいのか、はたまた扱いを変えたいのか。 ライオンは腹が減ると、ガゼルだろうが人間だろうが食べます。 取りやすい方を狩るだけです。 捕鯨のように何がしか差別化をはかりたい時、考えるのでしょうかね。 鯨より牛の命が軽いと思えないのですが、心や思考を基準に持ち出すと 正当化されてしまいます。 鯨は好きですが、国際的に喧嘩してまでは・・・。 しかし打ち上げられたものは、ヒゲや骨は使って欲しいと思います。 工芸品だけでも守って欲しいところです。 なぜ問題になるのか、なぜ問題にするのか そっちの方が興味がありますが、私の興味の対象が人間だからでしょうね。 あ、物理的観測における問題で観測者が観測のため影響を与えてしまい 正確に観測するのは云々ってのも考えの参考になるやもしれません。 原子顕微鏡での光の照射だったと思いますが。 もしくは環世界でしょうかね。 主体の思いが客体に反映される基軸は、理と感が重なるであろう超越まで行けば 別の視点も出てくるやもしれないと言うのが個人的見解です。 今の時代は、今の時代の生き方ってのもあるでしょうけど。

NemurinekoNya
質問者

お礼

☆心の有る無しを議論すること自体、なんででしょうねってのがあると思います。 心の有る無しで優劣を付けたいのか、はたまた扱いを変えたいのか。 ◇この差別化の根底にあるのは、 ユダヤ・クリスチアニズム、プラトニズムがあるのかもしれませんね。 西洋的な考え方ですと、人間は動物と異なる特別な存在であり、 輪廻思想などがある東洋とは、人間観、動物観とは異なっていますので。 これは、MindのOxford Dictionaryの定義に明瞭に示されています。 ☆捕鯨のように何がしか差別化をはかりたい時、考えるのでしょうかね。 鯨より牛の命が軽いと思えないのですが、心や思考を基準に持ち出すと 正当化されてしまいます。 ◇「牛に比べて、鯨は高度な知能、感情を有している」というのは、とってつけた理屈ですよ。 鯨が魚であったら、鯨がいくら高度な知能、感情を有していようが、クリスチャンは捕鯨に反対しないはずです。 捕鯨反対の最大の根拠は旧約聖書の創世記で、人間は地上の(哺乳)動物を管理する権限を神から与えられていますけれど、海に住む哺乳類である鯨やイルカの管理権を神から与えられていない。 ですが、 この論理は、クリスチャンでない野蛮人・日本人に通用しない。  ―――「捕鯨は野蛮な行為である」、「捕鯨をする奴らは、文明人ではなく野蛮人」と、捕鯨反対派のクリスチャンは声高に叫ぶ!!――― 野蛮人である日本人を説得するためには、聖書に基づかない、尤もらしい別な理由が必要なんですよ。 「鯨は知能が高い」というのは、その理由の一つです。 ☆なぜ問題になるのか、なぜ問題にするのか そっちの方が興味がありますが、私の興味の対象が人間だからでしょうね。 ◇多くの日本人の素朴心性としては、 アメーバであろうが、昆虫にも、 霊魂はもちろん、心の存在も何の疑いを持たず認めちゃうんじゃないですか。 ですが、 西洋、そして西洋で生まれた哲学は違う。 ここに一つは端を発していると思います。 回答、ありがとうございました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.12

お礼ありがとうございます。 >☆好ましいか好ましくないかの判断は、反応でも起きるでしょうが >◇「好ましいか好ましくない」に、既に人間的なものが入ってしまっている。 >そして、 >○○が「好ましいか好ましくない」と思うことができるのであれば、 >○○には感情がある、 >と考えるのが自然なんでしょうね。 観察者が人間ですから、それかある意味日本語的な表現だからだと思います。 例えば、虫が何か食べるとすると「この虫が好んで食べるものは・・・」 と言う表現方法を使いますよね。 日常会話の表現の成り立ちが、観察者側にありますから 「適切な」とか「的確な」とかも考えたりしましたが 「虫が自分にとって適切な食べ物を」とか不自然な表現に感じまして。 「好き嫌い」は、それこそ主体の感情判断ですので選びませんでしたが 文章全般が観察者目線で書いていて、そこだけ虫から目線で書くのも 逆に紛らわしさが生じると思っての表現方法です。 ですから、単細胞生物が反応や反射で食物摂取を行ったとしても 思考が有る無しに関わらない表現方法が「好ましいか好ましくないか」に 落ち着いたのです。 生物全体をまとめて表す表現の言葉を選びたかったので。 少々紛らわしい表現だと思いますが、ご勘弁願いたい。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 意地悪するつもりではなく、 心のあるなしなどを議論するとき、「人間以外の生き物に人間をあてはめて考えざるをえないんじゃないか」という問題提起。 人間を基にして類推せざるを得ない。 ついつい人間のようなものと見做して考えてしまう。 見做すといよりも、そうであることを期待してしまう、と言った方が適切なのかもしれませんが…。 実はここに根本的な問題があるのかもしれない。 こんなニュアンス。 回答、ありがとうございました。

noname#221368
noname#221368
回答No.11

 #5です。 >センサーとその制御系であるCPUを有した機械やロボットも「(人間は)自分で自分を即時的に自己モニターする存在」ですよね。であるならば、コンピュータを内蔵した機械は心を持っているのかもしれない(^^ゞ  じつは某brさんとの話とは、人工知能は知性や感情を持つか?という件でした(アンドロイドは電気羊の夢を見るか?、・・・なんちゃって(^^))。 >◇アンドロイドならば、人間とコミュニケーションをとることも可能(・・? >◇SONYのペットロボットAIBOの方が賢いかもしれない。  そうですよね。インコの方が賢いかも・・・(^^;)。  チューリングテストで生物(人間)か機械かを判定できないのは、ほぼわかっている。AIBOの方がバカ犬より、よっぽど人間向きにチューニングされてる気がする。  でも、落ち着きがなくていやしくて,物覚え悪く,でっかいガタイの臆病者で,気ばかり優しい頑固者だったから、バカ犬は可愛かった。純正シベリアンハスキーと北海道犬のハイブリッドは、美人だったし・・・。     ↑    ↑       ↑           ↑   ※バカ犬とバカップルになるバカ飼い主の妄言.それに、雑種って言えよ!  でもAIBOに、「落ち着き度ダイヤル」や「物覚え度ダイヤル」などが付く日はそう遠くはないのでしょうね。そう考えると、 >対象が知能(知性)や感情、心を持っているかどうかは、人がその対象にそれを認めるか認めないか、実はそれだけの問題なのかもしれない。 はとても否定できない。でも、もうちょっと客観的(?)な何かがあって欲しい。ペンローズは、チューリングテストで全く区別できないような完璧な人工知能やエキスパートシステムがあっても、それらは意識を持っていないと言いたいようです。しかしこれも、 >他の存在にこうしたものを認めようとしないのは、人間は他の存在とは異なる特別な存在であるという傲慢のなせる業(わざ)だったりして。 >たぶん、人間の脳と同等の能力を人工知能・AIが獲得しても、ヒトは色々な難癖をつけて、AIに知能の存在を認めないんですよ(^^♪ と言われれば、それまでですね(^^;)。  現状で望みはなさそうですが、結局は、なぜ「自分を感じる」のか?、なぜ「自分は存在する」と思えるのか?、を説明する、誰もが納得するメカニズムや根拠だと思います(我々はどこから来て、どこへ行くのか、・・・なんちゃって(^^))。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆ チューリングテストで生物(人間)か機械かを判定できないのは、ほぼわかっている。 ◇機械、コンピュータは、質問に対して、とんちんかんな回答をすることはあるけれど、スペルミスなどの間違いはしない。 洒落やウィットのある話もしなければ、世間話もしない。 であるならば、 AIやチャットポットに、回答を返すとき、時々、スペルミスやいい間違いをさせちゃえ。 洒落やウィットのある話を回答を混ぜちゃえ。 こうした機能を付与すると、 チューリングテストでヒトは簡単に騙せるものらしい。 コンピュータを人間だと思ってしまうらしい。 バカであること、間違いをおかすことが、生き物に《生き物らしさ》を与えているのかもしれない(^^ゞ あと、往生際の悪さが必要なんでしょう。 将棋ソフトの開発者などの話によりますと、 現在の将棋ソフトは、 形勢が悪くなった時にプロ棋士が放つ相手の間違いを誘い出し、その結果形勢を逆転させるような勝負手を打つことができない、 らしいですね。 また、形勢判断がハッキリとしない泥沼状態に持ち込むこともできない、らしいですね。 でも、まぁ~、そのような勝負手やハメ手を打たなくても、あと数年すれば、プロのトップ棋士は将棋のコンピュータソフトにまったく勝てなくなるんでしょうね。 将棋連盟もこのことを察したらしく、  将棋  電王戦FINAL http://ex.nicovideo.jp/denou/final/ だそうで、 これ以降、 プロ棋士は将棋のコンピュータソフトと対局しなくなる。 今年の電王戦(五番勝負)は、コンピュータの4勝1敗でしたからね~。 「たぶん、人間の脳と同等の能力を人工知能・AIが獲得しても、ヒトは色々な難癖をつけて、AIに知能の存在を認めないんですよ」 と同じように、 色々な難癖をつけては、 「タイトルホルダーを含むプロのトップ棋士の方がコンピュータよりも強い(はずだ)」 と主張したいらしい。 であるならば、 このことを明らかにするために、対戦メンバーにタイトルホルダーを含むA級棋士を出せばいいのに(^^♪ 回答、ありがとうございました。

回答No.10

 No.9を承けます。  ◇ (No.7補足欄) 素朴な感情、考えとして、その違いは認めつつも、人間とインコを分けて考える必要はない、 / と思いますね。  ☆ 《その違いを認めつつ》ということでしたら 《気持ちとしては》インコとのあいだの分け隔てを取り払うということではないのでしょうか?   《愛嬌》の問題であるように思うのですがねぇ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

人間以外のものに心があるかどうかの判断は、 現象的なもの、人間の行動などの類似性などに基づく主観的なものにならざるを得ないのでしょうね。 動物の脳波や脳の活性領域などの物理的現象などを根拠に心や知能の有無を議論しても、最終的には、ここに帰着してしまう。 難しいですよね。 回答、ありがとうございました。

NemurinekoNya
質問者

補足

心 = Mind とすると、 ~~~~~ The element of a person that enables them to be aware of the world and their experiences, to think, and to feel; the faculty of consciousness and thought: http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/mind ~~~~~ ですから、 「動物に心(Mind)が存在する」という質問が成立しないのか…。

回答No.9

 こんばんは。  ◇ (No.7補足欄) こうなると、知性やもちろん、知能や感情をセキセイインコに認めないわけにはいかないでしょう。  ☆ そのとおりですよ。《イヌみたいなインコ》という題名そのものです。  ただし  ◇ (同上・承前) 素朴な感情、考えとして、その違いは認めつつも、人間とインコを分けて考える必要はない、 / と思いますね。  ☆ ということにはならないでしょうね。  子どもとして育ってきたら 学校へ上がり教室でみんなと一緒にまなぶ。運動場でやはり一緒に駆けっこをする。・・・というようになったら(そうなれると思えたら) そのときには《もう人間とインコとを分けて考える必要はない》と確かになります。  そういうことではないのでしょうか?   人間における知覚や知性の片鱗としてでも同じようなハタラキを持ってそれを発揮している。ということと 人間との間で隔てが取れる(なくなる)こととは 別だと思います。だって 見え見えぢゃないですか。

NemurinekoNya
質問者

お礼

~~~~~  子どもとして育ってきたら 学校へ上がり教室でみんなと一緒にまなぶ。運動場でやはり一緒に駆けっこをする。・・・というようになったら(そうなれると思えたら) そのときには《もう人間とインコとを分けて考える必要はない》と確かになります。  そういうことではないのでしょうか?  ~~~~~ セキセイインコの種の限界はありますよ。 ですから、「違いの存在を認めつつ」です。 人間でさえ、先天的な理由から、すべての人が 「子どもとして育ってきたら 学校へ上がり教室でみんなと一緒にまなぶ。運動場でやはり一緒に駆けっこをする」 をできるわけでもありませんし。 まして、相手は人間と種を異にするセキセイインコです、できることとできないことがあります。 人間に空を飛べと言っても、鳥のように空を飛べないのと同じことですよ。

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