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老子:第七九章 《天道は親無く》は阿呆の思想か?
《天はえこひいきしない》という意味だそうですが 果たして何を言っているのでしょう? ▼ (龍青三 オフィシャルサイト::老子:第七十九章任契) http://ryuseizan.tsuvasa.com/845 ▽ 白文 / 読み下し文 ------------------------ 和大怨。必有餘怨。 大怨を和するも、必ず余怨有り。 安可以爲善。 安んぞ以て善と為すべけんや。 是以聖人。執左契。 是を以て聖人は、左契を執りて 而不責於人。 人に責めず。 有徳司契。 徳有る者は契を司り、 無徳司徹。 徳無き者は徹を司る。 天道無親。常與善人。 天道は親無く、常に善人に与す。 ▽ 現代語訳 -------------------------------- 深く結ばれた怨みをいくら和解させても、 必ずそのあとにしこりが残る。 それでは本当に善処したとはいえず、 はじめから怨みを結ばぬことこそ肝心だ。 だから無為の聖人は、 割符の左半分だけを握って、 他人にせっかりな督促をしない。 諺にもいうように、 徳の有る者は手形で決済し、 徳の無い者は現物で取り立てる、のだ。 天の理法にえこひいきはなく、 長い目で見れば、いつも善人に味方している。 ※朝日選書:老子(福永光司)より引用 --------------------------------------- (あ) 《しこりが残る》ことと《怨みの痕跡として――じつは和解が成って けれども――痣やシミソバカスが残る》こと これらは互いに 別であるはずだ。 後者は 理解できるが 前者は 言い切った命題としては みとめたくない。 (い) 《はじめから怨みを結ばぬことこそ肝心だ。》――理由を述べるまでもなく こんな阿呆な議論はない。怨みを買ったところ(あるいは 怨みを持ったとき)から問題は始まる。 例の国民でさえ《千年経てば 和解出来る》と言っているではないか。 (う) ▽ ~~~~~~~~~~ だから無為の聖人は、 割符の左半分だけを握って、 他人にせっかり(せっかち)な督促をしない。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 督促をしないのなら それでよいと思われるけれど・そしてその判断と行為とは 初めにおける《深い怨みは 和解させ切ることは出来ない》という命題に合っているけれど それでよいのか? そういう答えしかないのだろうか? (え) ▽ ~~~~~~~~~~~~ 天の理法にえこひいきはなく、 長い目で見れば、いつも善人に味方している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんな予定調和のごとき命題で 果たして有効な思想でありうるか? (お) (え)につづいてですが これを裏返せば 《天もえこひいきをしているのではないかと疑わせるような出来事が世の中には多い》と確かに言っているはずである。その疑いについて出した答えとしては あまりにも安易である。せいぜい気休めになるくらいであって ほかに意味はない。と言わねばならない。 (か) 老子とは――この一章を見ると――いかに阿呆な思想であるかと感じたのですが 果たしてどうなっていましょうか?
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B様、こんばんは。 >「(か) 老子とは――この一章を見ると――いかに阿呆な思想であるかと感じたのですが 果たしてどうなっていましょうか?」 そうですね。 「「無為自然」で、「天」を敬う」となると、そうですか。 これが「荘子」となると、もっと徹底して「自由奔放」という感じがします。
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- kurinal
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B様、こんばんは。 >「ただし《善》は このように断定してつくる命題を表わしたとしても いかほどのことに成るとは思えません。」 (笑)
お礼
wwww.
- kurinal
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こんばんは。 >「長い目で見れば、いつも善人に味方している。」 ただ「善」という理解が、難しいですね。 (おそらく、民主的でない価値観)
お礼
ご回答をありがとうございます。 主観の問題だというかたちを押し通すならば 《民主的でない価値観》であっても そのそれぞれの人の主観をとうとぶのが むしろ民主的だということになります。 ただし《善》は このように断定してつくる命題を表わしたとしても いかほどのことに成るとは思えません。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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商店街の小さな店を切り盛りする俺様の商売の知恵だがね。 明朗な現金決済の上。 お互いの心の結びつきを信用として手形で発行するのだ。 金にはいさぎ良い方がいい。 信用を積み増してその貸し借りを大切にするのだ。 こんなのや、あんたの引用したありがたい知恵は、人生訓だよ。 哲学では、とるにたらない理解しやすい例え話であるが、言いたかったことを結論づけるのは古代中国の世相を研究してからだろう。 社会生活という人工的な世の中では、普遍性があって今でも理解可能だよ。 自然科学が流行っている西洋の哲学では、特に自然界の掟という訳ではない。 自然と、神をいただく人間社会と、どのように調和させる哲学を編み出すかだ。 君か神不在の社会というありえない事柄に取り組んだことがあるか。 それを告発するなら、ライダーキック以外にありえない。 死ね。 それだけだ。
お礼
★ 哲学では、とるにたらない理解しやすい例え話であるが、言いたかったことを結論づけるのは古代中国の世相を研究してからだろう。 ☆ ははああ。そうですか。これは 知らなんだ。・・・ ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 明朗な現金決済の上。 お互いの心の結びつきを信用として手形で発行するのだ。 金にはいさぎ良い方がいい。 信用を積み増してその貸し借りを大切にするのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに。 あとは分からん。
- roureiJinn
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こうしたことには疎いのですが、たまたまこの質問をみて、その内容に関心を持ち、いくつかのサイトを眺めたものの感想を書きます。 みたサイト (a) http://fukushima-net.com/sites/meigen/1010 (b) http://books.google.co.jp/books?id=ZaZ1zIwQEaIC&pg=PA251&lpg=PA251&dq=%E7%AC%AC%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%B9%9D%E7%AB%A0%E4%BB%BB%E5%A5%91&source=bl&ots=ItwcTXpRGu&sig=6ZYZ7D00pN1sCm4u5pCJcfdfBJ4&hl=ja&sa=X&ei=BGJAVPqPFcXguQT494CQCw&ved=0CCkQ6AEwAg#v=onepage&q=%E7%AC%AC%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%B9%9D%E7%AB%A0%E4%BB%BB%E5%A5%91&f=false (c) http://homepage2.nifty.com/joze/new_tao/new_tao_toku/new_tao79.htm このうち(a)が、私にとって参考にしたものです。 (5) 天道無親。常與善人 : これが結語だとすると、 (1) 和大怨。必有餘怨。 (2) 安可以爲善。 (3) 是以聖人。執左契。而不責於人。 (4) 有徳司契。無徳司徹。 (1)(2)と、(3)(4)とは、(5)の結語を述べるための前置き、前振りなのでしょう。 (5)の「天道無親」は、天は相手別の親疎の区分・分け隔てはしない。 「常與善人」は、天は相手と自分(天)との親疎で態度を変えたりせず、善い(行いを常日頃からしている)人と常に与する と理解できないでしょうか。 そのように理解するならば、(1)(2)は、大怨を後に和らげてもまだ何かしらのこだわりが残りその相手に対して虚心坦懐でないようなのは善くないということと理解できるかもしれません。 (3)(4)は、契約書を片手に返済してくれるのを待つ有徳の債権者も、徹(周代の税法・十分の一税)を情けなく取り立てる無徳の官吏も、相手の属性(自分との関係の親疎)では差別的取扱をしないという面から見れば、同様に「天道」を行うものであると理解できそうに思えます。 ~~~ ~~~ ~~~ ~~~ (あ)《しこりが残る》ことと《怨みの痕跡として――じつは和解が成ってるけれども――痣やシミソバカスが残る》こと。これらは互いに別であるはずだ。後者は理解できるが、前者は言い切った命題としてはみとめたくない。 ⇒ 言い争いなどの和解・合意・妥協とは関係がなくて、大きな怨恨の気持ちを自分で納める・和らげるということのように思いました。和らげてしまったので「大怨」はなくなったが、残り火・埋み火のような気持ちが残っていて、相手を見てしまうという状態のことを対人関係での問題点・偏見や親疎の気分の元としてマズイものとして例に出しているように思います。 ~~~ ~~~ ~~~ ~~~ (い)《はじめから怨みを結ばぬことこそ肝心だ。》――理由を述べるまでもなくこんな阿呆な議論はない。怨みを買ったところ(あるいは怨みを持ったとき)から問題は始まる。 ⇒ そりゃ質問者さんの個人的スタンスです。相手に怨みを起こさせないと問題を始められないということはないと私は思います。恋愛でも、親子でも、他人と協力して何かを始め達成に向けて進んでいくのでも、怨みを買う・怨みを持つことがなくても、出来ることは多いです。 なお、(1)~(5)には、《はじめから怨みを結ばぬことこそ肝心だ》という理解よりも、《恨みでも、溺愛でも、相手につよく想い入れしてしまうとマズイ。それでは天道無親にならない》という理解の方がストレートのように思います。 ~~~ ~~~ ~~~ ~~~ (う)(1)(2)の命題と、(3)(4)の命題は、???? ⇒ 一人の人物の書いた僅か数行の章として長期に多くの人々が伝えてきたものであれば、整合した理解が可能な文章なのだろうと推定するところから始めます。 突然に借用の返済を待つ有徳の官吏と情け容赦なく税を取り立てる無徳の官吏とが出て来るのですから、普通ならば怨恨を抑える心を和らげることと不連続と思えてしまいます。 整合した理解が可能な文章なのだろうと推定するところから始め、次には(5)の結語になるのだから、何かの《転》があるがそれは、有徳も無徳も、契約書を持てば返済期限まで静かに待つのも、期日どおりにばっちりと税を収納するのも、親疎で扱いを変えることない、天道そのものと話は繋がっていくのではないでしょうか。 ~~~ ~~~ ~~~ ~~~ (え)▽天の理法にえこひいきはなく、長い目で見れば、いつも善人に味方している△ ☆ こんな予定調和のごとき命題で果たして有効な思想でありうるか? ⇒ 上善は水の如しという言葉があり、それで考えると常與善人は、特定の人に肩入れしないということじゃないかと思います。 善人というラベルをつけた人の味方をしたら、天ではなくなっちゃうようです。 予定調和を述べたりはしてないと思います。 善人に天が味方するという説明をする人も多いのかもしれません。 ただ、79章任契の善は、相手に含むところがない・愛憎共に持たない・肩入れもしないしハンディを付与したりもしないし最初から減点扱いにもしないということでしかないように思います。 有効な思想なのかというのは、どこで有効・効力が少ないと判断するのかがわかりませんが、老子などに依拠しなくても、個人の過去の経歴、身体的特徴や係累などの属性や自分や自分のグループとの親疎で、是非を判断するなという思想はありますし、さほど珍しいものではないです。 実行はなかなか難しいですが、大事なポイントをついた思想だと思います。 自分との利害対立、特に感情的対立や怨恨を持ったりしていると、判断が間違うし、結果として良くないことを起こすことは多いので、《天には親疎の分け隔て取扱はない。悪意や敵意、害意を持つ者と与するのではなくて、また、異常に親近愛情を注ぐものと与するのも佳くない、善人(平穏で水が流れるような心情で生きる者)と与せ》という思想なら、わかる気がします。 ~~~ ~~~ ~~~ ~~~ (お)これを裏返せば《天もえこひいきをしているのではないかと疑わせるような出来事が世の中には多い》と確かに言っているはずである。その疑いについて出した答えとしては あまりにも安易である。せいぜい気休めになるくらいであって、ほかに意味はない。 ⇒ 天はえこひいきするという解釈をする人もいます。 http://www.roushiweb.com/category1/entry118.html また、事実として、過去も、現在も、中国でも、ローマや、スペインでも、日本でも、アメリカやドイツでも強いものが隆盛さをまし続けるという事実は山のようにあります。歴史はそうしたものが連綿と続いていると考えて不思議ないです。 老子が見聞きしたものもそうした現実が山のようでしょう。 でも、おそらく、天はえこひいきしているのではないのでしょう。 天は誰かの支援や介助に継続的に力を貸すようなことはしないのだというのが大原則なのでしょう。 天は弱いものの味方もしないし、正義の味方もしない、善人にも肩入れしないという「よそからの支援を求める人には」ある意味厳しい思想を説いているのだと思います。必要なのは自分を律し自立すること、他人におもねったり、他人を排斥することなく、自然に和して、多くの人と協力し生きることなのでしょう。 ~~~ ~~~ ~~~ ~~~ (か)老子とは――この一章を見ると――いかに阿呆な思想であるかと感じたのですが 果たしてどうなっていましょうか? ⇒ この質問に関心を持ってちょっと眺めただけですので、まともに意見を出せるものじゃないですが、アホな思想、くだごととは思えませんでした。 心理学の対人感情などによる認識の歪み、自尊感情、依存心が強くなる場合の弊害などの説明と、かなり符合する納得がいく思想であるように感じました。
お礼
ろうれいじんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 反論してまいります。 ★ そのように理解するならば、(1)(2)は、大怨を後に和らげてもまだ何かしらのこだわりが残りその相手に対して虚心坦懐でないようなのは善くないということと理解できるかもしれません。 ☆ 《こだわり》とは何か? を詳しく問わねばならないと思います。つまり 《しこりが残る》というのは わだかまり・もしくは心の傷そのものを言い 《シミソバカスが残る》というのは 傷跡を言うとそれぞれ考えられるからです。 こだわりとは どちらでしょう? 《虚心坦懐》に成れるかどうか? これは 問題の主要な位置に来ないのではないでしょうか。 なぜなら その《怨み》についての原因が何か? ここに主要な問題があると言わざるを得ないでしょう。 当事者たちそれぞれの事情やその後の経過やなどなどを加味して その事態の分析・検証のほうが 先決問題である。こう考えます。 ★ (3)(4)は、契約書を片手に返済してくれるのを待つ有徳の債権者も、徹(周代の税法・十分の一税)を情けなく取り立てる無徳の官吏も、相手の属性(自分との関係の親疎)では差別的取扱をしないという面から見れば、同様に「天道」を行うものであると理解できそうに思えます。 ☆ だとすれば 《聖人・有徳者・無徳者》の三者――もしくは聖人=有徳者であるかも知れませんときには 二者――のあいだに 基本的に言って倫理や人間性にかんする違いは無いという意味でしょうか? 《聖人》は 《無為・ないし無為自然》という行為形式をすると言われていますが 聖人でなくても《債権者としての振る舞いにおいて 相手に対する扱い方にえこひいきがないならば 無徳の人でも 大道にふさわしいおこないをしている》という意味になるのでしょうか? けれども 考えてみるに そのような債権者としての振る舞いは エコヒイキの問題を持ち出すまでもなく 契約にもとづいて公正に債権者としての行為をおこなっただけであるのではないのでしょうか? もっと言えば 債権者が その相手に応じて自由にその取り立てを加減したり 債務を免除したりしても 何ら咎めを受けるようなことではないはずなのですが 老子はいちいちそういうことに倫理規範のようなものを考えておいたということでしょうか? 《要らない》のではないでしょうか? ★ ⇒ 言い争いなどの和解・合意・妥協とは関係がなくて、大きな怨恨の気持ちを自分で納める・和らげるということのように思いました。 ☆ これでは 問題のありかがあいまいなままではないですか? 《気持ち》の問題よりも 《怨み》の内容・とくにその原因について当事者双方とも しっかりとした事実認識が必要なのでは? そうすれば おのづから解決策は現われて来ます。 それでも気持ちが治まらないという人は その人がわるいのです。他人がどうにかしてやろうとしても それは無理です。 ★ 和らげてしまったので「大怨」はなくなったが、残り火・埋み火のような気持ちが残っていて、相手を見てしまうという状態のことを対人関係での問題点・偏見や親疎の気分の元としてマズイものとして例に出しているように思います。 ☆ ですからその《残り火・埋め火のような気持ち》とは 《傷そのもの》なのか? それともすでに傷は癒えていて ただその傷跡が残っているだけなのか? です。 傷そのものが残るという命題は みとめたくありません。 ☆☆ 怨みを買ったところ(あるいは怨みを持ったとき)から問題は始まる。 ★ 相手に怨みを起こさせないと問題を始められないということはないと私は思います。 ☆ 誤解であり曲解です。 ★ 《恨みでも、溺愛でも、相手につよく想い入れしてしまうとマズイ。それでは天道無親にならない》という理解 ☆ その命題の中身は あたりまえのことです。ほぼ同語反復です。《つよい思い入れ》≒《えこひいき》ですから。 ★ 借用の返済を待つ有徳の官吏と情け容赦なく税を取り立てる無徳の官吏と ☆ これは 誤読です。 ■ ~~~~~~~~~~~~~~ 有徳司契。無徳司徹。 / 徳有る者は契を司り、徳無き者は徹を司る。 惠深い人は割符の管理者、薄情な者は税の取り立て人と言われる □ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ だから聖人は、常に貸方にまわって割符の半分を握ってはいるが、 取り立てたりはしないのだ。 徳の有るものは、契約書の作成にたずさわり、 徳の無いものは、税金の取り立てにたずさわる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《情け容赦なく》や《薄情な者》という翻訳は たぶんマチガイでしょう。契約にしたがって取り立てるだけのことを言っているはずです。 ★ 有徳も無徳も、契約書を持てば返済期限まで静かに待つのも、期日どおりにばっちりと税を収納するのも、親疎で扱いを変えることない、天道そのものと話は繋がっていくのではないでしょうか。 ☆ つながらないのに勝手に 何をあやまってなのか つなげようとしている。に過ぎないのと違いますか? 親疎で扱いを自由に変えても 契約の履行をうながす(または 免除してやる)ことに 何の咎も生じません。 ★ ⇒ 上善は水の如しという言葉があり、それで考えると常與善人は、特定の人に肩入れしないということじゃないかと思います。 善人というラベルをつけた人の味方をしたら、天ではなくなっちゃうようです。 予定調和を述べたりはしてないと思います。 ☆ いえ。そうは解釈できません。《上善》というようにすでに善悪の価値判断を交えています。結果的にそうなるにしろ 同じことです。予定調和と言わずして 何と言いましょうか。子供だましです。天・道・大道と言うのも 同じことです。至高の善といった価値判断を交えていましょう。 ★ ただ、79章任契の善は、相手に含むところがない・愛憎共に持たない・肩入れもしないしハンディを付与したりもしないし最初から減点扱いにもしないということでしかないように思います。 ☆ それは 《善》でなくても・つまり言わば中立であっても そうであり得ます。つまり契約の内容に従うという行為を言います。《含むところがある》場合にしても そういう心の中の問題におさまるはずですから 契約どおりに行為するなら それは 価値中立のふつうの社会行為です。 《一章》としてまとまった文章について何とか全体として辻褄を合わせようと解釈されていることは分かりますが 無理は無理です。 ★ 有効な思想なのかというのは、どこで有効・効力が少ないと判断するのかがわかりませんが、 ☆ 子どもに 大きくなれば分かるようになるから〔いまは疑問を保留して 親や世間に従いなさい〕というのと同じであり けっして有効だとは思えません。意味がありません。 ★ 老子などに依拠しなくても、個人の過去の経歴、身体的特徴や係累などの属性や自分や自分のグループとの親疎で、是非を判断するなという思想はありますし、さほど珍しいものではないです。 ☆ それは 人事で優遇するとか 報酬をやはり優遇するとか 一般の規則から離れて《勝手に》執り行う措置のことです。ここは 契約どおりの行為が扱われています。 ★ 実行はなかなか難しいですが、大事なポイントをついた思想だと思います。 ☆ ですから どこがですか? ★ 自分との利害対立、特に感情的対立や怨恨を持ったりしていると、判断が間違うし、結果として良くないことを起こすことは多いので、《天には親疎の分け隔て取扱はない。悪意や敵意、害意を持つ者と与するのではなくて、また、異常に親近愛情を注ぐものと与するのも佳くない、善人(平穏で水が流れるような心情で生きる者)と与せ》という思想なら、わかる気がします。 ☆ ですから (3) 是以聖人。執左契。而不責於人。 (4) 有徳司契。無徳司徹。 これら《聖人・有徳・無徳》の三者のあいだに 不法行為といった問題はないのです。ここでは。すべて契約どおりに――もしくは時には債務者の有利にのみ自由裁量をはたらかせて―― ふるまう場合なのです。 この場合にかんするかぎりで 《大きな怨み》が生じる余地はないのです。 問題のすり替えがあります。 ★ ⇒ 天はえこひいきするという解釈をする人もいます。 ◆ 天界のやり方とは完全に公平であり、だからこそ天は常に善人にえこひいきをするのである。 ☆ こういう判断は けっきょくどこまで行っても正解は出ない。そのことをよいことにして 判断を言い切ってしまっておこうという魂胆。この悪しき無限判断について 質問者は怒っているのです。 ★ でも、おそらく、天はえこひいきしているのではないのでしょう。 天は誰かの支援や介助に継続的に力を貸すようなことはしないのだというのが大原則なのでしょう。 ☆ これが 悪しき無限判断であり 子供だましであると言っています。そう語るのは自由ですが 思想としては無効です。 ★ 天は弱いものの味方もしないし、正義の味方もしない、善人にも肩入れしないという「よそからの支援を求める人には」ある意味厳しい思想を説いているのだと思います。必要なのは自分を律し自立すること、他人におもねったり、他人を排斥することなく、自然に和して、多くの人と協力し生きることなのでしょう。 ☆ 無難なところを言ったに過ぎません。
- kurinal
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>「文章を出してもらえませんか?」 荘子、ですか? 「極北の、巨大な魚」 ・・・こんな感じですか(滝汗
お礼
ありがとうございました。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
>「《自由奔放になる》というのは 《天をうやまう》ことが自由で奔放なのですね。」 「「自由奔放」を認めることが、天に対する畏敬」でしょうね。
お礼
文章を出してもらえませんか?
お礼
そうですか。 この第79章の内容で《天を敬う》としてもそれは 大した内容を成すとは思えません。 《自由奔放になる》というのは 《天をうやまう》ことが自由で奔放なのですね。 分かったような分からないような。・・・ ご回答をありがとうございます。