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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:偶然と必然と。 偶然はあるの?)

偶然と必然、あるべき答えは?

このQ&Aのポイント
  • 偶然と必然の違いについて考えてみます。偶然とは何か、必然とは何か、その定義や意味を探ります。
  • 偶然と必然を分ける要素は、因果関係の有無と予測可能性の有無だと言われています。しかし、現実世界には因果関係の複雑さや情報の不足により、予測ができない現象が存在する可能性もあります。
  • 人間が感じる世界の現象には偶然が存在するのか、それとも偶然と感じているだけなのか、疑問を持ちながらも答えは明確ではありません。私たちはまだ知識や情報が限られており、完全な予測ができないため、偶然と感じることが多いのかもしれません。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.45

 回答が多すぎてすべて把握できていないのですが、自分の勝手な意見を述べます。  まず第一に、我々は物事の「因果関係」を判断するうえで「時間軸」というのもを避け実測することが不可能という点があります。ただ、残念ながらこの時間というものの様々な解釈はされていますが、結局のこところ実態ははっきりとはわかっていません。あえて言うなら多次元ワールドだとか、重ね合わせで存在するとか色々な例がありますが、いずれにせよすべての条件を全く同じ状態である現象を再現することは不可能である以上、極論を言えばすべての現象に関するすべての要素の影響が皆無として必然性を示すことは不可能、ということになります。ゆえに必然といえる現象はすべて「偶然」であるとしか言えません。これが最も顕著な例を挙げれば人間の発生とか生命現象の基本原理の有無とかそういうものになるでしょう。だから、一般的には、還元的にAというものとBというものが起こればCが言える、というこが一定回数似たような条件下(すくなくとも”無視”できるとする条件下で)、それが統計学的な”偶然性”をも超えた意義があときにその因果関係が結ばれるわけです。と、当然それに対して常に観測さえればそれはAとBがある状態ではCがおこる”ハズ”となります。が、これはあくまで「思考上」の存在定義ですので、完全な直角とか、完全な球が存在するかしないかという議論と同程度の議論になるでしょう。  因果関係を議論するうえで、必然を問うのに重要になるのは基本的な物理学的な原理、たとえばエネルギー保存則とあ、あるいは情報理論などの情報量の概念にもなると思います。どんなに複雑な変化であってもはじめとその後の変化が境界において満たされるはずというのは、”概念”ですが、それをさかのぼればこういう変化が「必然的に起こる」としてもよいといえるでしょう。同様にいえば、生物が受精卵から個体までを形成するのだって、明らかな異常が起きない限り多くの場合は体が自己組織化していく様子は今の地球の環境下では「必然」の変化と言っていいかもしれませんが、その構成要素のなにが必然なのかというのを定義するのは難しいですし、それまでには多くのノイズが含まれています。ただ、情報量の考え方をするならば個体が大人になるまでに「情報」というものが規定できるはずで、それを具体的には言わなくてもある一定の範囲の環境要因が満たされればその個体はある一定の範囲内での個体までを形成する「必然性」を持っているということが言えるでしょうし、偶然とは言い切れないでしょう。 >この世に因果関係と無縁に存在するものはあるのだろうか?  ある現象が発生するための因果関係があまりに複雑で、また、同時に、我々の得られる情報があまりに少な く、その現象の発生を予見できないものを、  単に偶然と呼んでいるのに過ぎないのではないか?  世の中におこるすべてのものは因果関係があるはずということが真であるとして、偶然であっても予測可能かどうかを議論することはいわゆる「複雑系」という分野として一部取り上げられています。ただし、現実的にこれが何か大発見につながったのかどうかというと、まだ未発達な部分も多いので、結局限定された”何か”を一定の範囲内で示唆させるようなデータをとったに過ぎないような分野とも思います。が、コンピュータの技術が上昇すればより複雑なことができて、あらゆるノイジーな影響というものがひょうか可能かもしれませんね。  

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 自然科学は因果律を前提として構成されていますので、宿命的にこの因果律から抜け出せない。 そういう理論構成ですから。 回答、ありがとうございました。

その他の回答 (49)

回答No.39

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.38

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.37

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.36

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.35

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.34

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.33

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.32

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.31

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.30

 こんばんは。  ◇(No.27お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしは親鸞の思想が、老荘以後、数百年経って成立した現在の道教と同じだとは言っていませんよ。  親鸞の思想形成に『老子』や『荘子』が深く関わっている可能性がある、と指摘しているだけですよ。  《自然(じねん)》という言葉やその概念が生まれたのは、中国ですし。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いいえ。《可能性がある》という表現では効きません。マチガイです。次の発言では 《源流 根底にある》ということのようです。つまり 親鸞は 道教のパクリであると言ったも同然です。神道にかんしても 《道教(老荘)を母胎の一つとして生まれた》ということのようです。  ◇◇ (【Q:穢(けが)れとは何か】No.48お礼欄) ~~~~~~~~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8764727.html   ☆☆(回答No.48) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     すくわれるとか何とか そんなことはどうでもよい。   というのが 親鸞です。これが 神ながらの道だ。と大拙は言おうとしているようです。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    親鸞のこうした考え方の源流、根底にあるのは、老荘ですよ。  http://crf.flib.u-fukui.ac.jp/dspace/bitstream/10461/3962/1/KJ00000198126.pdf  http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/51809073.html  http://ameblo.jp/sonosuji/entry-11473895103.html  そして、  神道が道教(老荘)を母胎の一つとして生まれたことに帰着します。  老荘を日本的霊性とは呼べないでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 最後の発言:《老荘を日本的霊性とは呼べないでしょう。》は 日本的霊性のすべては 老荘に発すると言ったも同然となっています。いまのところ 何の論証もありません。ことごとくと言ってよいほど 批判し反駁しました。  あるいはほかに 縄文時代にすでに入って来て そのまま――何の素地もない日本の地で――受け容れられて行ったとの発言もありました。  すべて そう言われている。というのが 根拠であるに過ぎません。そう見る人が多いという根拠のみです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆☆ こういうハカラヒとは無縁です。親鸞は。百八十度ちがいます。   ◇ 親鸞においても、ハカラヒ(分別)を捨てるわけですよね。   それほど違わないと思いますが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 大違いです。  《ハカラヒ(分別)を捨てる》なら それはひとつの意志行為としてハカラヒです。  ハカラヒを捨てるハカラヒをまた捨てる そしてそれをもまた捨てる・・・といった悪無限に落ち入ってはいられないのですから そこが 天下分け目の合戦になります。  《非知》に到達したのです 親鸞は。  ですから 老荘思想にこの《非知 ないし これをわが心に受け容れたときには 非思考の庭》なる内容はありますか? こう問うのが いちばん手っ取り早い筋道でしょう。  義無きを義とすというのは 正義や善やなどのイデアの欠如をもって義とするというのではなく そうではなく 諸行無常で正義も善も思いやりも皆無だと言う人がいたなら その義無きをもって義としましょうと答えています。  意味は 詮議詮索するのはよしましょうです。あるいは 詮議詮索するのも よしとしつつただしその結果得られる答えによって 最終の答えを決めるというものでもないですよと。  思考――をしてもかまいませんが 基本的に言って思考――としての義も無いかたちで よしとしましょうと言っています。  つまり 非思考の庭です。これが ハカラヒ無き自然法爾です。  無為自然が そう言っているのなら こちらの降参です。  なお 上に再掲したように そちらが 道教(老荘思想)についてそれは 神道および親鸞のアンチョコであり虎の巻だという命題を提出したのですから・そしてこちらが それに反論しているのですから(しかも この反論は いまのところおおむね功を奏しています) 森三樹三郎だかかんだかが参考になるとかどうとかといって答えるのは はなはだ道理に合いません。  勝手にしらべろ おれの言うことはただしいに決まっていると腹の中でつぶやいているとしか 聞こえませんよ。  それか 自分では答えられないかです。いづれにしても みっともないです。  議論にけじめをつけるべきです。  無為自然についてくわしく調べるということであれば いまは保留してそうすればよいのではないですか?

NemurinekoNya
質問者

お礼

『荘子』内篇 万物齋同に ~~~~~~ 「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」 「そんなものは知らぬ」 「では、わからないということだけはご存知なのですね」 「それもわからぬ」 「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」 「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」 岸陽子 『荘子』 徳間書店 ~~~~~~ とありますよ。 bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか? また、 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 bragelonneさんの考えとは違うのではないですか? http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99 回答、ありがとうございました。