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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:偶然と必然と。 偶然はあるの?)

偶然と必然、あるべき答えは?

このQ&Aのポイント
  • 偶然と必然の違いについて考えてみます。偶然とは何か、必然とは何か、その定義や意味を探ります。
  • 偶然と必然を分ける要素は、因果関係の有無と予測可能性の有無だと言われています。しかし、現実世界には因果関係の複雑さや情報の不足により、予測ができない現象が存在する可能性もあります。
  • 人間が感じる世界の現象には偶然が存在するのか、それとも偶然と感じているだけなのか、疑問を持ちながらも答えは明確ではありません。私たちはまだ知識や情報が限られており、完全な予測ができないため、偶然と感じることが多いのかもしれません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • larme001
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回答No.45

 回答が多すぎてすべて把握できていないのですが、自分の勝手な意見を述べます。  まず第一に、我々は物事の「因果関係」を判断するうえで「時間軸」というのもを避け実測することが不可能という点があります。ただ、残念ながらこの時間というものの様々な解釈はされていますが、結局のこところ実態ははっきりとはわかっていません。あえて言うなら多次元ワールドだとか、重ね合わせで存在するとか色々な例がありますが、いずれにせよすべての条件を全く同じ状態である現象を再現することは不可能である以上、極論を言えばすべての現象に関するすべての要素の影響が皆無として必然性を示すことは不可能、ということになります。ゆえに必然といえる現象はすべて「偶然」であるとしか言えません。これが最も顕著な例を挙げれば人間の発生とか生命現象の基本原理の有無とかそういうものになるでしょう。だから、一般的には、還元的にAというものとBというものが起こればCが言える、というこが一定回数似たような条件下(すくなくとも”無視”できるとする条件下で)、それが統計学的な”偶然性”をも超えた意義があときにその因果関係が結ばれるわけです。と、当然それに対して常に観測さえればそれはAとBがある状態ではCがおこる”ハズ”となります。が、これはあくまで「思考上」の存在定義ですので、完全な直角とか、完全な球が存在するかしないかという議論と同程度の議論になるでしょう。  因果関係を議論するうえで、必然を問うのに重要になるのは基本的な物理学的な原理、たとえばエネルギー保存則とあ、あるいは情報理論などの情報量の概念にもなると思います。どんなに複雑な変化であってもはじめとその後の変化が境界において満たされるはずというのは、”概念”ですが、それをさかのぼればこういう変化が「必然的に起こる」としてもよいといえるでしょう。同様にいえば、生物が受精卵から個体までを形成するのだって、明らかな異常が起きない限り多くの場合は体が自己組織化していく様子は今の地球の環境下では「必然」の変化と言っていいかもしれませんが、その構成要素のなにが必然なのかというのを定義するのは難しいですし、それまでには多くのノイズが含まれています。ただ、情報量の考え方をするならば個体が大人になるまでに「情報」というものが規定できるはずで、それを具体的には言わなくてもある一定の範囲の環境要因が満たされればその個体はある一定の範囲内での個体までを形成する「必然性」を持っているということが言えるでしょうし、偶然とは言い切れないでしょう。 >この世に因果関係と無縁に存在するものはあるのだろうか?  ある現象が発生するための因果関係があまりに複雑で、また、同時に、我々の得られる情報があまりに少な く、その現象の発生を予見できないものを、  単に偶然と呼んでいるのに過ぎないのではないか?  世の中におこるすべてのものは因果関係があるはずということが真であるとして、偶然であっても予測可能かどうかを議論することはいわゆる「複雑系」という分野として一部取り上げられています。ただし、現実的にこれが何か大発見につながったのかどうかというと、まだ未発達な部分も多いので、結局限定された”何か”を一定の範囲内で示唆させるようなデータをとったに過ぎないような分野とも思います。が、コンピュータの技術が上昇すればより複雑なことができて、あらゆるノイジーな影響というものがひょうか可能かもしれませんね。  

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 自然科学は因果律を前提として構成されていますので、宿命的にこの因果律から抜け出せない。 そういう理論構成ですから。 回答、ありがとうございました。

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その他の回答 (49)

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.29

お礼ありがとうございます。 >反感を買うと研究費を削られる可能性があるので(ポリポリ)。 世の中には、そう言う所もあるんですね。 私の周りの研究職と随分違うようです。 私が彼ら彼女らから学んだことは、自分の立場は自分で作ること。 それは、どの職業でも言えることだと思います。 そのための努力は、並大抵ではないですけどね。 しかし、全員がそうしなくてもいいと思っています。 それぞれがそれぞれの立場で、それぞれ自分で選んでやっている訳ですから。 誰しも、自分がやれることを自分なりにやっているだけだと思っています。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 ☆世の中には、そう言う所もあるんですね。 ◇人間には感情がありますので…。 それに、学閥、派閥、コネなどの世間並のシガラミもある。 イジメ、嫌がらせもありますし、 結構、陰湿な世界でもある。 回答、ありがとうございました。

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回答No.28

偶然の多くは人間の行動が関係してると思います。 人間の行動は予測が難しいので偶然が起きやすいです。 天気は物理法則に支配されていますので天気予報が外れても偶然の天気とは言いません。 偶然と言うのは店で知り合いに会った場合です。 会った相手が店にいることを知っていたら会うのは必然です。 会った相手が今日店に行くことを知っていたら会うのは必然でもあり偶然にもなります。 会った相手と約束も連絡も取っていない状態で会ったらそれは偶然になります。 予測可能な事柄であれば必然。 人間の行動など予測が困難で尚且つ起こる確率が低い事柄を偶然と言うのだと思います。 予測できない事柄全てに偶然なんて付けませんよね。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆人間の行動など予測が困難で尚且つ起こる確率が低い事柄を偶然と言うのだと思います。 予測できない事柄全てに偶然なんて付けませんよね。 ◇なるほど。 回答、ありがとうございました。

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回答No.27

 No.24を承けます。  次の文章ひとつで――これを先に参照したのですが―― はっきり違うと確認できるはずです。  ▲ (「荘子」に見られる「忘」について) ~~~~~~  http://mohsho.image.coocan.jp/sohji-wasureru.html  忘年忘義  これを和するに天倪をもってし、これによる曼衍をもってするは、年を窮めるゆえんなり。・・・  年を忘れ義を忘れて、無竟に振う。故にこれを無竟に寓す。  (和訳) 生死を忘れ、是非を忘れて、無窮の世界に逍遥しようではないか。そうすれば、無限に自由な境地を獲得することができる。  斉物論篇  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この翻訳によるならば あきらかに人間の側のハカラヒが見られます。いちいちそういったコトを起こすハカラヒとは無縁であるというのが 親鸞です。  親鸞とて 浄土の概念を受け留めており その概念についての説明世界をもそれとして議論します。  けれども それはそれとして・ということは そういった浄土論すなわちすくいの論議は 論議として押さえておいて 自分の立つ位置は ほんとうにそうであるかどうかは知らぬと言っています。総じてもて存知せざるなりと。  すなわち 《無竟に振う》とかその《無竟》という概念から自由な場に身をつまり実存を置いています。  ですから問題は 道教が仏教に対して 親鸞のように《オシエはオシエとして受け留め しかしながらわが実存はほんとうは別の問題としてある》といった対応をしているかどうかではないでしょうか。  ▲ (和訳) 生死を忘れ、是非を忘れて、無窮の世界に逍遥しようではないか。そうすれば、無限に自由な境地を獲得することができる。  ☆ これなら ブディズムのオシエと変わりないものと見られます。  ひとつの参照だけではいけないと思って:  ▼ (コトバンク:坐忘) ~~~~~~~~~~~~~~   https://kotobank.jp/word/%E5%9D%90%E5%BF%98-69684  世界大百科事典 第2版の解説  ざぼう【坐忘 zuò wàng】  身心を脱落放下して根源的な〈道〉と冥合し,〈物〉すなわち外物と〈我〉すなわち自己とが一体化した境地。  《荘子》大宗師篇にもとづくことば。  《荘子》人間世篇では坐忘と類似の心の修養法が〈心斎(しんさい)〉とよばれている。唐の道士司馬承禎の《坐忘論》は,坐忘を道教修行の根本にすえ,それを〈敬信〉することにはじまって〈得道〉にいたるまでの実践の過程を7段階に分けて論じた。【吉川 忠夫】  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ こういうハカラヒとは無縁です。親鸞は。百八十度ちがいます。    ▼ 根源的な〈道〉と冥合し,〈物〉すなわち外物と〈我〉すなわち自己とが一体化した境地  ☆ こういった命題は 理屈であると捉え 突き放すのが 親鸞です。境地は境地の問題として思索もしているわけですから べつに反対して突き放すのではなく そうではなく 理屈にはわれはとどまらないという意味だと思います。  《非行非善》ですから 《得道》だとか《実践》だとかとも ほんとうは無縁なのです。そういう意味でも ブディズムのオシエとしては 即得往生を掲げます。そのようにあしらっておくわけです。  強いて《修行》があるとすれば それは《生活世界》です。個人としての生産と共同自治なる公共行為に目を向けます。信長に敗れるまで一世紀にわたって自治をおこなった加賀一揆の事例があります。極楽往生は 煮詰めて言えば どうでもよいという思想(生活態度)です。  はっきりとしたネタ本が挙げられないかぎり 親鸞が道教と同じ思想だという見方は捨てていただきたい。こう考えます。  人の思想は 偶然・必然から自由な場を独自に占めているのではないか。と考えます。  ほかの人びとから影響を受けつつ しかもその人に固有の香りが放たれるあたらしい別の思想となって現われると考えられるゆえにです。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆はっきりとしたネタ本が挙げられないかぎり 親鸞が道教と同じ思想だという見方は捨てていただきたい。こう考えます。 ◇老荘と親鸞の思想との関係については、森三樹三郎がくわしく研究をしていたように記憶しています。 江戸時代の国学などとの関わり合いについても論及していたはずです。 たとえば、 無の思想 老荘思想の系譜 森三樹三郎 講談社現代新書 老子・荘子 森三樹三郎 講談社学術新書 などなど。 わたしは親鸞の思想が、老荘以後、数百年経って成立した現在の道教と同じだとは言っていませんよ。 親鸞の思想形成に『老子』や『荘子』が深く関わっている可能性がある、と指摘しているだけですよ。 《自然(じねん)》という言葉やその概念が生まれたのは、中国ですし。 ☆☆ こういうハカラヒとは無縁です。親鸞は。百八十度ちがいます。 ◇親鸞においても、ハカラヒ(分別)を捨てるわけですよね。 それほど違わないと思いますが。 回答、ありがとうございました。

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  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.26

>理系人は、ロマンチストで、雲とカスミを食べて生きられないようでは、つとまらない。 昔は私もそう思っていました。 言いたい気持ちは分かります。 しかし、物理現象の実証には、つまり研究には金がかかります。 もし、金を汚いものだとお思いなら、思いはその人の外にあるものではなく その人の中にしか存在しない。 まぁ、確かに手垢は付いてますが。 考え方と使い方で、論理は割と簡単に現象にできるという話しなのですけどね。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆言いたい気持ちは分かります。 ◇世の中の人の反感を買うようなことを言って欲しくないんですよ。 理系の研究者の立場は非常に弱いので。 お財布を持っていないので。 時に税金泥棒と呼ばれ、会社内では《穀潰し》となじられ、 営業や(商品)開発をしている人たちからは、「お前らは、誰のお陰でおまんまを食べられると思っているんだ。誰のお陰で研究できているんだ」といじめられる。 何かすごい業績を挙げたとしても、「これは私の研究を支えてくれた皆さんあってのことです」と謙虚に振る舞わないといけない。 反感を買うと研究費を削られる可能性があるので(ポリポリ)。 ☆しかし、物理現象の実証には、つまり研究には金がかかります。 ◇研究費をもらうためにも、謙虚に振る舞わないといけないんですよ。 時に自分の研究室の院生とたいして年齢が変わらないお役人さんに頭を何度も下げなければならない。 「こんな研究には予算をつけられません」と門前払いを喰らうこともある。 忍耐力と、お役人さんを勘違いさせるホラ吹き能力も必要になります。 このことはNASAを見るとよく分かりますよ。 「火星からの隕石に生命の痕跡を発見!!」というような話もしないといけない。 UFO話の幾つかには、NASAが深く関与している???? 回答、ありがとうございました。

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  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.25

ねむ猫さん お礼ありがとうございます。 そういう解釈でいいのですが。 私は、世界は常に偏りを持ちながら、変化しているという立場です。 新しく未来ができていると考えています。 人間は地球と宇宙(有限な空間)で物理法則を発見しました。 でも、0.01%は変化していると考えます。 もちろん、現在の物理法則は99・9%有効だと思います。 しかし、残りの部分の変化が自由意志であると考えます。 「バタフライ効果」かもしれません。それとも、「ゆらぎ」かな?(笑)

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆私は、世界は常に偏りを持ちながら、変化しているという立場です。 新しく未来ができていると考えています。 ◇なるほど。 ☆「バタフライ効果」かもしれません。それとも、「ゆらぎ」かな?(笑) ◇「ゆらぎ」になるのでしょうね。 回答、ありがとうございました。

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回答No.24

 ◇ (No.20お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~  ですから、この文章は、ありのままをそのまま肯定的に受け入れようという態度を表明している、と私は考えます。  荘子の考えにしたがうならば、生と死は齋同であり、生を善、死を悪とするのも、逆に生を悪、死を善とするのも、これはあり得ない話。これを分け隔てるのは、人間の分別なので。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 老荘は それでよいのかも知れません。  ですが  ◇ ありのままをそのまま肯定的に受け入れようという態度  ☆ は 《義無きをもって義とす》る態度とは 別です。  あるいは 《自然法爾》にしても おのづからなるすがたや状態を言っているということで似ているように見えるかも分かりませんが それは《ありのままを肯定する・否定する》といった判断や裁定から自由な態度を示しています。  要するに何らかの《態度を表明する》ことからも自由です。  ◇ 生と死は齋同であり、生を善、死を悪とするのも、・・・  ☆ うんぬんという思考からも自由でいるのが 親鸞です。《はからひ無きを自然(じねん)と言う》のですから。  老荘がダメだという議論とは別であって 親鸞が老荘思想に似ていて 同じ着想ではないかという議論はしりぞけることが出来るという問題です。

NemurinekoNya
質問者

お礼

☆☆ うんぬんという思考からも自由でいるのが 親鸞です。《はからひ無きを自然(じねん)と言う》のですから。 ◇まったく同じだというつもりはありませんし、違いもありますが、 荘子はこれを「忘」、「忘れる」という言葉で説明します。 この代表的なのが、禅家さんが好きな《座忘》という言葉です。 この解説はかなりいい加減なのですが、 ネットでおもしろい四コマ漫画を見つけましたので、まずはそのリンク先をば!! http://fujiiseiji.sakura.ne.jp/us/04.html これは中国語・原文を読んでもらった方がいいと思いますので、 原文と英語訳が乗っているサイトを次に。 http://ctext.org/zhuangzi/great-and-most-honoured-master 9 大宗師 ここでは儒教について語られていますが、これは儒教のみではなく、荘子の思想についても等しく当てはまります。 ですから、 最終的には「義なきをもって義とする」となろうかと思います。 荘子の「忘」という言葉の使用については、 http://mohsho.image.coocan.jp/sohji-wasureru.html が参考になるのだろう、と思います。 日本や中国の禅宗には、『荘子』は非常に強い影響を与えています。 そして、間接的に鈴木大拙にも…。

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  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.23

お礼ありがとうございます。 >◇たとえば、その現象が(微分)方程式の形で完全に記述できるとしても、条件が不足していると、実際に解けない、 ということはよく起こります。 >支配方程式は分かっているけれど、それを解くための条件が分からない、という場合はあります。 この話しだと、丁度ddtddtddtさんの >人間の意識の本質は、不完全性定理の限界を突破する非計算性にある。 で、未来に解決できるかもしれませんね。 全てとは言い切れないにしても、条件の充足は行われて 確率は徐々に上がって行くでしょう。 未知の部分に関して、新しい発見を閃きとして出していけば 必要条件が揃ってきます。 答えを出すには多くの手順が必要ですが、求める人がいる限り いつか誰かが見つけます。 この質問は計算上だけでなく、就職するとか結婚相手とか収入を上げるとか いろいろ使えそうなので、検討してみます。 自分だけ使えても、大して役に立たないので。 以前も、とてもいい質問がありましたよね。 褒めていただいた回答ですが、あれももっと先の話があの時見えたのですよ。 長年温めた質問がありましたら、これからもよろしくお願いします。 自分が引き出せる質問が、私の好物です。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 ~~~~~~ で、未来に解決できるかもしれませんね。 全てとは言い切れないにしても、条件の充足は行われて 確率は徐々に上がって行くでしょう。 ~~~~~~ これは、理系人の願いなんですよ。 「見果てぬ夢」と言ってもいい(笑い)。 理系人は、ロマンチストで、雲とカスミを食べて生きられないようでは、つとまらない。 そして、多くの人がこの志半ばで息絶える(笑い)。 ノーベル物理学賞をもらったN氏のように、お金のことを口に出してはいけない。 回答、ありがとうございました。

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回答No.22

オカマ相手の決めゼリフだ。あなたは運命を信じますか、、、、 私はあなたを見たとたん運命を感じました。。。 僕が、、、 君の王子さまだよ。 さあ結ばれよう。 レッツチチをもげダンスだ。 どうだまいったか。 これこそが運命だ。 くらくらするだろ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

☆くらくらするだろ。 ◇古典的決定論、カオス理論、ひも理論と実無限&可能無限、荘子の無為自然と親鸞の自然法爾、 さらに仮面ライダー・男プリキュアと、 これらが一度に寄せられているので、 現在、頭がパニックを起こしています。 頭がうまく切り替えれない…。 くらくら眩暈がしています。 頭が本当にストライキを起こしています。 Flareonさんと私が出会ったのは、運命ですよ。偶然ではなく、必然!! きっと「見えない黒い糸」で結ばれていたに違いない。 互いに求める思いが互いを呼び合ったに違いありません。 回答、ありがとうございました。

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  • Tefu_Tefu
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回答No.21

こんばんは ねむ猫さん 質問に答えが書いてありますけど。量子力学や不確定原理と。ラプラスの魔と。 ☆人間がどんなに理想(不変)を追いかけても、現実はそうはならないということです。 全く同じリンゴ一個を作りたいと思って作っても、似たものができる=偶然。(人間の認識では同じものとして満足してしまう=必然) ☆原因は何か?と尋ねられたら 一個のりんごを、何処までも平等に分割できるか?を考えたらいいのかと思います。 ☆可能無限は人間は何処まで認識できるか?ということです。 この世界で全ての物理法則を説明するには、少なくとも10次元空間は存在する。 人間は4次元空間の認識はできますが、残りの6次元空間=コンパクトに折りたたまれた空間=カラビヤウ・多様体は認識できない。 ☆もう一つ、実無限の問題もあります。 現実には存在しない有限な空間 例えば一個のりんごは不変である。空想の二個目も不変な同じ。空想の無限個も不変な同じ。 ☆纏めますと、 世界は、人間が観測できる4次元空間と人間が観測できないコンパクトに折りたたまれた6次元空間からできている。(11次元説もあります) 人間の五感は、現実には存在しない有限な空間(不変)として物体を認識する。 この世界は、無秩序のバラつきからできている? 人間の五感の認識は、無秩序のバラつきを正しく認識できません。 人間が世界を認識する場合、自分の置かれた立場により、人間が生きるのに都合のよい解釈をしてしまう。 観測回数が増えれば、必然に思える。 ☆私の結論を述べますと、世界は無秩序のバラつきの空間からできていると予想します。 空間とは無秩序のバラつき(エントロピーかも)でありますが、人間は、過去の観測により有限な空間を設定して、4次元空間だけでの同じような数値を選択していると考えます。 だから、観測回数が増えれば、必然に思える。 簡単にいうと、「人間が4次元空間で観測して経験した想定内の出来事は必然だけれど、人間が世界(無秩序のバラつきのある空間)で一度も経験のない想定外の出来事は偶然だと云うことです。」 私の考えなので、参考意見で受け止めてください。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 ひも理論からの回答ですね。 ☆人間は4次元空間の認識はできますが、残りの6次元空間=コンパクトに折りたたまれた空間=カラビヤウ・多様体は認識できない。 ◇ひも理論が正しいならば、そうなりますよね。 私たちが見ているのは、影絵のようなものなので。 ☆人間の五感の認識は、無秩序のバラつきを正しく認識できません。 ◇これが無秩序なのかどうかは分かりませんが、本来あったであろう規則性のすべてを知ることはできないのでしょうね。 情報が欠けていますから。 そして、 その情報が欠けていることすら、私たちには気づかないのかもしれないですね。 ☆人間が世界を認識する場合、自分の置かれた立場により、人間が生きるのに都合のよい解釈をしてしまう。 ◇元の世界に何らかの規則性があるのならば、私たちの五感で知りうる世界にも何らかの規則性が生まれるのではないでしょうかね。 あるいは、 ヒュームの言うように、因果律も必然性なんてものは、そもそも無いのかもしれない。 説明が面倒くさいので、Wikipediaから引用!! 手抜きです(ポリポリ)。 ~~~~~~ 一般に因果関係といわれる二つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを人間が繰り返し体験的に理解する中で習慣によって、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかなく、過去の現実と未来の出来事の間に必然的な関係はありえず、あくまで人間の側で勝手に作ったものにすぎないのである。では「原因」と「結果」と言われるものを繋いでいるのは何か。それは、経験に基づいて未来を推測する、という心理的な習慣である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0 ~~~~~~ これはこれで、魅力的な考え方だと思います。 ☆だから、観測回数が増えれば、必然に思える。 ◇ヒュームに言わせれば、「蓋然性が高まっただけ」ということになるのでしょうかね。 回答、ありがとうございました。

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回答No.20

 こんばんは。  次の老荘は どうしても《すくい》の問題にかかわっているとしか読めません。  《大往生を遂げた》と言っています。日本的霊性は これをウワベで受け留めていたとしても 摂っていません。  ▲ (荘子内篇(10):大宗師(だいそうし)篇II) ~~~~~   http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/rousi_syaka/17_10daisousi2html.html                   (1)  子祀(しし)、子輿(しよ)、子犂(しり)、子来(しらい)の四人が話し合った。  「無を頭、生が背骨、死が尻である人間、死と生、存と亡が一体であると悟った人間はいるだろうか、いれば喜んで友だちになりたいのだが」  誰が言うとなく出たことばだが、皆は顔を合わせて笑い意気投合し、親友となった。  そのご、子輿が病気になった。見舞いに訪れた子祀に子輿が「造物者は偉大なものだな。見ろよ、俺の体をこのようにひん曲げてしまったよ」。  見ればひどい姿だ。背中は折れ曲がり、五臓は上に上がり、顎はへそよりも低く、肩は頭より高く、髪のもとどりは天を指している。「これは陰陽の気が乱れたんだ」そういう子輿はいかにも静かで動揺がない。  井戸端に出て水に姿を映し「なんとまあ、ひどくひん曲げたことだ」とつぶやく。「君もさすがにこれは嫌だろう」と子祀が言うと「嫌だろうって、とんでもない。この左腕が鶏のようになるなら、私は明け時を告げる係りにしてもらおう。右腕が弓のようになったら、ふくろうでも撃って焼鳥にしようではないか。尻が車輪のようになり、心が馬にでもなったら、それで馬車を仕立てよう。そうすれば馬車を雇う必要がなくなる。  生まれるべき時が来たら生まれ、死ぬべき時が来たら死ぬ。この定めに順応して従っておれば、喜怒哀楽の情も入り込む余地がない。これが古人の言った県解(けんかい・束縛を離れる)の境地だよ。人間がとかく自分を解放できないのは、生への執着で束縛されているからだ。外界の事物が自然の道理に勝てないのは昔からのことで、俺が嫌がることではないだろう」  程なく今度は子来が病気で危篤になった。苦しげにあえぎ、今にも死にそうな子来を囲んで妻子がなき悲しんでいるところへ子犂がやってきた。子犂は「静かに、離れなさい。死ぬ人を驚かせてはならない」といって妻子を遠ざけ、病床の子来に話しかけた。  「たいしたものだな、造物者は。今度は一体君をなににしようというのだろう。ねずみの肝か、虫の足か」。すると瀕死の子来が答えた「親の命令であれば、人は東西南北どこへでも行くじゃないか、ましてや天の命令はそれ以上のものだ。天が私を死なせようとしているのに、私がそれに従わないのはいけない。人間として五体を受けて生まれ、生を負うて苦しみ、老いを迎えて安らぎ、死を待って憩いにつく、これが人間の一生であるからには、生を善しとして認めるのと同じく、死をも善しとして認めなければならない。  たとえば鋳物師が銅を溶かして剣を作っているとき、銅があがいて「俺はどうしても鏌鋣の剣(ばくやのけん・伝説の名剣)に成りたい」とわめいてごらん、鋳物師はきっと「けしからぬ金属だ」と思うに違いない。  同じく人が「生まれ変わるにしても人間以外にはなりたくない」といえば、造物者は「けしからん人間だ」と腹を立てるに違いない。天地は大きな炉、造物者は鋳物師なのだ。どんな形に鋳なおされようと結構じゃないか」。子来はそのまま整然として眠り、大往生を遂げた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ほかの問題点として:  ▲ 生まれるべき時が来たら生まれ、死ぬべき時が来たら死ぬ。この定めに順応して従っておれば、喜怒哀楽の情も入り込む余地がない。これが古人の言った県解(けんかい・束縛を離れる)の境地だよ。人間がとかく自分を解放できないのは、生への執着で束縛されているからだ。  ☆ これは 《当為》を論じています。とどのつまりは《すくい》への議論です。  次も当為を問題としています。  ▲ 人間として五体を受けて生まれ、生を負うて苦しみ、老いを迎えて安らぎ、死を待って憩いにつく、これが人間の一生であるからには、生を善しとして認めるのと同じく、死をも善しとして認めなければならない。  ☆ 親鸞は 《義無きをもって義とす》です。月とすっぽんです。よ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 私は、「救い」ではなく、ありのままの受容と考えますが、 示した日本語の現代語訳がいけなかったのかもしれませんね。 長いので、重要なところだけを『老子・荘子』(角川ソフィア・野村茂男:この本の訳は非常にわかりやすい)引用いたします。 ~~~~~ 「・・・そもそも生命をこの世に得たのも時のめぐり合わせ、生命を得て失っていくのも運命にしたがってのこと。時のめぐり合わせに安んじて、運命にしたがうならば、悲しみも楽しみも心に入り込むことがない。これが昔から言われる、すべての束縛からの解放〈県解〉である。それにもかかわらず自分で解き放たれないのは、その人の心が世間の常識に束縛されているからだ。そもそもいかなる物も自然の働きには勝てないものと、昔から決まっているのに、私がどうして自然がもたらすこの肉体の変化を憎むだろうか。」 (中略) 「・・・もし天地を大なるるつぼ、造物者を鍛冶屋の親方と見なすならば、どのような形にされようともよいではないか。やすらか(成然)に眠り、あれあれ(蘧然・きょぜん)と目覚めるまでよ。」 ~~~~~ ここに出てくる現代語の自然は、natureの意味ではなく、自然(じねん)、「おのずからしかり」のハタラキのことを言っているのでしょう。 「大往生を遂げた」というのは誤訳ですね。 「あれあれ(蘧然・きょぜん)と目覚めるまでよ。」が訳としては正しい。 造物者(造化)という擬人的な表現が使われていますけれど、自然の生成作用くらいの意味なのだと考えます。 ですから、この文章は、ありのままをそのまま肯定的に受け入れようという態度を表明している、と私は考えます。 荘子の考えにしたがうならば、生と死は齋同であり、生を善、死を悪とするのも、逆に生を悪、死を善とするのも、これはあり得ない話。これを分け隔てるのは、人間の分別なので。

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