• ベストアンサー

宗教→科学→次に何が来る?

宗教→科学→次に何が来る? 『評価経済社会』というすごすぎる発想 http://skky17.hatenablog.com/entry/2014/09/06/235403 オタキングこと岡田斗司夫さんは宗教→科学の次に評価の時代が来ると言っています。評価至上主義経済。 あなたは科学の次に何が来ると思いますか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1154/9141)
回答No.1

宗教と科学の接点は自然現象の解釈ではないでしょうか。科学で神に相当するのはビッグバンか。ビッグバンの前を考えるのは、やはり科学か。

その他の回答 (9)

回答No.10

実に なんとも ひまなもので、、、、 この質問に対するNo.8phjさんの回答を読みました。 また 2014-09-06の「『評価経済社会』というすごすぎる発想 」というwebページを読みました。 岡田斗司夫さんの本も、堺屋太一さんの本も、読んだことがないし、概略の内容さえ知りません。 鈴木寛さんのPPTをざーっと眺めました。*ww.ieice.org/cs/csbn/program/papers/suzuki.ppt 多くのヒトが色々なことを考えて発表しているんだなぁと、感心しました。 しかし、詳しく読んだことも、こうした文献や発表に関心をもって漁ったことも一切ありません。 ただの印象ですが、一面、良いところを衝いているけれど、なんかを見落としてるんじゃないかと思います。 今、イスラム国とか、スコットランドとか、ウクライナとか、自分たちは別国家を作るようなことが話題になっています。日本では、韓国や中国を排斥憎悪する動きが盛んです。その他にも色々なところで、憎しみ・排斥・感情的言動が強く表れていると思います。個人レベルでは、ストーカーやいじめ、殺害も日常茶飯のように感じます。 金銭目的や地位権力闘争ではなくて、感情レベルの反応がとても多いと感じます。 いまでもあるのでしょうが、暴動や騒乱が国際ニュースで流れていたことも記憶にあります。格差や貧困対策、困窮を抱えている者への支援や援助、差別的扱いの禁止や教育訓練、厚生社会に向けての政治経済の各種施策が手厚く行われていても、「こんな状態なんだ」と思ってます。 《宗教⇒科学⇒評価》のような視点で考えても全然ダメなんじゃないかと思います。 《近代国民国家システム⇒知的価値中心の知価社会》というのはスゴイと思うのですが、やはり、検討の基礎にする現状把握でポロンと大きなものが抜けているように思います。 過去の歴史で、中国でも、日本でも、西洋でも、戦争の時代というべき時代がありました。 その社会の伝統やシステムが社会を支え維持することが出来なくなって、その社会内部で個人や家族が流動化し、あるいは徒党を組んで流動化し、めちゃめちゃとパワー行使がある期間継続する時代がありました。 人間社会の進歩や発展の段階で起きることだったのかもしれませんが、ベースとしての経済体制や生産供給のことを考えると、今後に起きることは今までとは大きく変わるのではないかなぁと思ったりします。 社会のシステムも貧弱で、ストックもない時代には、農耕をするにも人力でしたから収奪支配があっても多くの人々は他の人からもある程度独立して生存できるし、支配層にとっても人々の群としての存在価値はあったと思います。 工業生産や商業流通、金融資本などが多少出て来れば、状況は一変し、多くの人々は他人や社会システムに依存しなければ生きていけない状態になります。宗教だけでなく、政治思想や科学技術、資本や資産がとても大きなウエートを占める社会になったわけですが、まだ人々の小さな人力や技能、知識や経験、判断力は重要で、労働力、従業員としての存在価値は多くのヒトが必要とし、認めていたものです。 ところで、今は、工業だけでなく農漁業、鉱業、林業も、商業や流通サービス業も、多くの産業が装置産業のようになっていて、人力・労働者の必要性は低下してきています。情報産業を支えているのは膨大なシステム装置です。確かに、どの産業分野や事業体でも核になるヒトは必要ですが、従来に比べると人手はいりません。  日本は高齢化社会となっています。多くの先進国がそうです。この高齢社会は、労働者数が少なくなっているというか、ヒトが不要の社会になって来ているということでもあると思います。 いわゆる途上国には膨大な人口があります。 現状でも初歩的な労働者が必要な状態ですから、この膨大な人口も相当数が必要人口です。 しかし、五年後、十年後に途上国が先進国のような産業構造、社会構造になったら、世界中で50億人くらいは必要がない人口、働き手として求められることがない人口になると思います。 仮に、知価社会、評価の社会のようなものをイメージしたとして、その社会である程度の関心を集め、価値があるように存在できる人数は、1/100はいないでしょう。 ネットで自由発信ができるシステムを利用可能だとしても、99/100~995/1000は、限られた知り合いや同好内に発信しメッセージ交換出来るのが精一杯で、固有名詞(ハンドルネームや芸名でも)で広く認知され存在価値を求められるようにはなれないでしょう。それでも、社会が400/1000に対して生産物(飲食物、衣類、工業製品、社会の各種サービス)を提供し続けて行くならば、お互いのエンターテイメント提供に対価を払う形を含め700/1000はやっていけそうな気がします。 問題は、300/1000=30%の残りの人々です。 個人の能力や生育経歴で、1シグマ(約30%)はかなり外れた低レベルに分布せざるを得ません。 その1シグマになるヒトはきっと社会システムそのものに敵意を感じてしまうでしょう。 生産物(飲食物、衣類、工業製品、社会の各種サービス)を提供するにはその役割を果たせるヒトが人口の数パーセントがいれば十分という時代になって行くのですから、社会は敵意と分断の《混乱の時代》に突入せざるを得ないように思います。 《人手中心で多くのヒトが存在価値をほぼ同様に持っていた時代》⇒《資本と知識と技能とシステム分業と人手の時代で、多くのヒトも自我や自分の存在に価値を自認することが出来ていた時代》⇒《自己の存在価値を自認することが出来ず、感情的な生き方になってしまうヒトが相当数・数割を占めるようになり、社会が混乱か崩壊に近い状態に近づく時代》 そんな感じがします。

  • ssssan
  • ベストアンサー率18% (132/730)
回答No.9

祭りごと=政事と言いますようにーーこれからは宗教=化学ですよー。 で古代は上の4ッつが調和取れてた時代は地球上は楽園でしたーアダムとイブ神話の様な時代が続いて それが壊れたのは人間の性としか言いようが無いんじゃないかと、人間たる由縁、それが無かったら神ですからねー。

  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.8

評価だと思いますね。もうすでにその時代は来ています。 『評価経済社会』これ2011年に刊行された本なんですね。はっきり言ってすごく遅いし、分かりやすく解説している部分では評価できても、3番煎じぐらいの古い内容です。 評価社会を一番最初に予言したのは、有名な経済学者であるアルビン・トフラーであると言われています。そのときの内容は「第三の波」という言葉で表され、農業革命・産業革命の次に情報革命がくる、と言う内容でした。 1980年にアメリカで出版されたものです。 日本ではそれを受けて、何人かの人が同様の分析を行って、独自の解釈を本にして刊行しています。 個人的には「知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる:堺屋太一著」でこのあたりの内容を知りました。1990年の本です。 この知価革命は、岡田氏の「「自分の気持ち」だ。評価経済社会とは、「自分の気持ち」が時代を席巻する価値観になった社会のことだ」とほぼ同等の内容をあらわしています。 知価とは、たとえば「気持ちいい」とか「便利」などを製品の価値に落とし込んだものをいうからです。 この知価または評価経済で一番分かりやすいのはiPhoneでしょう。日本の技術者がiPhoneを分解して「なんだこんなものなら、うちの会社の技術ならすぐにできる」とうそぶいたといわれています。 たしかにiPhoneは必ずしも最先端の技術が盛り込まれているわけではありません。日本の技術ならもっとすごい技術を盛り込むことができるでしょう。 しかし今は「すごい技術(最先端の技術)」=「よいもの:気持ちいいもの:使いやすいもの」とは限りません。 iPhoneはちょっと前の良く使われている技術で作っているのに、ものすごく使いやすい(使っていて気持ちいい)のが特徴です。最先端のモノが必ずしも使いやすいものではなくなっているのです。 もう少し分かりやすい例を出せば、テレビでしょうか。DVDなどを含むテレビです。 昔のテレビはチャンネルとスイッチ・ボリュームぐらいしかありませんでした。今は複雑なリモコンがついています。 DVDなどのリモコンまで含めると操作を覚えるだけで大変で、使いこなしている人は少ないでしょう。 日本のテレビはまだこのようなリモコンに支配されています。 ところが外国メーカーのテレビやDVD・HDDなどでは、すべてテレビ画面で操作できるようになってきているものがあります。すべて同じメーカーでそろえる必要がありますが、多くの操作が直感的に出来て非常に気持ちがいいです。 こんなブログもあります:http://newskenm.blog.fc2.com/blog-entry-8122.html これらも必ずしも最先端の技術ではありません。 テレビがカラーになった、自動車にターボがついた又はパワーウインドウになった、という時代は技術とそれを支える生産設備の確信がまさに「評価されること」だったのです。 しかし、今は4kテレビになったからといって「すごいから買おう、欲しい」というひとは少なくなっています。 それよりも自分が使いやすければスマホでテレビを見たっていいし、パソコンでもいい、と言う「自分のライフスタイルにあった、製品やサービスを評価する」という流れになっているのです。 まさに今は「評価経済社会」の入り口であるといえます。

  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.7

もちろん、次に来るのは宗教ですって。 宗教→科学 :専門家(つまり僧侶)の扱うリクツが高度に発達し、実に様々な局面のためのこまごまとした禁則ができちゃったりして、日常生活の中で真面目な信者たろうとしてもどうすればいいのか、普通の人には考えてみる気も起きない。どうしても必要なら専門家にお伺いを立てることになるのは王侯貴族だって例外ではない。分からないのに乗じて僧侶がイーカゲンに勝手なことを言う。キリスト教の聖書なんて普通の人が見たら目が潰れる禁書だったから、何が正しいのか自分で考えるすべも無い。そういう閉塞状況の中で、「あいつらの言ってる理屈はさておき、自然の造形に確かに現れている神の業の見事さを賛美しようよ」というスローガンによって、自然科学が(魔術ではないポジティブな)新しい意味を獲得する。 科学→宗教 :専門家(つまり科学者や技術者)の扱うリクツが高度に発達し、技術の産物が巨大あるいは極微細になっちゃったりして、日常使っている機器ですらどういう仕掛けになってるんだか、普通の人には考えてみる気も起きない。どうしても必要なら専門家にお伺いを立てることになるのは政治家や資本家だって例外ではない。分からないのに乗じて科学者がイーカゲンに勝手なことを言う。秘密なんかないよ、幾らでも学べる機会はあるよ、と言われたって難しくて自分で考えるすべも無い。そういう閉塞状況の中で、「あいつらの言ってる理屈はさておき、神あるいは徳というシンプルなモノサシに基づいて物事を考えようよ」というスローガンによって、宗教が(ただの迷信ではない)新しい意味を獲得する。  分からない者にとっては、どっちも「分からんもの」であり、だから内容によって区別することはできない。単に、「煙たいA」から「Aデナイモノ」への移行、という運動が生じるだけでしょう。

回答No.6

1-今まで無い人々の分裂と争い 2-人口が減る 3-科学と不思議系の融合 4-数百年後、愛が全てと気付く (╹◡╹)

noname#212313
noname#212313
回答No.5

 リンク先で紹介されている岡田斗司夫氏の著作は読んでいませんので、引用されている部分については、何とも言えません。  しかし、その記事の見解にはほとほとうんざりします。例えば以下。 > もともと科学は、神の真理を確認するために行われたんだけど、神の教えを否定せざるを得ない結果が出てしまった。  そんなことは全くないんです。科学は神も神の教えも関係ない。科学に「神科学」や「神の教え理論」みたいなものはありません。ずーっとタータッチで来ました。いや、ノータッチなんだから放っておいてくれ、と言い続けてきたといってもいいです。  ある現象はいろいろな解釈ができます。科学、特に自然科学は「こういう視点からこういう方法で考えると、こういう結果になる」ということを説明するに過ぎません。そこから「それなら、こうするとこうなるはずだ」ということもでてきます。  ちなみに、自然科学が記述しているものは、直接は実在しません。考えている人の頭の中だけにあります。物理学などでは、それが特に顕著かもしれません。自然界のどんなものにも、数字や数式は書いてありませんから。それを眺める脳内イメージの一つが科学であるに過ぎません。  地球は平らではない。確かにそうでしょうね。ずっと真っ直ぐ行ったら元の場所に帰ってくる。世界レベルの地図を作るにも球面だと仮定したほうがうまくいく。宇宙にまで飛び出して地球を眺めたら(そうできたこと自体、地球が丸いという仮定に基づいている)、どうも丸いらしい。ただ、そこは人間の限界、一度にはある地点から一部分しか見られないから、いろんな方向から眺めて「これは球と呼ぶもののはずだ」と言っているんですけれども。  神、ないしは神の教えが何を持って地球が平らかなんて、自然科学に携わる者は知らないですよ。無関係です。否定なんかしていない。だって、平らが何を意味するかなんて、研究したこともないんだから。分からないものを否定するなんて、科学じゃありません。だから、断じて地球が平らかどうかということで、科学の俎上に上ったこともない神がどうこうなんて科学は一度も言っていない。  地動説。まあ、天動説と両立はしません。昔々だと、太陽の周りを地球が回っていると考えたほうが計算が楽だ、ということに過ぎませんでした。ニュートン力学に基づく世界観では、確かに地球が太陽の周りを回っている。とてもじゃないけど、太陽が地球の周りを回っているなんていえない。  今はどうか。知らない人は知らないことですが、一般相対性理論以降は、天動説でもいいんだよ、ということになっています。地球が自転すらしていない、とまで考えてもいい。それは、ちゃんと一般相対論が保証しています。相対性ということが、そこまで進んだんです。  じゃあ、一般相対論は、神の教えだとされる(どの神のどんな教えかよく知りませんが)天動説を肯定したのか。無論、そんなことはない。ビッグバン説は聖書の「光あれ」を証明したのか。もちろん、そんな馬鹿げたことはない。ある視点と方法であることを調べていったら、そうなった、というだけです。勝手にアナロジーみたいなことを妄想するのはいいですけど、妄想に留めておいて欲しいものです。科学の出した説明を、科学に則らない方法で勝手に使うな、ということです。  科学は道具ですよ。道具を使う楽しみもあるから、必ずしも実用のみではないですが。しかし、パラダイムなんかじゃないです。そんなものを提供したことは一度もない。また、何が科学かなんてことも、科学は定義していない。ざっと眺めて、これは科学っぽい、あれは科学っぽくないと、曖昧に判断はしますが。  なんだか、きっちりと境界を持った科学というものがあって、万能だと嘯いたり、巨大な権威だったり、ヘンテコなイメージが多過ぎます。科学とかいう「至上の者の如くならん」というモノがあるほうが、変な人には都合がいいのかもしれませんが。  科学とかいう凄いモノがあってくれれば、「科学では説明できない」「科学には不可能」「科学を超える」「科学の次に来るもの」なんてキャッチコピーが有効なんでしょうね。魔女裁判みたいなもんですよ。何かの現象を誰にでも分かる理屈を考えていたら、突如として駄目出しされる。悪いことがあれば責任を押し付けられる。間違いがあれば、倫理的、人格的にまで非難される。  放棄しちゃいましょうかね、科学。関わっているだけで、いいようになぶりものにされる。バカバカしいですよね、そんなのは。まあ、人類の9割くらいが死んで、中世かそれ以前の暮らしに戻りますけど。

  • txr002
  • ベストアンサー率41% (28/67)
回答No.4

岡田さん、口八丁だからなあw 必然的に「リアリズム」でしょうね。 これから人類は未曾有の「欠乏時代」を迎えます。今までは探せば必要なものが十分な量ある時代でした。しかし、もうそれはありません。資源やエネルギーを宇宙に求めてしまうことは、地球のそれらがもう十分ない、と言うことの裏返しです。 石油などの天然エネルギー資源はもう枯渇が秒読みなのはご存じだと思います。ウランによる核エネルギーも自ら放棄し始めています。再生可能エネルギーって聞こえはいいけど、エネルギー密度が低いものをかき集めるしかない。資源はもっと深刻で、将来後100年いないに今は豊富にある鉄でさえ不足してくると言う試算があります。 そう、もう人類はうかうかしていられないのです。超が付くほど合理的で無駄のない生活をいやでも強いられる、つまり「リアルの世界」に放り込まれます。夢だ希望だといっていられない、人類存続に全力を注がなければならない時代になってきます。 遠からず「水争奪戦争」が起こるであろうことは誰もが予測することですし、日本もそれに必ず巻き込まれます。 まともに考えているとくら~い気持ちになってきます。

回答No.3

かつて宗教が科学を兼ねていた時代がありました (世界観、存在論)。 しかし実験や観察機器の高度化において、科学者と して独立した職能となりました。 同時に、宗教が兼ねていた哲学も、科学や数学、 論理学の宗教離れ(神によらない解説)に応じて、 独立した分野になりました。 また、宗教が兼ねていた人生観・価値観も、社会的 分業化において、それまでのファミリーの延長による 原始共産制から、そうした自己の生命性の社会的 拡張を自覚化(=自律的社会行動=助け合いとしての 愛による社会)しうる認識の発達を怠り、お金や出世 といった“馬車馬の目の前のニンジン”により、他律 的に社会行動をとらせる方法論をとったため、助け 合っているはずの社会は奪い合う弱肉強食の疑似 ジャングルとなり、その拝金主義において貨幣経済 は生じたのです。 それらは、どれもハンパ物です。 神によらない世界観、お金によらない価値観に於て、 自己の生命としての根源的意志の展開として、自律 的に社会行動をとれる(愛による社会)ようになれば、 それは宗教も科学も哲学、経済も兼ねたものとして、 生きる事自体による充足=人生を通算した精神的 充足量の最大化という、生きる真の目的を果たすも のとなり得ます。

回答No.2

 宗教から科学の流れの中で、人としてはずしてはいけないことと自由で多様であっていいことがはっきりし、その先に多様でいいことを大手を振って体感して尊重し合って共存できる世の中が開けていくのではないかと思います。科学の次に来るのは体感という意見です。

関連するQ&A