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戦国時代は戦の給与・武器と食料は誰が負担する?
戦国時代、戦費は参加する人間負担だと言われます。 (1)知行のある人間が、村々に割り当てして兵を徴収する訳ですが 村から集まった兵は給与はゼロ、なしだんでしょうか? もしも、給与ゼロだったら、当然略奪とか起こりますよね? 給与ゼロだったら、戦いに参加したくないです。 給与があったり、褒美があったり、略奪できて得るものがあれば別ですが。 (2)村から集まった兵は、武器や食料は自分で準備したんでしょうか? 農民は自分で食料や鉄砲など用意できないです。 もし、各自負担だったら、食料を荷駄などでまとめて輸送はできません。 食料や武器は、大名が用意するもんでしょうか?それとも各武将が用意する もんですかね?あくまでも各自負担ですか? (3)もし、食料や武器は各自負担だったら、まあ、統制は取れない軍隊になります。 普通に考えれば、食料や武器は統一で運用したほうが、戦いは合理的に進められ ますが、 この辺は戦国時代はどのように運用されていたんでしょうか? 詳しい人がいたら教えて下さい。
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- jkpawapuro
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えーとまず質問者さんの疑問に思ってる点が徐々に変化していったのが戦国時代ですので、戦国時代と一言で言っても時期・大名によって変わっていった時代です。 ですので概ねこんな感じといった概略を答えることはできても、実際どうだったかは個別その戦いを調べてみないとわからないでしょう。 (1)基本的に戦に行く事そのものに対する給与は0ですね。ただし職業兵としての足軽であれば足軽であることそのものに俸禄があります。農民兵はただのタダ働きですね。ですがなかには派手に金銭をばらまいて兵士を集めたケースもいくつかあります。 恩賞首を討ちとれば、当然褒美はあります。 (2)武器は基本的に武将が支給します、食料は数日(二日?)程度は自弁で持ち歩き、それ以上は基本大名が用意します。 なお当時の農村は武装しています。農民が丸腰になったのは秀吉が刀狩りしてからです。それまでは農民は各自武装して自分の村を自分で守っています。 (3)基本的に戦国時代の部隊で統制がとれているのは希ですよ。 食料や武器が統一運用できるようになったのはごく一部の大名であり、多くの大名は自国の領内もしくはその近隣地域に略奪してまわるのがせいぜいです。遠征戦をできるのはごく一部の経済的に裕福な大名で、それができた限られた大名が統一的に食料の調達や輸送ができたのだと思われます。織田・羽柴・毛利・武田・上杉といった大名でしょうか、各自強力な金蔓があります。なお徳川は関ヶ原のみ遠征戦を経験していますが、関ヶ原も道中の大名の協力のもと食糧供給を受けていて、おそらくそういった戦略輸送・戦略移動は極めて苦手だったでしょう。
- あずき なな(@azuki-7)
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武将にもよるけど 秀吉は基本遠征軍のときは食料は現地調達 秀吉が九州征伐に赴いたときに 現地の人はこぞって食料を差し出した話は有名です 遠征ではなく普通の合戦のときは各自持参です 当時のご飯は 米を水にふやかしてすぐに食べられるようにしてあった様です 関ヶ原のとき家康が 「米は水から戻しておいて合戦前に食べよ」と命じてますね ちなみに武器弾薬は武将側が持ってたものを使いました さすがに農民が鉄砲なんて持ってないでしょ
戦国時代であれば、既に後の下級武士に位置づけられる常備兵として雇用され訓練も受けていました。 一般に足軽と呼ばれます。 常備兵ですから、全て大名負担で揃えられていました。 有名な名古屋の八丁味噌も、徳川軍が鎧の帯に携帯食料として巻き付けていたものが原型です。 このように必要なものは全て支給していました。 刀など自分が使う武器はそれなりに自己責任で揃えてはいました。 勝てば戦闘終了後に何がしかの恩賞が支払われました。 信長が台頭してくる頃には、長槍・弓・鉄砲等専門の部隊が組織されるようになってきていました。 村落から租税の一つである役務で徴収された人達は、いわゆる兵站部隊を構成していました。 直接戦闘には参加しませんでした。 ご指摘のように訓練を受けていない集団ですから、相手の常備兵の足軽の敵ではあり得ませんでした。 下手に参加させれば混乱を引き起こしてしまいます。 個々の戦闘というのは基本的には短期間で済みましたから、終了次第帰りました。 勝っていれば、帰路困らない程度の金銭は支払われました。 負けたらどうにもならなかったでしょう。 あくまでも租税としての役務の一環ですから、常備兵の足軽とはおのずと扱いが違っていました。 常備兵の足軽が不足する場合は金銭で雇いました。 治安が乱れていた時代ですから蜂須賀小六のような野盗であると同時に戦争請負人のような連中がいました。 この連中が略奪行為などに走りました。 常備兵の足軽がこのような行為を行ったことが発覚すれば即刻処罰されました。 場合によっては斬首されてしまいました。 戦で占領した村落は貴重な年貢の収入源ですから、その村落の住人の反感をかったのでは、占領後の領国経営に重大な支障をきたしてしまいます。 領国内の経営にエネルギーを取られたのでは、たちまち他の大名から攻略されてしまいます。 平安時代末期から南北朝時代頃までの戦闘は、源平など侍と呼ばれる戦闘を生業とする集団どうしの戦いでした。 結果として一騎打ちが基本で軽装備の従者はあくまでも自分の主人を護衛することが任務でした。 これが集団戦法に変わりはじめたのが応仁の乱以降です。 相手の武者に、とにかく寄ってたかって襲い掛かるというやり方でした。 ご指摘のように烏合の衆でした。 形勢が不利となれば勝手に逃げだしたり、行く先々で乱暴狼藉略奪をやりました。 これを次第に組織化していったのが戦国時代でした。 特に鉄砲が伝来して以来、戦闘のやりかたが一変しました。 有名な長篠の戦いで、信長の軍が一騎打ち基本の武田騎馬軍団を殲滅したのも、最新式と旧式の戦闘の典型です。 そうは言っても、遠征先でその都度金銭で兵を雇っていましたので、略奪行為はおさまらなかったでしょう。
- trajaa
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1)通常は無給、所領を与えられている事に対する対価としての戦力の提供となる 割り当てに従わなければ土地を手放して、物乞いするようになる 勝って所領が増えればそれが報酬 2)最低限のモノは自分で準備したが、一月も二月もは無理 農民は鉄砲を扱わない 自衛の武器(刀剣)は自前、飛び道具は支給品だったり専門兵 3)時期や武将による 信長のように、専業の兵員を養えるのであれば合理性を追求するのに理がある が、謙信のように配下の武将の権限が大きいような場合には、合理性追求にも限度がある
- titelist1
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戦費が自己負担であったのは鎌倉時代から室町時代の応仁の乱までです。幕府に所領の安堵を受けているためにその奉公として戦場に参加させられたのです。この者達を御家人と呼びますが、幕府からお金を支給せずとも所領からの年貢米で賄ったのです。平家を京都落ちさせた木曽義仲は褒美を与えず、京都で略奪させたので悪評が広がり、朝廷は源頼朝に追討を要請した。 応仁の乱後の戦国時代になると、質問者が指摘しているような方式では統制が取れないので、戦国大名が戦費を支給するようになるのです。古いタイプの戦国大名は守護大名から上がってきているので戦の形が古いのです。したがって、農繁期には戦に農業をしている武士達を投入できないのです。武田と上杉の川中島合戦が何度も行なわれているが、これにあたります。 一方、下克上でのし上がった戦国大名は違っているのです。その典型的なのが織田家なのです。熱田の港を支配し、海運業の利益を上納させていたのです。東海道は伊勢湾を舟で渡る道でした。濃尾平野の大河は幾つもあり交通の難所だったのです。織田信長の楽市楽座もお金を得るための方法なのです。資金を持った大名はお金で兵士を雇うのです。そして戦を仕掛けるのはいつも農繁期なのです。お金があるので鉄砲も買えるのです。 もう、お判りですね。古い戦国大名は領民に戦費を負担させ、新しい戦国大名は大名が戦費を出した。その費用は勝ち取った領地の領民に後から巻き上げるのです。