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言葉をなぜ まなぶのか?

 いろんな言語の知識を得て それをひけらかすためのほかに 何でしょう?  個人のご意見としても 一般論としても また両方としても どうなのでしょう?  

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  • ベストアンサー
  • Him-hymn
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回答No.1

言葉を学ぶ意味 1.生活の必要性があるから 自分が生活している地域で使われている言葉が使えないと買い物にしても、何をするにしても困ります。そういう意味で言葉(自分の母国語でない言葉を使う地域に住む場合)を学ぶ必要があります。 2.知識を吸収するため 日本は翻訳がかなり行き渡っている国ですが、それでも外国の言葉がわからないと科学や技術などの最先端の情報を手に入れるのは困難です。そういう知識を吸収するために必要です。 3.コミュニケーションをとるため 人と直に話をすることでコミュニケーションをはかることができ、それによって、お互いの情報を交換したり、交友を深めたりすることができます。日本の鎖国のような状況を世界のすべての国が持っていたら、とてもつまらない世の中になるし、お互い疑心暗鬼となって、戦争がはじまる可能性も増えますよね。人はコミュニケーションが必要なのです。 4.言葉を学ぶことは異文化を学ぶという面白さがある 異文化を知らないで一生を過ごしても悪くはありませんが、私などは異文化を知ることで自分の幅が広がったと思います。言葉も文化の一部であり、これを学ぶことに意義があるとも考えられます。 5.自分を知る 他の言葉を学ぶことは、自分の言葉を相対的に知ることであり、自分自身を相対的・客観的に知ることでもあります。たとえば、英語を学んではじめて、日本語と「相手」についての伝え方が違うというのに驚きます(英語では自分はI相手はyouですから)。さらに深く自分とは何者かというような哲学的な問いにたどり着くことさえできるかもしれません。 以上の理由で言葉を学ぶのかと思います。なお、やや教科書的な回答であったかもしれませんが、あなた様がどのような回答を求めているかわからないので、このような答をしてみました。 ご参考になればと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ひむ‐ひむんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 言葉を学ぶ意味 /  1.生活の必要性があるから  ☆ 言わば《生活ことば》は 欠かせない。ですね。  ★ 2.知識を吸収するため  ☆ これは 意地のわるい質問者としましては では何故 《知識を吸収する》のか? と問いたたむようにお尋ねしたいと思うところです。  ★ 3.コミュニケーションをとるため / ・・・人は〔* 生活世界を超えて〕コミュニケーションが必要なのです。  ☆ 括弧書きにて記しましたように 《1.生活のための必要性》を直接会って交通する生活世界からさらに広げたかたちでしょうか。  つまりは 《1》と合わせて 《地球上に生活し人びとと共生するための必要性》となりましょうか。  ★ 4.言葉を学ぶことは異文化を学ぶという面白さがある  ☆ これは これにもイチャモンをつけたくなります。つまりは 《2. 知識を吸収するため》と同じように では 《異文化をまなぶ》のは 何のためか? と問いたくなります。  むろん 《趣味嗜好》をけなすものではありません。そのほかに 目的はないかという問いであります。  異文化をまなぶのは 《1.+3. 世界における共生に向けてのコミュニケーションのため》という答えにもなるかとは思いますが。  ★ 5.自分を知る  ☆ まづこの中で  ★ 自分自身を相対的・客観的に知ることでもあります。  ☆ というのは やはり《地球人としてのコミュニケーションのため》に成りましょうね。  あるいは  ★ さらに深く自分とは何者かというような哲学的な問いにたどり着くことさえできるかもしれません。  ☆ これは どうでしょう。つまり そのことを否定するのではなく そうではなく ひとつの言語だけでも《人間=存在》論としての《わたし》論にはたどりつくのではないか?    つまりおのれの母語をひとつ知っているだけでも 哲学は成し得ます。と言いますか 隣りの国の――たとえ方言の違いであってもの――違った言葉については たいてい《生活世界》の範囲内でも知っているという事情もあるかと考えられるからです。  さて ここからが 問題であると思います。せっかく  ★ あなた様がどのような回答を求めているかわからないので  ☆ とおっしゃってもらっていますので しっかりと問うてみたいと考えます。  すなわち こうです:   ○ 《地球人として互いに交通しあって生活するために それぞれの国の言葉をまなぶ》という答えを得たとするならば では この外国語カテは そういうふうに利活用されているか?  です。言いかえると なるほどいろんな国の言葉をまなぶべく質問をつうじてやり取りがなされていますが それらは うわっつらの言葉のやり取りが出来るためにまなんでいるに過ぎないのではないか? という疑いに代えたいと考えます。  どうでしょう。  うわっつらのコミュニケーションのためにまなぶ人たちに対して 先に知ったことをひけらかしているに過ぎないのではないか? です。  それとも この外国語カテは そのような手段の段階での知識の交換と共有にしぼっていとなまれていましょうか?  

その他の回答 (23)

  • Nakay702
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回答No.34

「お礼」への、再々度の書き込み、痛み入ります。 >  もののあはれを知るのは 理性もかかわっているかと思いますが 身と心との全体としての自然本性にもとづくのであろうと考えられます。そしてどちらかと言うと 身のほう・つまり感性のほうに〔も〕 重点が置かれてもよい。こう考えています。 ⇒私にはよく分かりませんが、そうかも知れませんね…。 とはいえ、この種の問題は実験したり検証したりすることができないことだけに、何とも申しあげられません(ごめんなさい)。寡聞にして関連する文献に出会ったこともありません。ただ1つ言えることは、それが如何に不可思議に、あるいは、神秘的に思えることであっても、その根底には必ずや「言語が関連」しているに違いないであろう、ということです。 ところで、これ以上この問題に関わると、「なぜ言葉を学ぶか」という初期の問題から離れ過ぎますので、このあたりで「お開き」とさせていただきますね。このご質問に対する回答やその回答に対する反応や、他の方々の回答などを閲覧させていただいたりしながら、ずいぶん楽しませていただきました。ありがとうございました。 最後に、当初のご質問「なぜ言葉を学ぶか」にひとことで答えるなら、「言葉は、あらゆる人間的営為と密接に関わるものだから」となりましょうか。これをもって、私からのご回答の「総括」とさせていただきます。 以上、第4信まで。(ご幸運を!)

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ただ1つ言えることは、それが如何に不可思議に、あるいは、神秘的に思えることであっても、その根底には必ずや「言語が関連」しているに違いないであろう、ということです。  ☆ 《言語一元論》をとる人もいました。(橋爪大三郎でしたか)。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 最後に、当初のご質問「なぜ言葉を学ぶか」にひとことで答えるなら、「言葉は、あらゆる人間的営為と密接に関わるものだから」となりましょうか。  ☆ 同じような視点であるように思います。  言ってみれば 《感性》をとおして得られるものもみな 広く大きく《ことばの世界》として捉えておられる。ように思われました。  そうですね。いましばらく開いていて 閉じたいと思います。  あらかじめながら みなさん ありがとうごございました。このスレッドは けっこうたのしかったと存じます。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.33

おっ! 復活しましたね。一時はどうなるものかと思いました。(このまま前面削除されることにでもなったら困るなあ、と思っていました。) さて、再度「お礼」への書き込みをありがとうございました。 > 《母語ひとつによる思想の充実》派に立つことにします ⇒了解です。どこに立つかは個人の自由ですので、そのこと自体に何ら異論はありません。ただ、「自己中心的特殊規定」(egocentric particular,ラッセル)は誰にでもありますが、程度問題には留意が必要でしょうね。自分が拠って立つ位置から見えるものの、御用学・擁護論に陥らないようにするために。 > おそらく 知らないより知ったほうがよいと考えますが 知った場合のほうがつねに有益で有利な立ち場にあるとは 必ずしも限らない。とまでは 留保条件をつけたほうが よいのでは? という物言いだったでしょうか。 ⇒確かに、「知らないより知ったほうがよい」とは言えますね。ただし、「知った場合のほうがつねに有益で有利な立ち場にあるとは限らない」との留保条件はつけるまでもありません。それは最初から含意されていて「百も承知、二百も合点」の了解事項ですから。つまりそれは、「○○のためにはどちらが有利か」というような目的が限定された場合のみどちらかに決め得ることで、一般論的・普遍的に言えることではないでしょう。 > たとえば あたらしい造語の場合を考えてみます。 > それまでの思考の枠組みからはみ出したイメージを得て これを概念化し言葉としても表わす。 > このとき それまでの概念≒ことばとは違った何かあたらしいものが 言い表わされることになりますが それでも そのために用いられるのは いままでにあった言葉である。概念のズラシなどが ともなわれている。 ⇒オルテガはメタファー(隠喩・暗喩)を多用することで知られていますが、彼曰く、「それ(隠喩)は、真理の狩人が使う鉄砲である」と説明しています。つまり、真理に肉薄するために、「新しいイメージを得てこれを概念化し、言葉として表わそう」とするとき、現有の言語が物足りないから、幾分なりとそれに近い表現をするための道具としてメタファーを利用するのだ、と。「いままでにあった言葉で」表現するしかないことを自覚したときの、悲哀を伴う「次善の策」といったところでしょうね。 > 赤青黄という色のそれぞれの名(ことば)を知らなかった >だけであって > 色紙の赤と青と黄とはそれぞれ区別したのでしょうか? > という問い返しです。もし区別は出来たのであれば ただその色の名(ことば)を知らないようになっただけではないか? です。 > 言いかえると そこでは ふたつの領域があって それらの分類があいまいになってはいないか? > すなわち 知覚としての――知覚としてだけの――色の識別なる領域と そしてそれらの色を言葉で区別しつつ悟性や理性やで識別する領域とのふたつです。 ⇒視覚・知覚に異常のないことが検査で判明したことは、前便で述べたとおりです。「それらの色を言葉で区別しつつ悟性や理性やで識別する領域」がまさしく言語の担う部分なわけです。 視神経には、明暗を見分ける棹形細胞と色彩を見分ける紡錘形細胞とがあるそうです。人間を含む動物は一般に(動物により多少の差や偏りはあるようですが)両方の細胞を、多少なりと、持っている。つまり、ほとんどの動物は、色が見える。ただ、多くの場合、(目には)見えているが、(脳は)見ない。全部見ていたら疲れるからです。ある種の省エネです。それで、「あえて何かを見ようとするとき」に、意味づけの記憶が働くわけです。その「何かを見ようとするとき」とはどういうときか。多くの動物にとって、多くの場合「餌か、敵か、仲間かなどを見分ける必要があるとき」です。 リハビリで色の識別をやったときも、当該患者の目には(あるいは、網膜には)赤青黄の区別が「映って」いたはずです。けれども、それを「脳で見ることができない」のです。なぜなら、「言語による意味づけを失ってしまったから」で、それで外面的には「めちゃくちゃな」結果に見えたのでした。それが判明したからこそ、言語中枢を周辺の脳に機能移転すべくリハビリを行い、ある程度の成功を見たのでした。 > ★ 「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」とサピア・ウォーフ・・・〔が言った〕・・・「仮説」 > ☆ は 知性の領域の問題であって 五感についての領域には およんでいない。ように思うのですが どうなのでしょう? ⇒あり得るかも知れませんね。よく分かりません。 ただ、感受性があって何かを感じても、言語運用機能が停止している状況なら、それを表現できませんね。表現する局面は言語によるほかないでしょうから、外部から見ればそれは、ある種「(言語的)引きこもり」のように見えるのかも知れません。

bragelonne
質問者

お礼

 お騒がせしました。つい最近にも一件あったものですから ちょっとひやっとしたものでした。  まことにすみません。ご迷惑をおかけします。  基調としては まじめなスレッドであると思います。わたしが ときどき尾ひれをつけたりするものですから。  ご回答をありがとうございます。  前四つのパラグラフにつき そのまま鵜呑みにするほどであって 特に反応が出て来ません。です。  最後の第五段落。  ★ ただ、感受性があって何かを感じても、言語運用機能が停止している状況なら、それを表現できませんね。表現する局面は言語によるほかないでしょうから、外部から見ればそれは、ある種「(言語的)引きこもり」のように見えるのかも知れません。  ☆ ここには 反応を持ちました。  ここは 《感性》派としましては 《「自己中心的特殊規定」(egocentric particular,ラッセル)》に片向いたとしても なお食い下がりたいところです。  すなわち  ★ ある種「(言語的)引きこもり」のように見える  ☆ というとき それは 別の視点から捉えるなら   ○ みづみづしい感性の現われ  であり得ている。のではないか?  それは  ★ 言語運用機能が停止している状態  ☆ というよりも その何らかの光景を前にしてそれを言語に乗せて認識しようとするハタラキをすでに 情感が凌駕している状態と言ったほうがよいのではないでしょうか?  《引きこもり》どころか 《ひらきっぱなし》であって またそれゆえにこそ そのあとで言葉による認識もそれとしてゆたかに得られるようになる。と言える場合があると考えます。  次のように推し測った命題ですが なお持ちこたえることが出来ているように思われますが どうでしょう?  ☆☆ (No.28お礼欄) ~~~~~~~~~~~   もののあはれを知るのは 理性もかかわっているかと思いますが 身と心との全体としての自然本性にもとづくのであろうと考えられます。そしてどちらかと言うと 身のほう・つまり感性のほうに〔も〕 重点が置かれてもよい。こう考えています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

noname#214841
noname#214841
回答No.32

こんばんは。ショッカー戦闘員plapotaです。 >>《ひけらかすこと》を肯定的にとらえている方もおられるようですよ。 >>No.15さんです。 昨日あらはれてゐたのは、悪魔plapotaでした。 >>言葉をなぜ まなぶのか? 人とのつながりを、大切にしたいからです。作曲家の先生が陥れられたやうです。別のページで削除処理を受け、nonameになつてしまひました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 作曲家の先生が陥れられたやうです。別のページで削除処理を受け、nonameになつてしまひました。  ☆ 質問者としてか回答者としてか分かりませんが くれんげさんが 削除処理に遭うような投稿を寄せたということですか? 信じられないことですね。だって 売り言葉に買い言葉は わたしのほうだと言っていたのですから。  ぷらぽたさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~    >>言葉をなぜ まなぶのか?  人とのつながりを、大切にしたいからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ あなたは どこかで《人間と言葉との関係が ライフワークである》とかと言っていたわけですから 最初から ふざけないでやり取りをしてください。  生活世界から地球規模にまで広げたコミュニケーションのためということですね。  共生をめざす交通のためですね。

bragelonne
質問者

補足

 ただいま 趣旨説明欄に 次の警告のようなものが 出ています。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~  この投稿は、現在サポートで確認中のため、  質問と回答は他の方には表示されなくなっております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 削除という目も出ているのでしょうか。

回答No.31

>それと同じように 楽器の中でも 弦楽器であるなら いろんな種類があった場合に ギターのみをよくする場合であっても 三味線やシタールについて知っているであろうし もし実際に手に取ってみれば 何とか弾けることすらできるかも知れません。 ちょっと脱線するかもしれませんが、似ているものは互いの応用が利きますからね。格闘技だって 古武術の達人が 俄仕込みで ボクシングを覚えても、下手に ボクシング歴2年とか3年のアマチュアを簡単に負かしたりしますよね。なんか、そういう漫画がありましたね。「修羅の門」だったと思います。 あと、将棋の羽生名人はチェスも日本一です。将棋も知らずに チェス一筋の 相当な強者でも 羽生には到底歯が立たないはずです。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。そうだとすると 一芸に秀でることが 肝心だということにもなります。  でぃえち_くわとろさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  確かに 多くの種類にも通じていることは やはりつよいかとも思います。  ですから 手前味噌でよければ 《心の明け》が どちらの場合にも キモとなるようには思ったりします。  さらに 別の角度からツッコミを入れる人が現われますかどうですか。・・・

回答No.30

再び失礼します。ピザ屋の ディエチ・クアットロです。 bragelonneさんの質問の意図がよく分かりませんし、私も難しいことは知りませんが、#28さんの意見も一部頷ける部分があります。 私も 語学力と思考力の相関関係はよく分かりません。 でも、 日本語と英語は全く違うようでも 同じ地球人の言語としてのDNAは97%は共通しているんじゃないかと思うんです。だからこそ、互いに翻訳もできるわけです。 そして、言語も数学や物理も 記号の認識体系だと思うんです。 それで、#25さんも 強がりっぽいけど、結局は 言語を沢山学んだところで、分析的思考力が飛躍的に向上するわけでもないんだと思います。 でも、これは #28さんが言及した 道路の選択にも通じるかと思いますが、言語を沢山覚えれば、ツールが増えます。弦楽器でも ギターしか弾けないよりも 三味線とかシタールとかも弾ければ、音楽を演奏するにも選択の幅も広がります。でも、ギターを極めてセミプロの人と、色んな弦楽器を弾ける人では 前者の方が 周りの評価は高いでしょうけど、後者の方が 音楽を心から楽しんでいることが多いのではないでしょうか? また、三味線やシタールのテクニックを取り入れれば、そこで新しい創作が生まれるかもしれません。また、前者の人は 後者の人を馬鹿にすることも多いけど、これは価値観の問題で どっちがいいかとか他人がとやかく言う問題でもないように思えます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ bragelonneさんの質問の意図がよく分かりませんし、私も難しいことは知りませんが、#28さんの意見も一部頷ける部分があります。  ☆ そうですね。No.28のなかい702さんは 或る意味オーソドックスな見解を示しておられると思います。  ただ それに はいそうですねと答えるのも――ヘソが曲がっている所為か――わたしは嫌なので 別の見方はないものだろうかと 探して物言いや疑問をぶつけています。  No.25の ゆ_けん7さんにつきましては そのご見解が必ずしもわたしによくは分かっていません。  ★ ・・・言語も数学や物理も 記号の認識体系だと思うんです。 / それで、#25さんも 強がりっぽいけど、結局は 言語を沢山学んだところで、分析的思考力が飛躍的に向上するわけでもないんだと思います。  ☆ そうですね。程度問題だと言おうとしているのでしょうか?   およそ学問は 言葉にもとづきそれを使ってその認識体系をかたちづくるはずですが 言語学は そのような記号でもあるところの道具としての言葉そのものについて研究します。そのとき どのように 言語学とそのほかの学問とを比べているのか――つまりそういう専門のちがいのあり方――について いまひとつ納得の行くようなアプローチとしては まだ把握しえていません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも、これは #28さんが言及した 道路の選択にも通じるかと思いますが、言語を沢山覚えれば、ツールが増えます。  弦楽器でも ギターしか弾けないよりも 三味線とかシタールとかも弾ければ、音楽を演奏するにも選択の幅も広がります。でも、ギターを極めてセミプロの人と、色んな弦楽器を弾ける人では 前者の方が 周りの評価は高いでしょうけど、後者の方が 音楽を心から楽しんでいることが多いのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 例によって 質問者は 司会者でもありますので なるべく一方に片寄らないようにと――わざとでもありますが――しますと こうなります:  道筋をひとつしか知らないとしても ほかに別の道があるということまでは 知っています。道は つづいているのですから。  それと同じように 楽器の中でも 弦楽器であるなら いろんな種類があった場合に ギターのみをよくする場合であっても 三味線やシタールについて知っているであろうし もし実際に手に取ってみれば 何とか弾けることすらできるかも知れません。  弾けなくても ほかの道あるいはほかの弦楽器があるということは 承知しているはずです。つまり それは そのひとつの専門に閉じ籠っているわけではない。外のことや他のことは知らないけれど それらに対して 心は開けている。  このような心の明けが 重要なのではないか。とは 応答したのでした。  それゆえに ひとつのみを知る場合と 多くを知る場合との問題としては:  ★ これは価値観の問題で どっちがいいかとか他人がとやかく言う問題でもないように思えます。  ☆ と考えられて来るのだと思うのです。  ぎゃくに言えば 心が 閉ざされていたなら 一筋派であっても多筋派であっても あまり褒めたことではない。と思われます。  この《心の明け》なる要因を  ★ でも、 日本語と英語は全く違うようでも 同じ地球人の言語としてのDNAは97%は共通しているんじゃないかと思うんです。だからこそ、互いに翻訳もできるわけです。  ☆ というときに 加えて欲しい。といった観点からの議事進行になっています。

  • wy1
  • ベストアンサー率23% (331/1391)
回答No.29

訂正:おれと ではなく、”それと”でした。 気が付かず発信してしまいました。

bragelonne
質問者

お礼

 うけたまわりました。  わざわざていねいに知らせてくれてありがとうございます。  ちなみに 《ひけらかすこと》を肯定的にとらえている方もおられるようですよ。No.15さんです。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.28

「お礼」への書き込みをありがとうございました。 > 同じひとつの言語の中だけで意志疎通をおこなっていては 《自己を知り得ないか?》 ⇒はい、確かに「同じ一つの言語の中だけで意志疎通をおこなっていて」も、自己を知り得ます。ただ、「他の同類との比較から把握できる自己」、すなわち、「自己の特徴・特殊性・平均値との関係…」などは分からない、という意味です。 例えで恐縮ですが、父は家と駅を結ぶ道を1つ(A)知っています。兄は、3つ、例えば歩き(A)・自転車(B)・車(C)での最短路)知っています。両者とも「知っている」ことは共通ですが、父は、家と駅の間のどこどこに何々があるなどは詳しいでしょうが、両者を結ぶ通路の比較や選択はできませんね。逆に兄は、両者を結ぶ通路の比較や選択はできますが、(A)路については父より詳しくないでしょう。言語の場合も、これとまったく同じではありませんが、ある種の類比関係を読み取ることができると思います。 別言すれば、「同じ一つの言語の中だけでの自己認識」は、文献学(philology)的な知識であり、「他言語との比較における自己認識」は、言語学(linguistics)的な知識である、と言えるかも知れません。大学の学科や科目名を命名・呼称する際、前者の研究を重んじる場合は「国文学科・国語学」とし、後者の研究を重んじる場合は「日本文学科・日本語学」とするようです。 > ☆ 認識・見識・世界観などを涵養することにつながるものと信じます。 > ★ そうなんですが・つまり そのことにマチガイないと考えたあとでなのですが それでも《世界観》のように全体観としてのものの見方については 言わば言葉を超えて 何がしかのヒラメキのおとづれ〔を受け留め受け容れたこと〕によって それをかたちづくる。といった見解もあり得るように思うのです。 > その意味は したがって――母語については大いにまなびますが――外国語は知らなくても そのような《もののあはれを知る》といった世界認識は得ることが出来るかも知れない。 ⇒そうですね。「何がしかのヒラメキ」や「世界認識は得ることが出来るかも知れない」ことはおっしゃるとおりだと思います。ただ、その場合言えることは、「少なくとも1つ以上の言語的下敷き」があってのことでしょう。この点について私は、外国語の知識を絶対的な前提条件だと主張する考えはありません。「言語的束縛がある」とだけ申しあげておきます。時に我々は、「言語とは無関係に概念が心に浮かぶ」ように感じることがありますが、基底に言語の働きがあることを忘れているんですね。空気の存在を忘れるように、言語の存在と働きを忘れた結果の錯覚でしょう。言語を所有しなければ、それによって構成される概念を抱きようがないはずです。 > ☆ 言語はすべからく、有限個の材料を使いながら、無限の表現を可能とします。つまり、閉じた体系でありながら、無限へつながる開いた機能を有するということで、そのあたりの仕組みを学習する過程で我々は無意識裡に頭脳を鍛えていることになります。 > ★ と言っておられる論点は どうか? > わたしなどは 少し違った角度から こう考えたりします。すなわち 書きことばの効用があるのではないか? > すなわち 文字の効用ですね。 ⇒おっしゃるとおりだと思います。けだし、「文字も言語のうち」ですから。違うことは、音声が「第一の記号」であるのに対し、文字はその音声の記号化ですから、「第二の記号」もしくは「記号の記号」ということになる、ということだけではないでしょうか。 > 最後の段落でも 言語の持つ大きな役割と言語による人間の拘束というあり方とを ひっくるめて捉え 論じておられるようですが これは なおわたしにはピンと来ていません。役割りの重大さには納得し支持しますが。 ⇒当然ながら、我々は言語を使って考えます。ということは、逆から言うと、「言語を使ってしか考えられない」ということのようで、ある意味「言語がなければ考えられない」ということでもあります。「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」とサピア・ウォーフが言ったとき、これを「仮説」(hypothesis)としたのは、実験などで検証してみることができないからでした。しかし、これが「理論」とも言えるほどに確からしいことが、いろいろな形で明らかになっています。 例えば、これはフランスであったことです。ある人が交通事故で言語中枢(大脳の左額第三回転部)を破損しました。リハビリの手始めとして、「色の識別」をやりました。床にばらまいた赤青黄の色紙を、それぞれ同じ色の赤青黄の箱に分けて入れるように指示しました。結果はめちゃくちゃでした。「すわ、色覚異状」と考えて、あらゆる検査をしましたが、何ら色覚異常はありませんでした。何が問題か。やはり「言葉を失ったため」、という結論になりました。例えば、赤を識別するとき我々は、「血の色、太陽の色、ある種の花の色…に共通な要素」というような意味づけの記憶に基づいて行う。カシオペア座はWの形をしている、北斗七星は柄杓の形をしている、などの意味づけがあるからこそ、それぞれ識別できるわけで、それがなければ無数の星のうちの幾つかとしか認識できません。(なお、幸いなことに、言語中枢を失っても、周辺の脳にその機能を移転することができるそうで、上例の場合も長年のリハビリの結果、ほぼ日常生活には支障ないほどまでに回復したと聞いています。) そんなわけで私は、再度確認させていただきます。「人間にとって、一般に言語(外国語と限りません)は大きな役割を持つ」、「人間は、特に知的営為において(普段自分の使っている)言語によって強く拘束されている」。その意味で、我々にとって言語の学習は、極めて意義の深いことである。 以上、再伸まで。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきましてのご回答をありがとうございます。  そうですね。乗りかかった船ですので 《母語ひとつによる思想の充実》派に立つことにしますが:  その場合には    文献学ひとつで研究・思索をおこなうにとどまる。   比較対照をとおしての言語学には届かない。   国語学と日本語学との違いである。  ということのようですが そうですね 父と兄との世界認識の違いというタトエで考えてみます:   父はひとつの道のりしか知らないとき それでも   道はずっと続いていますから   知っている道のほかにも 道はいくつかあるのだ   とは知っています。当然です。    母語のほかに 外国には 違った言葉が話されている   とは知っています。  とすれば そのようにブラックボックスとなっているということは 承知しているわけです。それを知る可能性は 潜在的に じつは開かれています。  このような言わば《心の明け――つまり 閉じていないということ――》が じつは とうといものであると考えられませんか?  ★ 「他の同類との比較から把握できる自己」、すなわち、「自己の特徴・特殊性・平均値との関係…」などは分からない  ☆ というところのブラックボックスは 父にとって わくわくする未知の要素ではあっても 自己閉鎖的になるものではない。(なる場合もあるけれど それは 決まっていない)。  ぎゃくに 外国語をふたつ・みっつ知ったという場合 それによってブラックボックスが確かに開いた。けれども そうして未知でなくなり さらにはわくわくすることがなくなったとすれば むしろそのことが こわい。かも知れない。知ったかぶりになる可能性が出て来るから。  おそらく 知らないより知ったほうがよいと考えますが 知った場合のほうがつねに有益で有利な立ち場にあるとは 必ずしも限らない。とまでは 留保条件をつけたほうが よいのでは? という物言いだったでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この点について私は、外国語の知識を絶対的な前提条件だと主張する考えはありません。「言語的束縛がある」とだけ申しあげておきます。  時に我々は、「言語とは無関係に概念が心に浮かぶ」ように感じることがありますが、基底に言語の働きがあることを忘れているんですね。空気の存在を忘れるように、言語の存在と働きを忘れた結果の錯覚でしょう。言語を所有しなければ、それによって構成される概念を抱きようがないはずです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《言語的束縛》について少し分かったように思います。  たとえば あたらしい造語の場合を考えてみます。  それまでの思考の枠組みからはみ出したイメージを得て これを概念化し言葉としても表わす。  このとき それまでの概念≒ことばとは違った何かあたらしいものが 言い表わされることになりますが それでも そのために用いられるのは いままでにあった言葉である。概念のズラシなどが ともなわれている。  たとえば アマアガリと言えば それはまだ市民権を得ていませんが およそあたらしい概念として分かるはずです。市民から公民への出世のことです。もっぱらの公民たるアマテラスに成ることです。末は博士か大臣かといったようなことです。  さらには アマアガリ・シンドロームと言っても だいたい分かるのではないでしょうか。  これは スサノヲ市民が生活日常で使っている・あやまちうるスサノヲ人間語の世界から あやまち得ないアマテラス普遍語の世界へと転出し変身することを言っています。  普遍語とは 科学語でありそれに裏打ちされた倫理規範の言語です。(アマテラス科学語およびアマテラス人格語です)。が もし仮りにこの普遍規範語のみを駆使するようなお役人ことばの一色になるとしたら それは やばい。片寄った言葉しかしゃべることが出来なくなる。よって 症候群である。  要するに アマテラス公民は 自分たちのあやまちを認めようとはしませんね。それを指して シンドロームと言います。一般に市民もが そういう傾向を帯びるなら 症候群だと言えると考えます。  《あやまちうるスサノヲ人間語 と 普遍性をもとめるアマテラス科学語との人間人格的で構造的な配置》が のぞまれます。  といった事例を出しましたが これは 確かに従来までに使われていた言葉をあらたな概念として用いた。に過ぎない。その限りで ひとは言語に拘束されている。ですね?  ただ。ただです。ただ このようなあたらしい知見〔だと思うのですが〕は ひとつの言語たる母語の中でだけでも 得ることは出来る。かも知れません。  ――といったことを 問題提起しましょうか。  次のご議論にも なお疑問を呈しましょうか。  ★ ・・・リハビリの手始めとして、「色の識別」をやりました。床にばらまいた赤青黄の色紙を、それぞれ同じ色の赤青黄の箱に分けて入れるように指示しました。結果はめちゃくちゃでした。  ☆ この事例にかんする限りでの質問ですが:   この事故による脳の障害者は   赤青黄という色のそれぞれの名(ことば)を知らなかった   だけであって    色紙の赤と青と黄とはそれぞれ区別したのでしょうか?  という問い返しです。もし区別は出来たのであれば ただその色の名(ことば)を知らないようになっただけではないか? です。  言いかえると そこでは ふたつの領域があって それらの分類があいまいになってはいないか?  すなわち 知覚としての――知覚としてだけの――色の識別なる領域と そしてそれらの色を言葉で区別しつつ悟性や理性やで識別する領域とのふたつです。    言語中枢を失った場合 感覚による識別はしているのかどうか。そして ただし 言葉による区別はすでに出来なくなったことは 事実としてある。  まだ分かりませんが   ★ 「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」とサピア・ウォーフ・・・〔が言った〕・・・「仮説」  ☆ は 知性の領域の問題であって 五感についての領域には およんでいない。ように思うのですが どうなのでしょう?  もののあはれを知るのは 理性もかかわっているかと思いますが 身と心との全体としての自然本性にもとづくのであろうと考えられます。そしてどちらかと言うと 身のほう・つまり感性のほうに〔も〕 重点が置かれてもよい。こう考えています。

回答No.27

>例の益川さんは 外国語がてんでダメですが 物理学でいい研究が出来たのでしょう? 確かに。日本では母国語で何でも研究できるので、フィリピンとかインドとと違って 物理学では 語学力は二次的な問題になりますね。でも、数学者とか物理学者って変わり者が多いですよ。数式しか頭にないみたいな・・・・ >ただし その知人さんの悔しがるのを おのれが言葉のまなびのエンジンとするわけではないでしょう。 これは性格の問題でしょう。私も 負け惜しみの強い人間とは あまり親しくしようとは思いませんが。 > つまり そのことと《言葉をまなぶこと》とが ここでは どのようにかかわっているのか? です。 言葉をまなべば、器は大きくなるけど、器に何もいれなければ からっぽでしょ。 パソコンだって いくらHDの容量が大きくても 役に立たないようなファイルばかり入れるよりも、容量は小さくとも 有益なファイルを厳選している方が 役に立つし。でも、役に立たないような ファイルでも 思わぬ時に ものすごく重宝することがあるかもしれないし。

bragelonne
質問者

お礼

 いや まぁ ひとつの見方に固執するのもどうかという・ただそれだけのことでしたが。・・・  ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >ただし その知人さんの悔しがるのを おのれが言葉のまなびのエンジンとするわけではないでしょう。    これは性格の問題でしょう。私も 負け惜しみの強い人間とは あまり親しくしようとは思いませんが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 舌足らずだったと思います。  知らない場合より知っていたほうが 何かと便利であり重宝されます。それについて 貢献できていると思ってもよいはずです。そのとき それが出来ない場合にその人が悔しがるのを見て さらに仕事を高めつつ進めようと思っても よいはずです。原動力のひとつになるかと思います。  ただ それだけかなぁと思ったわけです。まだ 何かあるのではないかと。そういう問題提起です。  ★ 言葉をまなべば、器は大きくなるけど、器に何もいれなければ からっぽでしょ。  ☆ いやいや 分析的な思考能力が身に着くという回答内容に同意していましたよね?  いえ。それをなじるのではなく 視野が広くなって《器も大きくなる》とき そのとき同時に中身も入れているのかどうか? 入れているという場合には どのようにか? そしてそのやり方や姿勢のようなものを たとえばこの質疑応答の場で 情報交換してもよいのではないかと提案したようなことです。  ★ 有益な・あるいは役に立たないような ファイル  ☆ というのは 必ずしも《言葉をまなぶわたし自身》と別のものではないようにも思われます。器と中身とは 同時一体のものであるかも知れない。  といったことをみんなで整理していけるとよいのではないか。  こんなことを思いました。  

bragelonne
質問者

補足

 えあどべあけーげるすさん お早うございます。(agosto 21 giovedì )  あなたは 《問題児》なのですか?  まぁ わたしは 異端児スサノヲでしたが。(いまも そうであると言えば そうですが)。    反逆児ゆえに 人びとに見えないところがよく見える。世の中の見方が 違って来得る。  自己批判をきちんとおこなっておくようになる。  そうすると 他人(ひと)が思ったり振る舞ったりすることについて いいところも好くないところも分かるようになる。  自己批判をすでに終えた事柄については 他人にもそのことを 自由に問いかける。批判をおこなう。  といったところです。  ただし もし質問の丸投げをおこなっていたとしたら これは感心しません。  その質問者(つまり わたしですが)にさらに 再質問せよとか言えばよいのですから。ちゃうか?  ディエチオチョは そんなら 18 という意味と 10月8日という意味とのふたつを表わすことになるのですか?  授業料無しで おしえてたもれ。

回答No.26

私の 知り合いも#25さんと似たようなことを言っていました。でも、これって 語学の苦手な人の負け惜しみだったりする。私の知人も 外国語ができないことに、ハンディを感じていたようです。 確かに数か国語できても 中身のない人も多いけど、少なくとも 日本語しかできない人は視野が狭く、日本の常識を世界の標準だと勘違いしている人が多い。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。あなた まだ若いのに 考え方が よいと思ったひとつの道にこだわりますね。むろん そうすることによってこそ その道がやはりよかったとなるにせよ・別の道のほうがよりよかったと知るようになるにせよ その結論をよく捉えることが出来るのだとも考えられるのですけれど。  要らんことをしゃべって 応答しますが いろんな視点から捉える必要がありはしないか?  例の益川さんは 外国語がてんでダメですが 物理学でいい研究が出来たのでしょう?  あるいは  ★ 私の知人も 外国語ができないことに、ハンディを感じていたようです。  ☆ というのは確かに 事実なのでしょう。恥づかしいとさえ思っていることでしょう。  ただし その知人さんの悔しがるのを おのれが言葉のまなびのエンジンとするわけではないでしょう。  ★ 確かに数か国語できても 中身のない人も多いけど  ☆ この《中身のある人・ない人》ということが むしろここでの主題です。    つまり そのことと《言葉をまなぶこと》とが ここでは どのようにかかわっているのか? です。  かかわっていると判定されるなら どのようにまなぶことを 互いに情報交換しあっていけばよいか? つまり このカテのあり方についてです。    ★ 私の 知り合いも#25さんと似たようなことを言っていました。  ☆ につきましては その回答No.25についてのわたしの返答を参照してください。

回答No.25

6ヶ国語を同時通訳できる人と 日本語で分析哲学を極めた人 分析的な思考能力は遙かに後者の方が上です。 6ヶ国語を同時通訳できる人と 日本語で建築学を極めた人 建築についての見識は遙かに後者の方が上です。 要するに言葉が話せていくら分析力等が高くても専門分野の達人には相手にされません。 医学学会の世界会議の同時通訳なんて医学を学んだ人しか通訳できません

bragelonne
質問者

お礼

 ゆ_けん7さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  むむ。力点がどこにあるかが 読み取りづらいですね。  一方では 分析力などの思考能力を身に着けるには 母語も外国語をも・しかもなるべく多くをまなんだほうがよい。  他方では いくら分析的な能力をつけたとしても 言葉そのものを対象にしてあつかっている場合と そうではないさまざまな専門的な仕事に就いている場合とでは その専門の分野については専門の人に 言葉の能力の高い人も かなわない。  専門分野について専門家が ほかの素人の人よりたくみに仕事をこなせるというのは 当たり前ですよね。  思考力をつけるには 多くの外国語をまなんだほうがよい。これは 動かない。最後まで残るのでしょうか?  通訳・同時通訳あるいは翻訳という分野と 《分析哲学》とは どうも別なようにも思うのですが まづは 基本的に《多くの言葉をまなぶことに 趣味であっても何であっても 不都合はなく 取りあえず奨励されうる》ことに異論はありません。  ただそのとき よく考えると 《なぜ まなぶのか》という問いがあってしかるべきではないか? と思って これを問うています。  思考力をきたえるためというのは 確かに大方の同意する意見でもあります。  そしてのぞむべくは では 思考力をゆたかにするのは 何のためか? というところまで問いを推し進めております。いかがでしょう?  医学をまなんだなら その医療の分野で貢献するためという目的があります。  言語をまなんだときには それでは どういう目的があるのか?  1. 日常生活そのものにおけるコミュニケーションのため。  2. この生活を 地球世界にまで広げてみたときのコミュニケーションのため。  3. そのとき 異なる言語に接して 生活じょうのナラハシや文化的な産物にまで世界認識がおよび そのぶんおのがヒトトナリがゆたかになる。  4. 《2》なる世界において 《3》なるいわゆる教養をたずさえて 世界における仕事ができる。ビジネスあるいは公的な機関の仕事ができる。  5. ただ 何となくまだ残るものがあるように思われる。それは 言語学である。以上の四つの意義・目的にそれぞれ少しづつかかわっていつつ それとは違って――学問は 迂回生産であるからだとも考えられますが―― 独自の分野があるように思われるということ。  

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