- 締切済み
正義って 存在・繁栄する為のもの?
正義という言葉があまり使われないようになって久しいですが 僕の分析では 正義とはその主体が存在する為のもの と思えます アメリカも中国もロシアも 己の国が存続・繁栄するように行動し それを正義と称します。 互のエゴが違うわけですから その正義も守る存在が違います それで正義同士が衝突して 何が正義かわからなくなるのでしょう 昔は世界は一つ 世界は一家人類はみな兄弟姉妹という漠然とした思いがあったので 正義の味方が流行ったのですが・・・残念ながら世界は一家とは行かなかったので 正義も信じられなくなりました。 今一度正義を求める事は出来ないものでしょうか? 貴方は世界は一つという思想をお持ちですか?人間は皆人権があるのでしょうか?
- みんなの回答 (17)
- 専門家の回答
みんなの回答
- suzumenokox
- ベストアンサー率15% (35/229)
「正義とは人類の種としての繁栄と進歩に貢献すること」このように私は考えます。それを自然科学に立脚して人類が生物の一種に過ぎない存在であることから語っていくことによって、具体的な方向が見えてきそうな気がします。同時に、国同士のエゴによる正義のぶつかり合いの現状を一歩一歩改善していくための土台を構築していくことも可能になっていくのではないかと思っています。
- superkeroyon
- ベストアンサー率30% (14/46)
大きな衝突を避けるためには、ふたつのことだけがあればいいでしょう: 1:それぞれが人権(自由を含む)を尊重すること 2:人権を尊重するため、そして利害対立を調整するための共通のルール、しかも、強制力のある共通のルールが存在すること 上記1:は、人々の世界観が違ってもできることです。宗教サイドも無神論者も、人権原理を受け入れることが必要です。 哲学者の中には、世界観を統一しなければならないと主張する方がいらっしゃるが、人権(自由を含む)を尊重すればいいだけであって、世界観を統一はまったく必要がないどころが、無益な争いを産むだけです。 上記2は、世界政府ができるまで、現実的にはおあずけです。少なくともあと何百年かはかかります。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
yuniko99様、こんにちは。 >「貴方は世界は一つという思想をお持ちですか?人間は皆人権があるのでしょうか? 」 例えば、ある人について「人権など無い!」と言ったら、 すべての人に、人権など、無いことになります。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
世界は確実に一つです。 ですから、人権等は無いのです。 他と触れるからこそ、互いに侵害しあうのです。 此の世は争いがあるのがスタンダードなのです。 肉食動物に食料に対して博愛精神を説いて、何になります?
- simonmagus
- ベストアンサー率30% (210/689)
「正義の味方」という言葉が冠されたのは月光仮面 なのですが、その言葉はもちろん川内康範氏。 なぜ「正義」ではなく、「正義の味方」なのでしょうかと尋ねられて こう答えたそうです。 「(月光仮面の発想は)月光菩薩という仏に由来しているんだけど、 月光菩薩というのは脇仏(わきぼとけ)でね、決して主役じゃないんだ。 つまり、裏方なんだな。だから“正義の味方”なんだよ。この世に真の 正義があるとすれば、それは神か仏だよな。 だから月光仮面は神でも仏でもない、まさに人間なんだよ。」 その月光仮面のキャッチフレーズが 「憎むな!殺すな!赦(ゆる)しましょう!」ですもの。 武器として2丁の自動拳銃を持っているが、もっぱら威嚇と牽制に使い、 発砲しても悪人の武器を撃ち落とすためにしか使わない。 どこの誰かは 知らないけれど♪ で始まる「月光仮面は誰でしょう」 もちろん作詞は川内康範氏ですが正義の味方とは一体どんな人なのか。 月光仮面の おじさんは 正義の味方よ 善い人よ うん。簡潔です。正義の味方は善い人なんです。 ちょっと物足りませんか? なら二番の歌詞を。 どこかで不幸に 泣く人あれば かならずともに やって来て 真心こもる 愛の歌 しっかりしろよと なぐさめる 誰でも好きに なれる人 ここに描かれる正義の味方は悪を蹴散らし敵基地を破壊するものでは ありません。 不幸に泣く者に寄り添う正義の味方の姿です。 「しっかりしろよ。」そう慰める正義の味方…あの白いターバンと覆面に 黒サングラスと白マフラー、白の全身タイツの姿で。 だ、だ、誰でも好きになれる人!? 有名なのはオープニングの「月光仮面は誰でしょう」ですが、 私はエンディングの「月光仮面の歌」の方が切なさというか哀愁を帯びて 好きなんです。 歌詞全文をコピペしておきます。(良いのか、これ?) 「月光仮面の歌」 (作詞:川内康範、作曲:小川寛興、歌:三船浩) 1. 月の光を 背にうけて 仮面にかくした この心 風が吹くなら 吹くがよい 雨が降るなら 降るがよい 愛と正義の 為ならば 何で惜しかろ この命 我が名は月光 月光仮面 2. 辛いだろうが 今しばし 待てば幸福 やってくる まずしい人よ 呼ぶがよい 悲しい人も 呼ぶがよい 心正しき ものの為 月よりの使者 ここにあり 我が名は月光 月光仮面 こんな菩薩のような正義は国家や組織には不必要かも知れません。 しかし、個人の正義を語る時、私は強さよりも優しさに救われた事の 方が多かったように思います。 ただ、流石に昭和33年の実写版は後年に観たのですが古さは否めない。 私の記憶にあるのは1972年(昭和47年)から放映されたテレビアニメ版 「正義を愛する者 月光仮面」 主題歌の歌詞はかつてと同じだが、曲はメロディー、サウンドともポップス 調のものに変えられている。 主題歌を作曲した三沢郷は、歌詞が実写版と同じであることに気付かな いまま作曲したという。 wiki引用
- wakaranyo2
- ベストアンサー率8% (81/940)
共存共栄の世界ですね。海賊や山賊がいる以上交通整理し、ぶつから無いようにしなければ出来ないのです。元々襲う所がなければ生きていけ無いので淘汰していきますが、多くが助かるのです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 《正義》について考えるときには――つまりは一般に理念として持たれるような抽象的な概念について考えるときには―― それが論理的に整合性を有するかだけではなく 現実にどのように実行されるのかといった経験的な可能性をも考慮しなければならないのは 言うまでもありません。 あるいは個別の具体的な事象だけではなく・また一個人や一国家の立ち場からの行為だけではなく それらが関係しあって全体としてどのようであるのか。これについても 別の正義観があるかも知れないと考えられます。 すなわち: ★ 互のエゴが違うわけですから その正義も守る存在が違います ☆ というところから その全体観にまでも見方が伸びて行きます。 すなわち: ★ 昔は世界は一つ 世界は一家人類はみな兄弟姉妹という漠然とした思いがあったので ☆ というふうに 曲りなりにも総合的な見方が持たれてもいました。つまり これは 過去のことなのかも知れません。 ということは 最初の条件としての《経験現実性いかん》については 個別の主体による行為のほかにそれらの全体にわたる見方は いまではどうでもよいと捉えられているのでしょうか。 といったひとつの見渡しがまづわれわれの前にあるのではないでしょうか。 早い話が おらが国の正義が敵対する国に勝って あまねく行き渡れば それが全体観としての正義にもなる。というふうに考えるのでしょうか。 あたらしい大国関係のもとなる正義が まさに正義だとする或る国の見方が 全体にとっての正義であり秩序関係だということに成りがちなのでしょうか。 ただしこの《正義》観も ひとつ間違えば 《八紘一宇》なる世界秩序体系観とあまり変わらない。かも知れません。時代錯誤だと言っても聞かないのでしょうか。 いまの世界にとっての正義は やはり共生ではないでしょうか。共存共栄というと これまた八紘一宇なる思想の専売特許ですらあるのですが。 それでも 共生が 正義なのではないでしょうか。 共生にもとづき 人権も考えられるのではないでしょうか。 ★ 正義とはその主体が存在する為のもの と思えます ☆ 主体どうしの関係に 正義はあるのではないか。それは 共生という理念なのではないか。と考えます。きわめてかんたんな議論でしたが。
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
『儒教における義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた(義利の辨)。 キリスト教における義という訳語は、ギリシア語で(…)罪の対立概念とされる。これは他者に対して義(ただ)しい、誠実な、偽りのない態度で臨むこと、またそのような態度が可能である魂の状態をいう。義しい人を義人と呼ぶ。』~ウィキぺディア「義」 宗教によって正義とするものが違いますね。 儒教では利他主義と反する愛他主義を、キリスト教は罪の対立概念を義としています。東洋と西洋哲学の違いが明確に出ていますが、儒教の方が具体的といえるでしょう。 >正義とはその主体が存在する為のもの 確かにそうですね。「主体が存在する為」というのは、個人から社会、国レベルでの「生存本能」であるといえますね。 古今東西、小説からドラマ、映画は「戦い」が描かれますし、皆「アクション」を好き好んで見ています。つまり「暴力」はヒットを左右する大きな要素。その世界の中で「正義ための暴力」が肯定的に受け入れられている。実際の個人や戦争は受け入れ難くとも、フィクションの世界なら娯楽となる。すごく矛盾してます。 私はアメリカの商業主義的映画が嫌いです。 ジョン・フォードが描いた世界は「古き良きアメリカ」です。しかし映画の中でも先住民であるネイティブ・アメリカンを迫害していたわけです。 初めて観た十代の頃には単に「かっこいい」としか思っていませんでしたが、世界や歴史を知るにつれ、アメリカに対する印象は悪くなりました。 3.11以降、現代の正義に反する「悪」は先住民にとって代わり、「テロ」になりましたが、それ以前にもベトナム戦争やイラク情勢に干渉するアメリカはあくまでも自国を装飾するための「正義」としての題材にとるだけで、敵側の云い分については何も描かれていないような単純な「正義対悪」の二項対立的考えはつまらないし、危険です。 戦うというのは本能の一部だという説がありますし、スポーツは戦争の昇華されたものだともいわれています。でも生存本能だけで生きている動物や植物とは、「正義」という概念をもつことができるというところで大きな違いがありますよね。 正義とは概念のひとつです。概念は人が作ったものであるかり、変容しつづけるもの。 だからこそ「はじめに正義ありき」として動くのは正義ではないと思います。 たとえば既存の宗教の教えについて懐疑をいだくことないことは、大衆心理を煽る指導者の正義にからめとられているにすぎません。 人を神として崇めるのは、教祖も完璧ではない人間の一人であるという事実を否定し、人を神聖化することによって神が定める正義を人にもゆだねるということですから、危険です。 私にとって正義とは偽善や欺瞞との戦いです。 正義と称していても、そこに見返りの期待や打算があれば正義とは言えないと思うのです。 正義を行う前に、まずそれが本当の正義かどうかと考えること。 「相手のために」という言葉を「国のために」と言い変えると、本当に相手(国)はその行為を必要としているのかと思えるはずです。 たとえばテロに対する報復は正義といえるのか。 対立している国に過干渉するのは正義といえるのか。 つまり正義は独立性の高いものであるべきです。 正義は社会との相克です。 たとえばいじめの現場にいて、加害者から加担を要求された場合、いじめという悪に向かうとき、加担や傍観者でいるのも「悪」です。それに対して否といえる勇気は加害者に示す以前に自分との戦いになります(容易に言えないという葛藤がある場合ですが)。 だから正義を実行する際には、敵が強く、多ければ多いほどの勇気と自律性が必要になります。 またその正義が客観的に正しいものでなければなりません。それは人が作った、また自らをそれと名乗る「神」にゆだねるのではなく、自分のうちにある「義」に従わなければなりません。その義とは苦しんで泣いている者への共感だと思うのです。 正義を説く「何が」「誰が」信頼に値するのか。 本当の正義は勝利」勝ちとるものではないと思います(負けるが勝ちということもあります)。 正義のために争うというのは自分との戦いです。 冒頭の義について戻りますが、罪とするものは正義とは何か?を問うことと同じでこれも難しい抽象概念です。私は愛他主義こそ正義だと思います。自分を捨てるに至るまでは困苦の道のりしかありません。だからこそそのとき「正義」が試されるのだと思います。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
No.7です。早々のコメントありがとうございました。それぞれの回答へのお礼を読んでみて、質問者様の定義する「正義」なるものが「大国による価値観の対立」であったことも初めてわかりました。 その上であらためて仕切り直しの形でお話ししましょう。少し前の話になりますが、政治学者のサミュエル・ハンチントンという方が、こんな分析視角を提示しています。 21世紀の世界の有り様を分析する方法としてこれまでのモノサシでは測れないものがあり、それに変わる新たな手法を示す言葉は「文明」であるとの提言です。 これは別に目新しいものではなく、経済学者がサボっていただけの話で歴史学や政治学の世界では疾うに知られてもいた古典的な手法ともいえます。 質問者様が疑念をお持ちである対象が冷戦崩壊以前の2つの超大国とその価値観を基準としているならば、それは既に過去のものともいえましょう。実際にマルタ島の小舟の中で遣り取りされたブッシュとゴルバチョフによる膝詰めの話し合いで雪解けへと向かいもしました。 けれども彼等の頭の中、殊にアメリカの頭の中にソ連とは別の大きな組織に対する目線があったかといえば疑問になります。その別の大きな組織こそが一触即発を防いできたヨーロッパです。 実際に雪解け前の80年代前半には、戦術核と戦域核の配備が自身の庭先であることから当時の西ドイツを中心に大規模な反対運動が行われてことも憶えておいででしょう。それほどにアメリカは我が儘でもあった。そして対峙していた相手が消滅したことから、今度は違う相手を探して中東に触手を伸ばし始めてきたともいえます。それまでもイスラエルを維持するために何かしら中東に介入してきたものの本腰を入れ始めたのはサウジをはじめとする独裁体制への支援といっても他なりませんが、その形がその形が仇為す結果となったともいえます。 ことは深刻です。キリスト教的価値観を絶対視するアメリカとイスラムに規範を求める地域ではそれらが育まれてきた土壌や背景も異なり、一朝一夕に道徳論で片付けることは至難の業と言っても過言ではないでしょう。 「世界は一つ 世界は一家人類はみな兄弟姉妹」との考え方からすれば、確かに対立だけでは何も残らないといえますが、どうやってその溝を埋めていくかとの提案がなければ単なる机上の空論ともいえるでしょう。 そして「対立と共存」の2つの間で解を求めようとしてきたことがこれまでの「大国支配」による結果です。AかBか、表か裏か、といった不毛な二項対立では何も解決できない。けれどもそこにヨーロッパ的思考(あれかこれかではなく第三の道を模索するとの方法)を現実的な選択肢に組み入れれば解決できる問題です。 でもアメリカは嫌がるでしょうね、何しろカウボーイ的な発想から未だに脱却できない状態ですから。そうした彼等にこそ、違う考え方もあるよねと言える良心的な部分もアメリカ国内にあるにはあるのですが、庶民レベルではそうした感覚を持つことは不可能に近い。 追記 「正義」や「人権」との抽象的な文言に質問者は終始していますが、それも個別具体的な事例と普遍との間の関係を明確に示させねば説得力はないに等しいと存じます。 「何に対しての」或いは「何に基づいての」はそうした基本的な問題点といえ、それが説明されていなければ単なる感情的道徳論の域を出ないといえます。そのため8ヵ所ほど登場する「正義」の内容が揺らいでいて論旨が不明ともなっています。
- jiyu-gene
- ベストアンサー率0% (0/2)
No6です。 正義の味方とは何だと思いますか? 貴方の回答を見てたら、愛(奉仕の心 優しさ 良心 等)を正義と言ってるように感じました。 言葉の意味の捕らえ違いなんですが、 悪から皆を守るのが正義だと僕は思ってます。 だから、正義には敵が付きもの。で、敵を作ってしまうのが問題なんです。 世界は1家 人類はみな家族 と言うのに、世界の中に敵を作ってしまうなんて おかしい と思いませんか? アメリカはアメリカ側で、ロシアはロシア側で、正義だの悪だの言うから、正義同士で争いが起こるんです。 テレビのヒーローにしてもそうです。 悪をこの世から消し去れば平和になる なんて幼稚過ぎると思いませんか? この様な考えだと思いますよ? アメリカもロシアも。
お礼
敵を作る必要はないでしょう お互いの正義の主張をすり合わせて 調和点を見出せばいいのです 話し合いで合意できれば戦う必要もありません 正義の在り方も昔とは違って来たのではないでしょうか どうもありがとうございます。
- 1
- 2
お礼
あと何百年ですか そこをもう少し早くできないものでしょうかねえ? 人権を守ることには賛成です 世界観の統一は何百年かかかっても構わないと思います 自然と同様になっていくでしょう どうもたいへんありがとうございます。