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明石藩主・松平斉宣が行列を横切った幼児を殺害?
このような噂話があったことは事実でしょうが、「行列を横切った幼児を殺害した」のは史実ではないと思うのですが、教えてください。 Wikipedia 「松平斉宣」の記事の一部です。 『甲子夜話』が記すところによると、斉宣が参勤交代で尾張藩を通過中に3歳の幼児が行列を横切ってしまった。斉宣の家臣たちはこの幼児を捕らえて宿泊先の本陣へ連行した。村民たちが斉宣の許へ押し寄せて助命を乞うたが斉宣は許さず、切捨御免を行って幼児を殺害してしまった。この処置に尾張藩は激怒し、御三家筆頭の面子にかけて今後は明石藩の領内の通行を断ると斉宣らに伝えた。このため明石藩は行列を立てず、藩士たちは農民や町人に変装して尾張領内を通行したという。 松平斉宣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%96%89%E5%AE%A3
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この異常な無礼討ちは事実の可能性があります。 尾張家との確執について、明石藩の資料にありました。 十一代将軍家斉の二十五男の周丸が明石藩の養子となり、のちに斉宜藩主となった。 六万石から八万石に加増された。(持参金ですか) 将軍の子が大名の藩主になると御三家へ挨拶に行く慣例がある。 尾張家へ行ったところ、正門から通れるのは、十万石以上の大名に限るとの事で、側門から入らされしかも鄭重な扱いを受けず、斉宜は大いに不満だったという。(同じ家康の血を曳く間柄なのにつれない扱いだ) 勿論参勤交代の話は載っていません。 供割をした幼児の処分を聞かれた斉宜は、あの時の屈辱を思い出し斬れと命じたのかも知れません。
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- isaa535
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明石藩の無礼打ちの伝承は4件、天保年間の松平斉宣で2件あるようです。 1.回答4の1720年頃 明石藩初代松平(越前)直明 又は二代松平(越前)直常又は 三代松平(越前)直純 の行列 東海道にて子供が無礼打ち 2.回答6の天保年間 松平斉宣の行列 尾張荻原宿の暴れ馬を押さえようとした佐吾平が無礼打ち 3.天保年間 松平斉宣の行列 木曽で猟師の子が無礼打ち 4.松平斉宣の8代前の松平直明の行列 駿河三島で尾張藩浪士の娘を無礼打ち 4件すべて松平(越前)家で、松平斉宣の2件がいずれも尾張藩より抗議を受けいる様です。 山本博文著の参勤交代は甲子夜話を元に書かれたと思われますね。 http://hyakkaido.travel.coocan.jp/simodakaidou1misimaizunagaoka.htm http://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn000319.html 言成(いいなり)地蔵尊の祠がある。地蔵尊そのものは厨子の中で見えないが、写真によると穏やかなやさしい表情だ。案内板によると、貞享4年(1687)、三島二日町の尾州藩の浪士、尾張屋源内の娘小菊(当時6歳)が播州明石の城主松平若狭守直明の行列を、向こう側の母親の方へ行きたくて横切って大騒ぎになった。「無血」の大名は、周囲の有力者の人達の命乞いにも、泣いて詫びる幼女の悲鳴にも耳をかさず、幼女を斬り殺したという。父親の源内は元尾張藩の砲術の名手で、わが子の仇を討たんと、箱根山中塚原新田で大名の通るのを待ち伏せ、発砲したが、家臣の機転で空駕籠に当たって無念の涙をのんだ。哀れな幼女の死を悼んだ村人は、大名の言いなりに斬られたことから言成地蔵尊として祀ったという。涙なくして読めない内容だ。 山本博文著『参勤交代』(講談社現代新書)に似たような話が書かれていたのを思い出した。家に帰ってそのp104以下を読み直してみると、明石藩主の参勤交代は一緒だが、時期や場所が違う。場所は木曽路、行列を横切ったのは猟師源内(名前は同じ)の子で3歳ばかり、斬り捨てた藩主は11代将軍家斉の第53子で明石藩に養子に入った松平斉宣だった。山本著によると、御三家筆頭の尾張家は、領民を斬り捨てるとは許し難いとして、尾張家の領内の通行をご無用にしたので、以後明石家は、町人か農民の姿で通行したという。山本著にはさらに後日談が紹介されていて、切り捨てられた幼児の父親源内は、明石侯松平斉宣を木曽路で待ち伏せ、鉄砲で撃って仇討ちをし、「馬鹿殿」は、弘化元年(1844)20歳で木曽路の露と消えたという。
お礼
度々のご教示、ありがとうございます。 言成地蔵尊の伝承によれば、事件は貞享4年(1,687年)とはっきりしていますね。 三島二日町の尾州藩の浪士、尾張屋源内の娘小菊(6歳)が明石の城主松平若狭守直明の行列を横切ったと、状況も具体的です。 どうやらこちらが元の話のようです。 「甲子夜話」の方は、事件の起きた年月を書いてないので不明ですが、巷間の噂話を書きとめたとすると、事件は天保11年(1840年)か12年のことと推定できます。 言成地蔵尊の話が連綿と150年あまり続いてきたということは、信憑性があると思いますね。 専門家ならどのように解釈するのか分かりませんが、私は素人なので、言成地蔵尊の話を信じたいと思います。 この話が元になって、天保年代の話が作られたと解釈します。 専門家は、「尾張藩の砲術の名手」の実在を調べるのでしょうね。 山本博文著『参勤交代』(講談社現代新書)は、私もずっと前に読みました。 回答していただいたお陰で深く掘り下げて事実を追究することができました。
- isaa535
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回答4の補足です。 やはり猟師の子供と佐吾平と言う暴れ馬を取り押さえようとして無礼打ちにあった2つの話があるようです。 はっきりとした文献は見つかりませんでした。 また、下記の明石藩の領地の半分を没収は明石藩の全領地を指すのか 尾張内の飛び地を指すのかわかりませんが下総綜合ken究所さんのホームページ上http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kinki/akasi.html は松平家が藩主の時に領地は没収されていないようです。 http://eachweb.org/aticles/068/imamukashi.html 孝行息子殺害で異例の処分? それは天保年間(1830~44)、播州明石藩の藩主・松平斉宣(なりのぶ)が参勤交代で 江戸へ向かう途中での出来事だった。 萩原宿の馬方だった佐吾平が暴れ馬を取り押さえようとして、この大名行列の前を 横切ってしまう。このため佐吾平は、「無礼打ち」として切り殺されてしまった。 佐吾平は盲目の母の面倒をよく見ていて、孝行息子として知られていた。 そのため周辺の人々はこの死をいたみ、街道わきに小さなほこらを建てたという。 さらにこの話には後日談がある。事件が徳川御三家の尾張藩内で起きたため、 尾張藩が明石藩に強く抗議したのである。藩の面目や「一方的な無礼打ちは 許し難い」との判断によるものだという。 その結果、明石藩は領地の半分を没収。さらに尾張藩領内を通行する明石藩 の大名行列は、夜間のみ、しかも葬式の服装でしか認められず、名古屋城下では 、船で堀川を上下させられた。その後、昼間の通行が許可されたものの、 昼間でも提灯をつけ、夜装でのみ認められたという。 強者への怒りが生んだ伝説? 上が「佐吾平」にまつわる言い伝えだが、実はこの話を裏付けるような資料は存在しない。 しかし完全なフィクションとも言えないようだ。この話は尾張一帯に伝わっており、 浪曲や芝居にもなっているからである。 明石藩の行列が葬式の服装でというのも、天保15年の行列が藩主の 「御遺骸上り」だったことからのようだ。これらのことから、まったくの 作り話ではなく、何らかの事件が土台にあったものと思われる。 大名行列での横暴など、強者・武士に対する弱者・庶民の怒りが、 何らかの事件をきっかけに話を増幅させたというのが真相かもしれない。 なお、当初木製だった「孝子佐吾平」の碑は、地元住民によって 「孝子佐吾平遭難遺跡」として昭和30年に建て替えられた。 戦後の新憲法制定時の国務大臣・金森徳次郎が碑の文字を書いたという。
お礼
こんな例もあるのですか。 尾張藩が明石藩を嘲った内容ですね。 「大名行列での横暴など、強者・武士に対する弱者・庶民の怒りが、何らかの事件をきっかけに話を増幅させたというのが真相かもしれない。」ということでしょうね。 「御遺骸上り」の行列であったとの記事はたいへん参考になりました。 度々のご教示、ありがとうございます。
- isaa535
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どうやら暴れ馬取り押さえようとした人が切られたと言う説もあるようです。 それとも明石藩は2人を無礼打ちにしたのでしょうかね。 天保年間(1830-43)明石藩松平斉宣の参勤 交代の折、暴れ馬を取り押さえようと行列を 横切った佐吾平は無礼討打ちにされた。尾 張藩は領内で起こったこの事件を重く見て抗 議した。以後、明石藩が尾張藩領内を通行す るときは葬式の装いをして通行したといわれる。
- isaa535
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なぜ静岡なのかわかりませんが、西福寺という所に 無礼打ちにされた子供の供養のために寄進・建立したとされる 銅釈迦仏像があるそうです。 松平山・無量山・西福寺・静岡市(以前は西寺町)にある。浄土宗、本尊は阿弥陀如来、 開山は円光大師十五世の法尊了伝で彼は家康に従って戦功があったので地所資材を賜って当寺を創建した。 空襲で焼ける前には境内に220年以上も長い間風雨にうたれながら大・小二尊の大銅仏が鎮座していました。 「寺町の大仏」とか「濡れ仏」とかいわれた。この仏像は釈迦仏像(九尺)と阿弥陀仏像(六尺)の二体で、 高い石造の台座の上にて慈悲深いまなざしで、俗界を眺めていました。 銅釈迦仏像は、寺伝によると、東海道の街道で、参勤交代のため通行中の大名行列(明石藩)を横切った罪で 無礼打ちにされた子供の供養のために寄進・建立したとある。父親は安西の旧家、五郎右衛門という人で、 子を思う親心と、当時の駿府人の心意気が顕されていた。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 こんな例もあるのですね。 藩主・松平斉宜の参勤は、天保11年(1840年)か12年ですので、銅釈迦仏像が寄進された時代とは百年以上の隔たりがあります。 明石藩の参勤交代の途上、何か事件があったのかも知れません。
- isaa535
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こういう書き込みを見つけました。 尾張藩の猟師の子供を無礼討ちにしたせいで、父親の猟師に撃ち殺されたと伝え られているのは明石藩主・松平斉宜(十一代将軍家斉の子)。 公式には病死扱いなので、撃ち殺されたのか本当かどうか今となっては確かめ ようもないが、領民(それも幼い子供)を手討ちにされた尾張藩が激怒し、以後 明石藩の行列が領内を通行するのを禁じたのは記録に残された事実。 この一件は映画「十三人の刺客」の元ネタ。ただし、映画に登場したバカ殿様は 斉宜ではなく、なぜか先代の斉韶ということになっている。 明石藩の行列が領内を通行するのを禁じたのは記録に残された事実。 後に藩領の通行を許可されたけど、裏街道を殿様も駕篭を降りて徒歩、しかも 槍道具類を全て倒して全員頬かむりして抜けたと聞いたことがあります。 たしかその猟師も、元尾張藩士だったとか何かで読んだ記憶があります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ご教示の「書き込み」と同じ内容の記事が多くのサイト、ブログに出てきます。 元の資料は「甲子夜話」なのですが、Wiki では、「甲子夜話が記すところによると」と断ってあります。 「甲子夜話」は巷間の噂話を多く含んでいます。 「明石藩主の幼児殺害」の事実は、他の史料で確認できるのでしょうか。
- Pinhole-09
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ウィキの字が間違っています。 正しくは松平斉宜(なりこと)です。 斉宣ではありません。 ところで本題の方は、面白い噂話として伝わったのでしょうが、実話ではないでしょう。 供割、供先切は無礼打ですから、死に値する無礼がなければ出来ません。 江戸時代でも人の死は重く、武士が町人をあっさりと無礼打ちにするのはドラマの上の話です。 人を殺せば理由を調べられ、不当な殺人とされれば、藩を首になり浪人になるか、場合により切腹です。 領内なら兎も角、余所地ではもめ事を起こすなとは行列の鉄則でした。 横町から町人の行列が来たら、行列を分断し横切ろうとした人々が渡りきるのを待ち、再び行列を繋ぐようにせよとまで言っています。 江戸御府内などではひどく、意地の悪い直参旗本がわざと馬上のまま、大名行列の供先を切る無礼をしてもじっと我慢したそうです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 松平斉宜(なりこと)ですか、ご指摘ありがとうございます。 ご回答の内容は、私と同意見ですね。 どなたかの反論を待っています。
お礼
わざわざ明石藩の史料を調べてくださったのですね。 そのような確執があったのですね。 幼児を切捨御免で処置したのが事実であれば、何年何月、どこの宿場でという程度の記述があってしかるべきと思うのですが、尾張領内という情報だけです。 天保時代であれば、庄屋・名主の日記や宿場の記録も多く残っていると思いますが、「甲子夜話」以外の記録はないようです。 私もいろいろ本で調べたのですが、見当たりません。 また、松平斉宜が死去したのは弘化元年(1844年)です。 甲子夜話の著者松浦静山が死去したのは1841年ですから、猟師が復讐したという話は、「甲子夜話」に後年付け加えられた作り話だと思っています。 猟師が大名行列の駕籠に向かって発砲し、城持ち大名を射殺したという筋書きだから驚きです。 かなりすっきりしました。ご回答、誠にありがとうございます。