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牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳はいつからこのように呼ばれているのか、ご存じの方、教えてください。 また、なぜこのような名称がついているのかご存じの方もいらっしゃいましたら教えてください。
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- chiha2525
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正しいかどうかは不明ですが、下のリンクのコメント欄に、八角形→あさがお→牽牛子、という説が書かれています。(コメント者の思い違いの可能性も) http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-01-24&pagename=nice 個人的には、地名『越』(これは小市(オチ)が転じたもの)から、ケン越→牽牛子ではないかと推測しています。ケンは何かは分かりませんが。 ただ江戸時代の呼び「ケンゴウシ」と、ウが入っているのが気になるところではあります。 牽牛子→あさがお、はあっても、あさがお→牽牛子、は無いように思います。
- toshineko
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kiyouto33さん,こんにちは。 私は当古墳は見たことはありませんので,ご参考程度とお考えください。 (1)いつからこのように呼ばれているのか。 推定ですが,奈良~平安期においてだと思われます。 これはその時期に朝顔が渡来したからというわけではなく, 都が北に移り,被葬者が誰なのか知る人がいなくなってからだと推測します。 地元で「ケンゴシ」塚と称していたものに「牽牛子」の字をあてたのでしょう。 (2)なぜこのような名称がついているか これも推測ですが,古代の街道「紀路」と関係があるとおもいます。 古墳が位置する場所は飛鳥から紀州へ抜ける街道沿いの丘陵地にありますよね。 丘陵越えの道でしたから,紀ノ越(キノゴシ)と称していた可能性が有ります。 これが訛り,キノゴシ~キンゴシ~ケンゴシになったと考えるのはいかがでしょう。
お礼
なるほど。紀州への丘陵越えという地理と、字の「越」から「キノゴシ~キンゴシ~ケンゴシ」を推察されるとはすばらしい。No.3の回答者の回答と甲乙つけがたく納得できます。ありがとうございました。
牽牛子塚古墳と「古墳」を付けて言われるようになったのは発掘調査以降です。 地元では古くから「牽牛子塚」と呼ばれていたようです。 誰が何時から、というのは分かりません。 幕末の、郷土史家というか考古学の先駆者とでも言える北浦定政という人が書き残した文書にこの塚について「越村にケンゴウシと申亦朝顔と申由」と書かれているのが、分かっています。 詳しくは下記のサイトをご覧ください。 牽牛子塚古墳現地説明会2004.2.15 - 邪馬台国大研究 inoues.net/ruins2/kengosi.html このサイトの末尾に「牽牛子塚古墳 明日香村の文化財(15)」という項目があります。 この項目の中に記載されています。 牽牛子=朝顔の種、については下記のサイトをご覧下さい 牽牛子塚古墳の閉塞石 | 奈良の宿大正楼 www.narayado.info/nara/kengoshiduka-stone.html サイトの後半で薀蓄をかたむけています。 発掘する前から牽牛子などという難しい字で呼ばれていたとすると、相当に古くからの言い伝えではないのでしょうか。
お礼
大変ていねいに教えてくださってありがとうございました。さっそくサイトを読んでみました。やはり、いつからの呼称か、およびその理由の真相は闇の中のようですね。しかし、勉強になりました。ありがとうございました。
お礼
う~ん、なるほど、八角形の塚→朝顔→牽牛子という連想ですね。No.2の回答者の方の「キノゴシ→キンゴシ→ケンゴシ」説も納得できますが、こちらも十分ありえますね。ありがとうございました!