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伊達正宗の二本松攻略
古い大河ドラマをみているのですが、伊達正宗は二本松義継の領土半分召し上げでの降伏を認めず、結局父テルムネ拉致を企てての離反を招いています。 その後の弔い合戦でも芦名佐竹の連合軍に攻められ結局二本松家をつぶすことができず和議となっています。 これは戦略的に見て政宗の失策なのでしょうか。
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ハッキリと言えばこれはまだ十代だった正宗の「若気の至り」による失策でしょう。 当時は大勢力の周囲に位置した中小の国人領主は優勢になった側につく事を繰り返して自分達の勢力の安堵を求めるのが基本であり、降伏した相手は領土の全てとは言わなくとも大半を安堵するのがならいでした。 そこから考えると半分召し上げですら、二本松側がかなり下手に出ている状況なのに、そこで殆どの領地を取り上げるのはやり過ぎです。 実際、質問者様もご存じのように、この処遇の後で反伊達連合が結成されて正宗は窮地に陥っています。 これは二本松に対する処遇から「一度伊達に逆らったら、降伏しても滅亡同然まで追いやられてしまう。ならば伊達を倒すしか無い」と周辺の勢力が危機感を抱いた事も一因にあると思われます。 これらの苦い経験から学んで正宗は成長するわけですが、やはりこの時点では重大なミスだとしか評価出来ません。
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- eroero4649
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難しいところですね。重要なのは、これは伊達家と二本松家だけの問題として考えてはいけないということです。他の中小の家も伊達政宗が二本松に対してどのように接するのかを注意深く見ています。政宗とその側近としては、安易に妥協することで「政宗は甘いな。妥協をしてくれるのだ」とナメられてしまう、という恐れはあったと思います。まだ彼も若かったですからね。「若いからと見くびられたくはない」という思いもあったのではないかと思います。 もし政宗が妥協をすれば、伊達領周辺の中小勢力が政宗の命令を聞かず、そのせいで伊達家中でも内部分裂が起こりかねません。後に政宗が成敗せざるを得なかった弟小次郎という不穏分子が家中にあったことを忘れずに。政治的な妥協は家中の反主力勢力からの突き上げの材料を与えかねません。 結果として芦名佐竹連合軍が大軍でやってきて政宗は最初の危機を迎えるわけですが、人取橋の合戦で大軍の芦名佐竹連語軍に対して寡兵よく迎え撃ち、佐竹家にアクシデントが発生しての結果オーライだったとはいえ退けたことは、伊達政宗の武名を東北に大きく轟かせたのですから、あながち失策とはいいがたいです。 戦争やスポーツの世界では、そういう「危機的状況からの・・・」ってのがしばしば起きるのです。例えば何かと話題のサッカーワールドカップの前回大会南アフリカ大会では岡田ジャパンは16強入りを果たしたのですが、開幕直前は三連敗必至の危機的状況で、それでなくても岡ちゃんはフランス大会で三連敗を喰らっているので、ワールドカップで六連敗した監督って皆無らしいのでそんな不名誉な記録に名を遺すことはなんとか避けたかった岡ちゃんがもうヤケクソで自分がやりたかった戦術をすべてかなぐり捨ててガチガチに中央を固めるというセコい選択をしたことがかえって16強入りを果たしたわけですから、そういうことも起きるのです。
お礼
安易な妥協をできないというのが逆にやり過ぎたというのはよくある話ですね、御回答ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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それまで政宗は離反した豪族などを許したりしてました そのたびに謀反を繰り返し また戦… その繰り返しだったのです だから二本松は叩きのめす必要がありました 今後は厳しい処断を下すぞ と言う姿勢を周辺に示す必要があった 若いころの政宗はそれほどの戦略家ではありません 見かねた師匠の虎斎和尚は政宗に「汝人を知れ、知ることなればまた人となさん」と説いています 若いころのこのような失敗があったからこそ 政宗は奥州の独眼流となりえたのでしょう 確かにこのときは戦略的には失敗です しかし後の伊達政宗を生み出したのはこういった失敗を糧に成長したおかげでしょう
お礼
御回答ありがとうございました。
お礼
御回答ありがとうございました。