名将だったと思いますよ。
人取橋合戦は、佐竹家始め南奥連合軍が3万ともいわれる軍勢を集めたのに対し、伊達軍は7千とか5千とかいわれています。一般的にいって正面から戦って勝てる戦力とはいいがたく、普通に考えれば兵法の原則に沿っても正面切って戦わずに遅滞戦術をとったりなんとか敵軍を分散させようとしたりするべきです。
しかし世に名将と呼ばれる人は、そういう「凡人の常識」に縛られないんですね。そもそも地形的にも相手を分散させるのは難しく、遅滞戦術をとると自軍の結束が乱れかねません。「攻撃は求心、防御は離心」とか「攻撃は最大の防御である」という言葉があるのですが、名将と呼ばれる人は超絶大ピンチのときも積極策を選べるのです。桶狭間の信長しかり、三方ヶ原の家康しかり。外国も例にすれば、ガウガメラの戦いのときもアレキサンドロス大王軍はペルシア軍の1/3以下の戦力でしたがアレキサンドロス大王は決戦を選び勝利しています。
そして人取橋では寡兵で善戦し、ほぼ引き分けに持ち込んでいます。ところが佐竹家の武将が刺殺されるとか北条や里見が佐竹の背後を狙って動き出したという情報に接して佐竹軍は撤退してしまいます。ここで重要なのは、佐竹軍は「撤退」を選んだということです。兵力ではこちら側が有利であることは全員知っていたでしょう。しかし佐竹側の判断としては「伊達軍恐るべし」「これは長期戦になる」というのがあったと思います。伊達側の実態としては戦闘が続けば兵力をすり潰して敗北しかねない状況でした。しかし、「そう見せない」ことに成功したといえるでしょう。
摺上原合戦は、ウィキの記事がなんだかものすごく簡潔にしか書いてないのですが、実は摺上原で両軍が合戦した時点で「勝負あり」だったんです。
伊達軍は現代でいうところの福島県の中通り(中央部)をゆるゆると南下します。この時点で政宗の目標がどこにあるか蘆名家も佐竹家も判断しかねます。政宗としては蘆名軍と佐竹軍が合流した状態になっての決戦は避けたく、強力な佐竹軍より、当主盛氏が死去して以来結束がガタガタになっている蘆名軍単独との決戦を望んでいました。伊達軍と蘆名軍は数の上ではほぼ互角ですが、政宗のリーダーシップの元まとまっている伊達軍に比べ蘆名軍は今の民主党なみにリーダー不在で足並みが乱れていました。
佐竹軍と合流するそぶりを見せる蘆名軍に対し、政宗はまず猪苗代盛国の寝返りを成功させ、それと共に軍を迅速に猪苗代湖北岸沿いに進出させます。猪苗代盛国への備えで黒川城に戻った蘆名軍は伊達軍が猪苗代湖北岸に進取した報に接し摺上原に進軍します。つまり、蘆名と佐竹は政宗の目論見通りに分断されてしまったのです。この時点で、政宗の戦略眼が一枚も二枚も上手だったことが分かります。
合戦のときは、政宗は右翼(山側)に別働隊を配し、蘆名軍の背後に回るようにします。風向きが変わったことで伊達軍は勝利したように見えますが、そもそも西風に乗って蘆名軍が上手いこと善戦したというべきでしょう。「風頼み」だったのはむしろ蘆名軍といえたでしょう。事実、その西風が止まると蘆名軍の勢いも止まりました。
流れが伊達軍有利となると、蘆名軍は一気に押されます。このとき右翼の別動隊が撤退しようとする蘆名軍を背後から襲いかかり、蘆名軍はパニックになります。そのため蘆名軍は文字通りに瓦解して伊達軍の追撃を受けると文字通りに雲散霧消してしまい、政宗はほぼ無人となった黒川城に入城します。政宗は時間がかかる攻城戦をせずに黒川城を手にしたのです。
最上義光が策謀家というのは、あのNHK大河ドラマの陰謀だと思うのですが(地元山形での評価はまったく違います)、義光は山形から見て山越えになる米沢方面への進出より、平地沿いの酒田方面への進出を望んでいたと思います。だから政宗との全面対立は避け続けましたよね。賢明な判断だったと思います。義光にとっての不幸は最上家そのものが盤石な政治・経済体制を持っていなかったこと(それゆえに大軍をほいほいと動員できませんでした)と、目標の酒田方面はあの上杉家の影響下にあり「敵が強力」であったといえるでしょう。
お礼
懇切丁寧な文章によるご解答ありがとうございました。 子供の頃から歴史が好きでしたが、近年は仕事にかまけほとんど本も読んでおらず、このサイトを見て質問したら小生の浅学が露呈してしまいました。
補足
摺上原の合戦は、20年前に読んだえらく難しい本でした。 お互いの布陣と合戦の流れを時系列に記した文面で、伊達軍は風向きがかわり、伸びきった芦名軍の側面をついたと書いてあったと記憶していまして・・・。物置で本を探して何とか反論を思ったのですが合戦の様子が目に浮かぶ分りやすい文書でした。背後から襲ったのですね了解です。 どうも私には佐竹軍に厭戦気分があったとしか思えなくて。又の機会ですね。