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ひとは 根源的には《共同相互存在》であるのか?
カール・レーヰットが 《名前 または 固有名》をめぐって次のように言っているそうです。 ▼ (K.レーヰット) ~~~~~~~~~~~~ ( a ) 或る人物にとってほんとうに固有の名は もっぱら一人称の人称代名詞 すなわち《私》である。 (レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.70 Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この主題は じつはすでに問うたことがあります。 【Q:《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7592307.html 先行する問い求めがあったということの確認のためにも あらためて掲げ じつはそのあとに 別様の主題を問います。 まづ確認すべきレーヰットの文章を拾います。 ▼(同上・承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ( b ) このいわゆる代‐名詞だけが各人それぞれにぞくする。 ( c ) 一般化された「〈私〉なるもの」(* ここには傍点が振られていますが 省略します。以下にも同様箇所があります)あるいは「〈ぼく〉なるもの」は 「たんなる〈きみ〉」同様 意味に反した語りかたなのだ。 ( d ) 〈私〉はただ「私がある bin 」としてのみある( ist ) つまりそのつど固有の一人称としてだけあるからである。 ( e ) 或る者自身にとっては その呼び名もじぶんに固有のものではないことをもっともよく証明するのは 「そこにいるのはだれ?」という他者の問いに対して 思わず「私」(です)と答えてしまうという事情である。 ( f ) 根源的にいえば ひとはその固有の名で他者に知られて(ベカント)いるのであって じぶん自身にとってはその名では知られていない(フレムト)からである。 * 引用者註:この( f )は 前後の文脈から言って 意味があいまいであるように思います。 ( g ) 子どもがじぶんについてまづはなまえで語り出すという よく知られた事実もこの件と矛盾せず かえってそれを直截に証明する。じぶんを名前で語ることが子どもにとって可能であり自然でもあるのは 子どもは自身にとってなおまったく〈私〉ではなく したがってじぶんについて名を挙げて三人称で語りうるために すこしも自己を疎外する必要がないからである。 ( h ) これに対して すでに「私である( bin )」というしかたをしている者にとっては――たとえば会合での自己紹介でよくおこなわれるように――なまえを使って自己をしるしづけるたびに それは人為的な自己疎外を意味する。というのも じぶんの名を使ってじぶん自身を紹介するとき ひとは自己自身であるにもかかわらず じぶんについて他者のように語ることになるからだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところが このあと ひとは もともとは固有の名である《わたし》ではなく 呼び名としての《何の何べえ》という名前で呼び合われ 社会にあって互いに交通するとき そのような《共同存在性》は それぞれの人において《中立化》するとも言っている〔ように読めます〕。 ほかに誰も同じ存在はいないところの《わたし》が 何の何べえという呼び名を得て互いに共同存在であることによって社会的に中立化するというのは しかしながら 存在にとってはなおまだ互いの関係性としての接点を成す《縁側》のことを言っている。に過ぎないのではないだろうか? これを問います。 共同存在および中立についての説明は つぎです。 ▼(承前) ~~~~~~~~~~~~~~~ ( i ) 他者とのこのような生の連関からはまた 伝記の主題となる《生 レーベン》の意味を見てとることができる。・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかったなら その生はいかなる生でもなく そもそも伝記の対象ともなりえなかったことだろう。 ( j ) 伝記とは「他者(フレムト)の生を理解する文学的形式」(ディルタイ)なのだから 伝記的に描かれた生そのものも その生も外化〔表現〕の個別的な細部にいたるまで なによりも個人が有する同時代の生の‐関係によって規定されている。・・・ ( k ) この一者(アイン)が他者(アンダー)に対して有する生の関係 両者の共同相互的な(ミット‐アイン‐アンダー)ありかた・・・。互いに‐共に‐在る(ミット・アイン・アンダー・ザイン)ことによって中性化されて 個人の生は 未規定的に‐規定された 生が生であるありかたとなる。私たちが単なる生なのである。 * (引用者註ないし疑問:)《互いに社会共同の存在と なること》と《それが中性化すること》とは 別ではないか? 《中性化した存在》というのは まだ《わたし》なる存在の 一部分であって それは いわば他者との接点としての 縁側のような側面であるのではないか? ( l ) 個人が他者たちととりむすぶ生の連関によって 固有の種類の生がかたちづくられる。個人の現存在は共同相互存在のうちでこのように中立化されるが このことは たんなる生という言語的に中性(ノイトラル)の冠詞が有する 事象からして中立的な(ノイトラル)な意味そのものにおいて告げられている。 ( m ) 生の経験 生を知ること 生の諸要求を充たすこと等々といった表現のすべてが捕らえているのは 互いに共に在ることでこのように根源的に中立化された生である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 引用の途中に差し挟んだ疑問について 問います。どうでしょう? すなわち ▼ ( i ) ・・・本質的に他者たちと共に生きられることなく 他者から学ばれず 他者に影響を与えることがなかった ☆ としても その人の《わたし》は固有に生きられている。つまり そこに――社会にあって とにかく人びとと共に――あるなら それは 《にんげん》の生である。のではないか? すなわち すでに植物人間であっても その《わたし》なる存在は にんげんである。
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- NemurinekoNya
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サンスクリットだと Asmi. だけでいいはずですが・・・。 Ich bin. I am. なんてダメですよ。 このIch、Iは、も~、アハンカーラ(ahaṃkāra)。 「《我・aham》を立ててはなんね~」。 《我》なんて立てるから、小難しい話になる。 アインだ~、アンダーだという話になる。 本来一つである「わたし」が切り刻まれ、分断される。 そして、他者とわたしが分断される。 これから、 Ich bin. ではなく、 Asmi. です。 「Asmi・あすみ」、いい響きじゃないですか~♪ この語られない《わたし・aham》があれば、いいじゃないですか。
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ご回答をありがとうございます。 アハンカーラ。――《我慢》という漢訳は あんがいいいぢゃないですか。われがつくる・われをつくる。 ええっと。 アハンは エゴーとまったく同一だとおもうんですけれど。・・・ つまり I や Ich と。 それに アスミだと おそらく -ミが 《わたし》のことを表わしていますまいか。 アスミ ( -s- の脱落)> アイ‐アム。 sanskrit: a-ham greek: e-goo latin: e-goo german: i-ch gothic: i-k OldHighGerman: i-h danish: je-g norwegian: e-g OldEnglish: i-c english: I Proto-Germanic: * e-kan ProtoIndoEuropean: * e-g-, Russian: ja < i-(g)a italian: i-o spanish: y-o french: j-e Hittite: u-k ▽ ( etymol.: I ) http://www.etymonline.com/index.php?term=I&allowed_in_frame=0 したがいまして ◇ ~~~~~~~~~~~~~ 《我》なんて立てるから、小難しい話になる。 アインだ~、アンダーだという話になる。 本来一つである「わたし」が切り刻まれ、分断される。 そして、他者とわたしが分断される。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まだ 腑に落ちません。