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スピノザが、神を愛するという時、何をいっているか?
スピノザが、「神を愛する」という表現を使いますが、身近な例でいうと、どういった感じのことを言っているのでしょうか? キリスト教徒やユダヤ教徒が、他者(二人称)なる人格神を愛するのとは違うでしょうし・・ 自分自身の神性の認識といった一人称的なことなのでしょうか?・・
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- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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全ての存在=生成 が祝福されてる! それを認識する事ですね。~言い忘れました。 その祝福には、美醜などの価値判断など入る筈も無い。 只ひたすら知性による認識を深めてゆけば、其れが解り必然的に 神の祝福を実感して 愛するように成れると云う、。 しかしあまりに非十全な認識に停まれば、此の世は只 弱肉強食の非情な世界と云う事になる。 その祝福を知らないのは人間だけだ、と現代フランス哲学者も言ってましたよ(^^)。
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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エチカに沿って知性を磨いてゆけば、 この世の限りない美しさが立ち顕れて来る,と云う事です。 その美しさは、自然に即したこの世の在り方なのですが、自然は存在のMode=様態,に過ぎないので、むしろその本質=essentia,や法則こそ永遠不変であり、其処に神を見て其の良く出来た世界を愛する,と云う事でしょう。 人間に見れるのは其処までであり、精霊や八百万の神の顕現を観る,汎神論とは少し違います。 エチカ冒頭の定義6,で〈無限に多くの属性から成る実体〉とされてますが、人間に知れる属性は「思惟と延長(物体の事」の二つしか言及されません。それ以外の属性は敢えて不問にしてる。 霊魂などは、仏陀も孔子も、有るとも無いとも言っておらず、ならばそれ以外の、神の概念について最も実感可能な体系に成ってるでしょう。 その実感の為には先ずは順を踏んで行かなくてはならない、長きに渡って。特に第3&4部での、感情の克服ですね。完全には不可能ですが、憎しみや怒り等のNegativeなものの価値が徹底的に否認されてゆく、それらは非十全で混乱した知性が原因であるとして。理路整然ですから説得力を持って! すると残ってくるのは〈愛の流れ〉のようなモノに成ってくる。実際の自然界における神の法則や、この世の本質はそちらに則ってる。でも人間だけが非十全な知性で、不要な争いを繰り広げる。 無論自然動物は捕食や遊びの為に殺しもするが、不必要なのはしない。こんな動画が有ります、 https://m.youtube.com/watch?v=nNhBNaJeoSg 狩を止めて獲物をプロテクトする雌ライオン。Longヴァージョンは、 https://m.youtube.com/watch?v=mZw-1BfHFKM ペット同士だと良く有りますが自然界でも稀に観られるそうです。 存在の一義性か? 人にも流れてる。その愛は、間接無限様態ですが、それも直接無限様態と同じく永遠だと言われます。其れを感得する我々も言わば、神の一部と言いたくなるような。神は分割不能なので誤認でしょうが、その感じは人に現れる「神性」と言えるかも、。 I love you,と言える主体は本来、神しか居らず、被造物はその愛の流れに乗る事しか出来ないはずなのですが、でも恋と違ってその愛は本来そこらに溢れ返ってる,という事ですね、只気づかないだけ。 これは良い教えです、第四部を通過する辺りから何か視界が開け、精神に爽やかな風が吹き抜けるようになる…私の経験では全ての存在が可愛らしく成って来て楽しいですよ。 自然と不要な殺生も減り、いつの間にか仏教徒にも成ってる、しかもクールな教えなので肉食もOK! スピノザも闘蜘蛛の賭遊び好きでしたし。 勿論人にも必要な戦闘は有ります。カント,の恒久平和の為に,という小冊子にもそう書かれてる。スピノザの影響は有ると思いますね。 カントやヘーゲルは肯定否定に拘らずスピノザの線を受けて、知性の限界まで吟味Kritic,を試み、二つの属性以外にも踏み込んだのでしょうが、さて上手く行ったかどうか、。当然後続の者の使命で権利でもあるでしょう。 昨今の宇宙物理の暗黒物質など、延長=物質の属性の範疇に入るのか? 幾分神秘主義とも言えるけど、考慮するのは必然ですね。 それもこれも含めてのスピノザの神です。神は唯一の実体,と定義されてて、これが解り難いのですが要は、分割出来ない「無限」そのものと理解すれば良いのではないか。 Sub-stantia,とはmeta な想像物ではない、絵空事ではない,実体,と云う事ですから、これは驚くべき射程を持ちます。 又 エチカは先ず倫理の書であり、実践の哲学なので、その倫理を追ってゆけば自然と神を実感できるように書かれてるのが凄いです。 〈憎しみを持たずに戦う事〉私が創り出した定義ですが、これを実践すると、ヤクザも逃げましたね(^^),無論戦闘技法も準備はしてないと無理ですが、それ程ホントの効力が有るという事です。近代国軍もそれを忘れたから酷い事になった。戦国の信玄・謙信 両公なんかには其れが御座いました。それ程現代にも意義がある哲学と言われてます。 アインシュタインが信じたスピノザの神は無論、 人格神とは無関係です。キリストには一寸関係あるけど。その神性を体現する人間が、稀に出現すると云う事でしょう。ですから権利上は誰にも立ち現れる可能性が有る,と云うのがスピノザの神です。
お礼
皆さま、ご回答ありがとうございます。 本当に、共感できるところがたいへん多いです。 私ももともと大学で、ヤスパース、ハイデッガー、レヴィナスあたりを中心に学んでいたのですが(皆様のレベルと比べると大変低いですが)、当時はスピノザについては、何が言いたいのかよく理解できず、特に注意を向けていませんでした。(ヤスパースのDie grossen Philosophen のスピノザの部分も読んでなかったですし) (皆様の気に触ったらすみません、というかスピノザを理解される方なら気にされないと思いますが)実は、最近、L.ロン・ハバードの書籍を読んだりしています。 それで「スピノザに似ているなあ」となんとなく思っていたのですが、実際、彼の『人間の能力の創造』という本で、自身の研究の源のひとつとしてスピノザを挙げていました。 ハバードの体系は、基本的に、神秘主義の流れをくむもので、スピノザ的な明晰な認識に達するための、実践や哲学を展開したものです。 興味があれば『思考の原理』や上記の『人間の能力の創造』をおすすめします。 今回、エチカを改めてざっと読んでみましたが、本当にこの方向性こそ、到達すべき方向性であったんだなと思います。 カントが、可知と不可知を安易な形で分けてしまうことで、もっとも重要な認識が、おざなりにされてしまうようになったように思います。 エチカ 二部 定理45 「真の観念をもつものは、同時に自分が真の観念をもっていることを知り、その真理について疑うことができない。」 固定観念ではなく、自由で明晰な認識によって、これを達成できる人は本当に幸せだと思います。 皆様にご回答いただいた内容については、ほぼそのまま同意です。 marc2bolantiさま 詳細なご回答、ありがとうございます。 霊魂などは、仏陀も孔子も、有るとも無いとも言っておらず、ならばそれ以外の、神の概念について最も実感可能な体系に成ってるでしょう。 →ほんとうに、そうですね!法:法則(ダルマ)の認識にこそ価値があるということを言っていたのだろうなと思います。 感情の構造の明晰な認識→克服→自然な愛 というのも同意です 聖書でキリストが、ユダヤ人たちが自分をメシアとして受け入れないことが明らかになったときに、泣きながら「ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを意志で打ち殺し・・」と、嘆くシーンが有ります。愛するエルサレムの人々、神の愛したユダヤ人たちを助けたいと思って来たのに、結局裏切られ、彼らを助けることができなかった・・という悔しさ、愛するがゆえの悔しさ、といったものだと思います。(私も若い頃は結構共感もしましたが)キリスト教の愛は、情熱的ではあるが、しばしばルサンチマンに満ちていたりします。(もちろんそうでない人もたくさんいたと思いますが) 本来の自然な愛は、そのようなものではないと思いますね。 ニュートラルで、人生を楽しんでいる、スピノザの思想、そのスタンスが(本来の仏教とも共通する部分が多いことですし)、日本に、世界に、もっと理解されれば良いのになと思います。倫理として、実践に直結しているところも、本当にすごいですね。
- kanto-i
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>自分自身の神性の認識といった一人称的なことなのでしょうか?・・ そんなにドライな話しでは無いように思います。 ネコさん、ちょいとお借りします。 >自分自身や自分自身の感情を明瞭・判明に理解する人は、そして、自分自身や自分の感情をより多く認識するにつれて、それだけ多く神を愛する。 自分を深く理解すると、人間本来の優しさや強さを持つ気高さ 純真さ・正直さ、湧き上がってくる幸せ感・震えるほどの喜び そう言うような数々を見つけて体験する中で そのことに対して神性を感じるのだと思います。 神性の認識と言うより、認識したものに神性を感じさせられるものが 自身の中に存在する。 あまりの素晴らしさに、神からの贈り物として感じずにはいられないのでしょう。 必然にしては、人間はあまりにも素晴らしくよく出来てるものですから。
お礼
kanto-i さん どうもありがとうございます! >認識したものに神性を感じさせられるものが自身の中に存在する。 そうですね!
- kaitara1
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自分の存在を肯定することが、神を愛することかと思います。この神はキリスト教とは直接関係ないと思いますが…。私はすべてを閻魔さまのご判断にお願いしていますが、近いのではないかと思いました。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
一言でいえば、「神を愛するとは神を認識すること」かな。 たとえば、 ~~~~~~~ 第5部 定理15 自分自身や自分自身の感情を明瞭・判明に理解する人は、そして、自分自身や自分の感情をより多く認識するにつれて、それだけ多く神を愛する。 (『エチカ』) ~~~~~~~ なぜならば、 自分自身や自分自身の感情を明瞭・判明に理解する人は喜びを感じ、喜びには《神の観念》が伴っており、それ故に、神を愛することになるから。 スピノザにおいては、神を愛することは、《神への知的愛》に他ならない。 で、有名な《永遠の相のもとに》は、 ~~~~~~ 第五部 定理30 われわれの精神は、自分自身や身体を永遠の相のもとで神を必然的に認識し、また自分が神のうちにあり、神によって考えられることを知る。 証明 永遠とは、必然的な存在をふくむかぎりの神の本質そのものである。それゆえ、ものを永遠の相のもとで考えることは、ものを神の本質によって実在的な存在として考えるかぎりにおいてか、それとも神の本質によってみずからのうちに存在をふくむかぎりのものを考えることである。したがって、われわれの精神は、自分自身と身体を永遠の相のもとで考えるかぎり、神を必然的に認識し云々。かくてこの定理は証明された。 (『エチカ』) ~~~~~~~ 『エチカ』の訳文は、 世界の名著「スピノザ・ライプニッツ」中央公論社 から引用。 ☆スピノザが、「神を愛する」という表現を使いますが、身近な例でいうと、どういった感じのことを言っているのでしょうか? ◇定理15がその答えになるんじゃないですか。 ☆自分自身の神性の認識といった一人称的なことなのでしょうか? ◇この「神性」が何を意味するか分かりませんが、 まぁ、そんな感じになりますかね。 厳密なことを言えば、「神性」は違うのだろうけれど…。 そういうことで。
お礼
皆さま、ご回答ありがとうございます。 本当に、共感できるところがたいへん多いです。 私ももともと大学で、ヤスパース、ハイデッガー、レヴィナスあたりを中心に学んでいたのですが(皆様のレベルと比べると大変低いですが)、当時はスピノザについては、何が言いたいのかよく理解できず、特に注意を向けていませんでした。(ヤスパースのDie Grossen Philosophen のスピノザの部分も読んでなかったですし) (皆様の気に触ったらすみません、というかスピノザを理解される方なら気にされないと思いますが)実は、最近、L.ロン・ハバードの書籍を読んだりしています。 それで「スピノザに似ているなあ」となんとなく思っていたのですが、実際、彼の『人間の能力の創造』という本で、自身の研究の源のひとつとしてスピノザを挙げていました。 ハバードの体系は、基本的に、神秘主義の流れをくむもので、スピノザ的な明晰な認識に達するための、実践や哲学を展開したものです。 興味があれば『思考の原理』や上記の『人間の能力の創造』をおすすめします。 今回、エチカを改めてざっと読んでみましたが、本当にこの方向性こそ、到達すべき方向性であったんだなと思います。 カントが、可知と不可知を安易な形で分けてしまうことで、もっとも重要な認識が、おざなりにされてしまうようになったように思います。 エチカ 二部 定理45 「真の観念をもつものは、同時に自分が真の観念をもっていることを知り、その真理について疑うことができない。」 固定観念ではなく、自由で明晰な認識によって、これを達成できる人は本当に幸せだと思います。 皆様にご回答いただいた内容については、ほぼそのまま同意です。 NemurinekoNya さま 重要な部分など、教えていただいてありがとうございます。たいへん勉強になりました。
お礼
そうですね、「人間的な、あまりも人間的な」といったところでしょうか。