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悟りとは
其れは『ある』と言う事 『存在』そのもの 何時からでもなく、何処からでもなく、何の為でもなく 何故なら、時に因るのであれば、時を重ねれば良い 何故なら、場に因るのであれば、場を訪ねれば良い 何故なら、理に因るのであれば、理を求めれば良い 時は時 場は場 理は理 これらはそれぞれが、それぞれに依存し、それぞれを補完している 全ては一であり、また一が全てを現す どれでも良いし、どれでも変わらない 無意味さも、有意義も と、ちょっと発言してみるw
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考えていても分る人には分かると思いますが、分らない人には未来永劫分からないと思います。何故なら知識や理解や思惟を超えたところに悟りはあるからです。 人間が知るとか、分るとか、分かったと言う場合、その”分った”とは『個人の体験上の経験事項を言うからです。悟りの深浅や広大さの違いを全てに当てはめてみることが如何に無意味であるのかは、誰でも他人の人生を生きる事が出来ない以上”明白”な事と思います。 但し学問上にて『悟り』の有無や、悟りの定義を語るなら可能性はあると思います。人間の心の軌跡とは脳の軌跡と符合すると思うからです。 人間には、本人が分ると、分らないとに関らず脳の働きには『二つの機能が付随しています。』人間の脳の機能分化に関する既に分っている事柄です。 脳の機能分化に関する化学的なデータです。ウイキペデアからです。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 更にこの記事を補強するために、或る脳科学者が『自分自身の内面から』脳の機能分化の体験を脳卒中の為に『体験せざるを得なくなった』貴重な体験談を語っている動画を載せてみます。 もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この動画で語られている事実が『悟り』と言う体験と思います。禅での体験と言う意味でなら『見性体験』と言う意味です。 左脳の意識である『自我意識』が『無意識の自分の”意識”』=『生命発生装置兼生命維持機能』である『命そのものを働かせている機能』=『仏性』=『神』=『命そのものの働き』と脳梁の中で出会う体験と言う意味です。 心理学的な表現方法では『意識の根底での出会い』=他の言葉で表現するなら『意識が意識として発生する以前』の体験です。 この体験を『父母未生以前の面目』と表現する場合もあります。 人間の悩みや苦しみの原型、或は原風景がこの体験以前『心の深層心理の中に存在する所以です。』つまり『心の矛盾や、心の対立や、心の分裂』の中に存在する理由です。 ですがこの出会いによって『心そのものが心そのものの性質を知る体験ですので』自分の心のざわめきが消滅する事を意味します。心の中に再び静けさが戻ってくる体験です。動画が語っている世界です。 この世界が聖書で天国に一番近い存在は”幼子”或は仏教の経典で語られている『大人の嬰児』の世界です。 自我意識と、自分自身に感情や考えを湧き上がらせていた者が再び一つの者として働き出す世界を意味するからです。詰まり『自分の心が再び幼子の如く、一つの者として働き始める事を意味するからです。』 此処にいたって、聖書や仏典が必要なくなっています。 聖書や仏典が必要な理由が『心の矛盾の解消にとっての必需品』と言う意味ですので、此処にいたって始めてその必要性がなくなるという意味です。 キリスト者であるなら『神の僕となる事』を意味します。仏教者なら『在るがままに現実を受け入れる事』を意味します。どちらにしたところで同じ心的な内容を意味します。 どちらにしてももうその経典そのものでさえ必要がなくなることから、言葉が悪い禅では『仏に会ったら仏を殺せ』などという物騒な表現をする事があります。 それが『多が一』『一が多』を了解した事を意味します。或は『無功徳』を生きる禅の立場を示しています。 もう一言書き足すなら、今の曹洞宗はいい加減な事がまかり通っていると言う事です。悟りを開く人が無くなったとはいえ『悟りの事実さえ隠蔽しようとしている事実があるからです。』 いくら教団に力が無くなろうとしていようと、悟りを伝えるべき宗教集団が『悟りの事実さえ』隠す事によって、自分の力を誇示しようとする事では『釈迦が泣いている』と一般の人でさえ分かっています。曹洞宗に『渇』と言いたいです!
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 もんだいは 認識論にはないと思いますね。 そして 質問者さんも あるいは そう言おうとしておられるかも分かりません。 ただし それは 言葉では表わせない。つまり そのつど場合場合によって 言葉を尽くして 明らかにしなければならない。といったお考えであるのかも分かりません。 すなわち わたしの場合は 世界認識に終わらないという意味は あんがいさとりというのは 人との関係にあると考えるからです。 関係を認識しつくしたとしても ダメなわけで じっさいの生きた人間関係にある。こういうねらいを持って言っています。 きわめて簡単に言ってしまえば 自己の意見をめぐってどれだけ相手にゆづることが出来るか。そして ゆづりつつ 機会を捉えて どれだけなお――見直しつつ持ち続けているその――見解について相手にうったえて行くことが出来るか。 ここに さとりの実質的な中身が 生きて あると考えます。 言いかえると 対話における互いの問い求めなる過程としての成果 および 合意に到るならばその内容を どこまで実践し実行にうつすことが出来るか。 ここに さとりのもんだいが行きつくかと考えます。長期の視点に立ったチカラであると捉えます。
お礼
書き込みありがとうございます。 「対話の中での」との事ですが、それは議論の果てに「真理に到る」と言う事か、もしくは文面通りに読めば、その過程こそを「真理」と捉えての内容になるかと推察いたしました。(合ってますかね?) ありがとうございました。
- a_hona
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道の歩みとは、やさしいとは何かを追求することであると聞いた時、目からウロコのような思いをしたことがあります。 それからすれば、覚りとはやさしさの究極の体現であるということになるのでしょうか。
お礼
書き込みありがとうございます。 「優しさ」・・・ 大切な事だと、私も思います。 そして「究極」の「優しさ」。 幼少時に「究極の利己主義」を模索した事がありました。 私の答えは「全てが一になる」というものでした。 人殺しの術である剣術での道を歩むと言う法も存在します。 これらは私独自の感じ方なので、人にかぶせる事は出来ません。 しかし道は無限に存在し、更にどの道からでも何処にでも行けます。 問題は行きたい処に行けるとは限らない事ですが。 地図は示されています。 しかし書かれているモノは我々に直接解読が出来ない言語で書かれています。 お心、ありがとうございます。
悟りが仏教的な文脈での悟りだとしたら 「ある」はやめといたほうがいいです。 とにかく批判されます。 なぜか「ありのまま」はいいようですが 日本語は難しい。 ~~~~~~~~~~~~~~ 18.ありのままを観る智恵 http://www.j-theravada.net/kogi/kogi94.html ~~~~~~~~~~~~~~~ こちらの曹洞宗の禅僧のブログでも 道元禅師のややこしくない仏性論 http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/e7cb8c3d71a43d9bc8dbecb54f434d5a 有無相対の分別から離れること とか書いてますので。
お礼
書き込みありがとうございます。 言葉は何かと迷いを呼び込みます。 何故なら「真」は言葉ではないのに、それを文言に変えようとすれば、無理が生じるのは自明の理です。 故に最上は語らぬ事です。 私自身「無駄」は理解しています。 しかし「無駄」を楽しむ心も私は大事にしています。 批判も意見も頂けたら嬉しいです。 ちなみに「ありのまま」は「時」に支配された「あり方」です。 理解は相対の中にあります。 悟りは相対を成し得ているものです。 まぁ、これも現れ方の説明で、文言での遊びです。 お心、ありがとうございます。
- urigadai2013
- ベストアンサー率37% (92/244)
曹洞宗の道元は、当時の臨済宗の「公案禅」の流行に苦々しい気持ちを抱き、「悟り」なんかない、人間が座禅で座っている姿がそのまま「悟り」なのだと言って、只管打座の禅を唱えました。 私も昔禅の修行を半年間やったことがありましたが、「悟り」なんかないよ、そんなものは幻想なんだ、と言われました。 あなたが、ズラズラと言っていることはその「悟り」を分別、つまり理屈で分かろうとしているだけで、禅は無分別なんだから、いかなる理屈も排除します。 理屈、つまり分別の向こうにある無分別が禅の目標とするものです。 理屈を言う前に、まず座ること、他の一切の世俗のことを停止して、ひたすら1日中座ること。 そして10年、20年の修業を重ねて、初めて「悟り」があるかどうか分かるというものです。 「悟り」があるかどうか、それがどんなものか、言葉で云々するのはやめて、不言実行、禅の専門道場に入って、10年、20年の修行をすべきです。 専門道場の門に入る手前で、変な理屈ばっかりこねているのは無駄なことです。
お礼
書き込みありがとうございます。 禅は面白いですね。 私は禅宗が一番しっくり来ます。 悟りは言葉では伝わりません。 私の書いた文言は悟りを表してはいません。 悟りを指しているだけです。 私は今この瞬間も「禅」を行っています。
- miko-desi
- ベストアンサー率19% (69/352)
人間が自然人であった時 神のリズムと共に居た 人間が文化人として神に祈り頭を垂れた時 内なる秩序のリズムと共に居た 人間が機械人となるなら そのリズムは神を転倒させる 神は人間は特別だからといって人間に命じず、与えてない 義務や権利を勝手に発明し主張しだすことがある。 貨幣制度や産業の分業化、合理化、 マタニティコントロール、アンチエイジング、クローンなどのバイオテクノロジーなど。 文化を持って安堵したり使命感に燃えて、何度疲れて眠っても神のためでもなく働く。 越権行為ですが、人間に出来て神に出来ないことがまだあるやも。 神の法則=弱肉強食を改める、共同体の歯車にも心地いい自然なリズムが響いて美しくなれば。 気まぐれ自分勝手、矛盾だらけの人間だけど、 生命体の美しさ強さを機械に改めて思い知らせる! なんてことを自分が出来る範囲で、些細なことからしてみたい。
お礼
書き込みありがとうございます。 朴訥と歩む。 いいですね。 修行修行の人生ですね。 ありがとうございます。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
いやいや、それでは「浅い」というものであって。 「無」もまた悟りではないですか。 「『ある』を悟りであると見た」 これは、一方的です。
お礼
書き込みありがとうございます。 >「『ある』を悟りであると見た」 『ある』は『ある』です。 敢えて言を用いれば、他にも「真理」や「本質」やらと幾らでも言葉を紡げます。 言葉は言葉です。 『ある』は『ある』です。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
人の認識は、肉体に付属した感覚器官に依存して発生 するので、自己中心的になりがちである。 その認識の深まりにおいて、宇宙全体が自己である事 (認識される事で有限的な存在性は生じる)の把握へと 連続的に自我は拡張されるのであって、どこかの段階で 突然悟るというような事はない。
お礼
書き込みありがとうございます。 >宇宙全体が自己である事の把握へと連続的に自我は拡張されるのであって、どこかの段階で突然悟るというような事はない。 一生成長ですね。 なるほど、ありがとうございます。
- sariputra
- ベストアンサー率4% (2/41)
そうですね。ブラフマンは存在そのものです。 場も時も理もブラフマンに生じた高次元の波であって互いに干渉し合っております。 それらが重なり合い一段と高まりを見せた時、その波頭が貴方と私が共有するこの 三次元空間に顔を出し、「業」のフィルタを通して、アートマン上に「この世」という 三次元の虚像を映し出すのです。 このプロセスを如実にイメージできるようになるというのも、悟りに至る多様なルート のひとつです。
お礼
書き込みありがとうございます。 どうしても「詩」になるのは避けられませんね。 語ってみたのがどうなるか? それを見てみようと思います。
お礼
書き込みありがとうございます。 いや、素晴らしい情報をありがとうございます。 この様な学者自身が罹患ケースとして、且つ回復し体験を語って下さる方がいらっしゃったとは。 貴重な分析記録です、ありがとうございます。 特に「私は私の人生の振付師」の言葉は秀逸でした。 これがスタートになります。 この浮遊した様な、世界と繋がった様な感覚自体は修行(訓練?)をすれば、人によっては其れなりに体感出来るようになります。 経験は無いので判りませんが、ドラッグでも(近似体験が)可能かもしれません。 そして多くの方が、この「体験」そのものを悟りと誤解しているのは確かです。 この感覚は「クンダリニー」と表現されたりするモノでして、これが釈尊が苦行の無駄を説いた理由の核になる部分です。 何故ならこれも「肉」に依存した「感覚」であり、これそのものは単なる「現象」に過ぎないからです。 この程度の事が出来ても、腹は減るし、暑さ寒さや病気は来るし、何の苦しみからも逃れられません。 苦行の思想は、この感覚を味わう事で、「許された」と感じる事なのです。 ただ、人間的には大きく成長はするとは思いますが。 「悟り」はこの先にあるとも言えるし、また、無関係とも言えます。 「汝、自身を知れ」 これが悟りへの一番の近道である事の、端的な実例をありがとうございました。 久々に「話」が出来ました。とても嬉しいです。
補足
楽しく読ませて頂けた事に感謝して、ベストアンサーとさせて頂きます。 ありがとうございました。