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「右衛門」と「左衛門」について
江戸時代の人物の名前には、「右衛門」と「左衛門」がよくみうけられます。 何でこんな名前がはやったのでしょうか? 奈良屋茂左衛門や紀伊国屋文左衛門の例でもわかるように町人でも使用されていました。 この名前がはやるようになった背景は何だったのでしょうか? そして明治になって使用されなくなったのは何故でしょうか? はたまたいつごろから使用されるようになった名前でしょうか? よろしくおねがいします。
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「右衛門」「左衛門」などが官職に由来する(そのものではないが)は、#1の方が書いておられるとおりで、「百官名」と言う、というのまでは昔調べたことがあります。 ちょっと調べた限りでは、由来等については下記のサイトが分かりやすいように思いますので、ご参照ください。
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- kuma56
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素人の想像なので、まったくの"自信なし"ですが・・・・・ 昔々、江戸時代よりもっと前、律令制度が布かれた時に、"六衛府"というお役所が設置されました。 その中に"衛門府(えもんふ)"という、武官が務める役所がありました。(平たく言えば都の門番みたいなお仕事です) その"衛門府"は、"右衛門府"と"左衛門府"の二つあり、それぞれの衛門府のトップの位が、"右衛門督(うえもんのかみ)"と"左衛門督(さえものかみ)"といいました。 たぶん大元は、この"衛門府"の役職から広まって行き、そのうち町人レベルまで行ったのではないでしょうか。 感覚的には、"出世した名前"とか"勇ましい名前"のようなものだったかもしれないので、それにあやかってつけたのが、広まる一因かもしれません。 また、昔の人は名前の中に位も併せていたので、そこいら辺からも転じて名前になって行ったのではないでしょうか。 例えば、大岡"越前守"忠相 や 遠山"左衛門尉"景元(桜吹雪の金さん!)などが、位を含んだ名前です。 一般町人レベルからだと、忠相や景元と言う所までは呼ばないで、普段は 大岡"越前守" や 遠山"左衛門尉"で切っていたかも知れないので、そんな考え方でその人たちにちなんだ名前をつけようと思うと、役職名が名前に転じるのかもしれません。 特に"越前守"に比べれば、"右衛門督"や"左衛門尉"(尉も律令期の官職名)の方が、古くからあったであろうから、江戸時代頃には既に"名前"という感覚で使われていたのではないでしょか。 (さすがに、"守"や"尉"は名乗りにくいから、つけなかったのかも・・??) そして、そのような大そうな名前は、子どもには余りつけずに、大人になって一家の主になって初めて名乗れたのではないでしょうか。 そして代々、家督を譲るたびに伝えられていったりしたのではないでしょうか。 逆に言って、元々子どもに付ける名前ではなかったので、明治期になって戸籍が整備されると、大人になってから代々の名前に変えることが出来なくなって、徐々に少なくなっていったのかもしれません。 くどいようですが、まったくの"自信なし"です・・・・
お礼
ありがとうございます。 根拠が薄いとのことですが、論理的で筋が通っていて、同感するところが多いです。