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大至急!!野火について

大岡昇平の野火(小説)のラストがいまいちよく理解できませんでした 精神病院に入れられてからを 詳しく教えてください

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  • Ganymede
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回答No.1

私の読解力は高校レベルで止まっていて、大学で習うような手法は分からないけど、気楽に答えてしまおう。 この作品は、小説といってもずいぶん理屈っぽい文章である。主人公の田村は語り手でもあるが、一兵卒に過ぎない。会社員で中年に差し掛かっていたのに召集され、あまつさえ前線へ送られた。しかし高学歴で、それもかなりの知識人という設定である。作者の大岡自身がそうだった。 田村は、フィリピンの原野ジャングルでホームレス同然の敗残兵となっても、苛烈な体験に直面して独り言が激しくなっても、その端々に知性が滲み出ている。まあ、飢餓線上をさまよってる状況で、教養なんぞ役に立たないんだけどね。キリスト教徒じゃないが、聖書の章句を諳(そら)んじている。ベルグソンの哲学からアメリカの推理小説まで、難しい漢語からボードレールの詩句まで、よく知ってる。 もっとも、逆に実際的な知恵が不足していて、彼はジャングルで火の起こし方を思いつかなかった。菊の御紋が刻印された三八銃を、後生大事に提げていたわけだが、その弾(たま)を流用する裏技を彼は知らなかった(弾の尻から火薬を抜き出して、木の枝でこすると火が付く)。 ということで、この小説は理屈重視で読んでいこう。高校国語の「現代文」で、小説・エッセイと論説文との読解法の違いを教わったと思うけど、ここではむしろ論説文の読解法で小説を読んでみよう。 『野火』のラストは、田村の「神に栄えあれ」という言葉で結ばれている。これが謎なんだよな。初見の時は私にとっても衝撃だった。 田村は無神論者だったはずじゃないか。「私の積んだ教養はどんな宗教も否定するものであり、」と述べている。人生経験を重ねても、「倨傲(きょごう)を維持し、悔まなかった」。すなわち、回心しなかったってことだ。彼にとり、キリスト教は文化教養であって信仰ではなかった。 その彼が、ラストでなぜ讃美歌みたいに「神に栄えあれ」と称えるに至ったのか。戦後、田村は兵役を解かれて復員したが、精神的外傷の激しさから神経症を発し(病識はあるようだ)、一般社会には復帰し損ねた。東京郊外の精神病院の個室に入っている。それについて、連れて来られたとか、むしろ進んで避難して来たとか、田村の説明がぶれているのは、もちろん作者がわざと書いているのだ。ノーベル文学賞にも擬せられた大作家大岡の、巧みな人物造形である。 家は売って入院費に充て、妻とは離婚した。もう見舞いにも来ない。医師は大した治療も施さず、田村に手記など書かせている(自由連想診察というそうだ)。その手記がこの小説になったという設定である。 田村はフィリピンのレイテ島で喀血し、肺病やみとして厄介払いのように原隊から追い出された。途中の話はここではすっ飛ばすが、現地の民間人女性を射殺した。田村は銃を構えて「マッチをくれ」と言い、女に悲鳴を上げられ、怒って撃ったのである。その後、島の山野を一人さまよい、飢えて気を失う。 彼は、原隊は異なるが知り合いの、永松、安田に再会する。田村に対し、永松は「猿の肉」と言って干し肉を与えた。実は人肉である。田村は薄々気付いたが、その後も何回か食べる。やがて、永松もそれが人肉だと明かす。 彼らは敗残兵というか、もう兵士の体をなしていなかった。永松は安田を憎んでいて、田村を引き入れたのも味方が欲しいからだった。永松は安田を射殺して、食糧にするため、すぐに蛮刀で解体し始める。田村は怒りを感じる。……。 しかし、それ以降の記憶を田村は喪失していた。田村は考え続け、幻想かも知れないが、すべてを思い出す。 彼はあのあと永松を殺した。しかしその肉は食べなかった。とは言うものの、その前に人肉を食べているし、前述のように民間女性を殺害しているから戦争犯罪者であろう。永松についても、「人肉常食者だったから殺害して問題なし」とは言えない。 つまり、田村の所業はグチャグチャなのであって、整然と正当化できるようなものではない。もちろん、それは作者の大岡がわざとそう設定したのだ。田村一等兵、国の命令で戦争に行かされ、極限状況に追い込まれ、残虐行為を仕出かした日本の知識人。 彼は今や精神病院の入院患者に過ぎないが、知識人の矜持がある。「難しいことは分かりません、戦争に行かされて、殺したくもない人殺しをしました」という語り方はしない。田村は病室で考え続けて、ついに到達する。 あのとき、最後の最後で、私(田村)は抵抗した。人間が飢えの果てに、互いに食い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない。フィリピンで戦ったのも、行きがかりで民間女性や友軍兵士を殺したのも、私個人を超える国家・社会など大きな力に圧された結果であって、私は抵抗しそこなった。 しかし、私の犠牲者の肉を、私は確かに食べなかった。その「抵抗」意志が、私という人間の証明だった。そのとき、「人間」が出現したのだ。 まあ、復員後は拒食など、むやみやたらな抵抗をしてしまう症状が出て、精神病院に入っちゃったけど。それでも、あの戦場で運命にも本能にも抵抗して「食べない」という意志を発動した時、私は人間である証を立てたのである。 私にそれを教えるため、神が私をあのレイテ島の山野(さんや)まで遣わしたのであるならば―― 神に栄えあれ。

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