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豊臣秀吉の頃の年貢
太閤検地政策が終わった頃の年貢の比率ってどのくらいのものだったのしょうか? 米や作物が年収として300万円分生産(貨幣価値は現代と同等)できたと仮定して、現代の年収300万円からどのくらい年貢として持っていかれるのでしょうか? また、農家は現在のように米や野菜を現金に変えてたのでしょうか?物々交換?? 年代、不作、大名、反の地主や役人で大きく変わってくるのでしょうがお解りになられる範囲で回答して頂ければ助かります。
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No.4です。 補足を頂戴しましたので、追加の説明をさせて頂きます。 >例えば鉄鍋や包丁などの調理器具、布団、衣類などの日常品も自給で生産してたのでしょうか? 落ち着いた感じのする江戸時代より信長~秀吉のいわゆる戦国時代に興味があるもので・・・ 当時の鉄の原料は砂鉄です、少量ずつであれば日本各地で入手できました。 まとまった形のインゴッットは商人が運んできました。 刀にせよ槍、弓、矢、鎧などを自領内で調達できずに商人頼りでは戦はできません。 鋤、鍬、鎌などの農機具の需要と補修の要求は常にありました。 このような技術を持った鍛冶屋は必ず村内にいました。 鉄鍋の補修程度は簡単にこなしました。 包丁などの刃物は物騒な戦国時代ですから常に制作していました。 鉄は貴重な素材ですのでリサイクル使用します。 これらの専門技術を持った人とユーザーである農民との間では、多少現金が必要だったでしょう。 ただし、この専門技術を持った人も野菜など自給できる程度の畑は所有していました。 大事な農具を作ったり直したりする人です、日常的なおすそ分けは当然あったでしょう。 衣料用の繊維は麻と木綿が主体でした。高級品としては生糸もありました。 いずれも村内で生産されていました。 糸を紡いだり布を織るのは女性の重要な家事でした。 布も貴重品ですのでこれもリサイクル使用されていました。 布として形状が残っている限りリサイクルされ続けました。 現在でも各地の民芸品として各種のものが売られています。 日本の山というのは非常に豊かな森林を構成していました。 必要とされる物資はほとんど供給してくれました。 森林の恵みを生かす技術は縄文時代から受け継がれてきていました。 縄文時代、弥生時代と非常に長い間日本人は自然の恵みの中で暮らしていました。 関東平野は今は見る影もありませんが、豊かな雑木林と里山が続く土地でした。 現在は山菜は土産物か地方のお土産品ですが、当時は日常的な食品でした。 保存のための、漬物の類はどこにでもありました。 田畑だけが食糧品を提供していたわけではありません。 川や湖沼も豊かに魚類(動物性たんぱく質)を提供してくれました。 泥鰌、鮒、鯉、、モロコ、鰻、田螺、川エビ、などは子供でもとれる日常食品です。 関西地方以西は豊かな瀬戸内海を控えていますので、海産物に不足することはありませんでした。 利根川以北の河川には秋になると鮭や鱒が遡上してきました。 全国の川に鯔や鮎が遡上してきます。 海も川も今のように汚染されておらず、あらゆる生き物が生息していました。 ちなみに、江戸前というのは、寿司のことではありません。 日本橋川のように江戸城の堀につながる川で取れた鰻のことです。 江戸時代の初期ですら、江戸の街の中で鰻が採れました。 以上のことから、五穀の中でなぜ米だけが租税として徴収されたのかを考えてみてください。 日本列島というのは本当に豊かな島です しかも戦国時代は現在の十分の一以下の人間しか住んでいなかった時代です。 関ヶ原直後で約1000万人、江戸時代を通じて約3000万人程度と推定されています。 急激に増えるのは明治以降です。
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>太閤検地政策が終わった頃の年貢の比率ってどのくらいのものだったのしょうか? 諸大名や地方によって異なりますが、秀吉が生きていた頃は大まかには三分の一すなわち33%程度です。 検地政策は家康にもそのまま引き継がれましたから終わりをどのように考えるのかで変わります。 >米や作物が年収として300万円分生産(貨幣価値は現代と同等)できたと仮定して、現代の年収300万円からどのくらい年貢として持っていかれるのでしょうか? 現在の税制の考え方と根本的に違いますので、個別農家の収入と直接比較することはできません。 むしろ比較すると実態とはかけ離れたイメージとなってしまいます。 秀吉の時代以降幕末までの間、年貢というのはあくまでも村単位で定められていました。 村の中で誰がどれだけ負担するのかは話し合いで決められていました。 年貢の徴収業務ということに関して武家は全くと言っていいほど無関係だったということをお含みおき願います。 大名領であれ天領(幕領)であれ旗本領であれ、農村の統治の実務は農民の自治組織が行っていました。 一般に代官と呼ばれる下級役人が自治組織の長である名主(庄屋)に必要数量を通告するだけです。 米の納入が終了した後に名主(庄屋)から報告書を受け取ってそれを、勘定方へ報告していただけです。 太閤検地も、巷間では、農民を掌握して管理し過酷な納税を強要する根拠作りのために行われたとされていますが、実際の目的は別なところにありました。 領国を支配する大名の収入の実態を把握するのが目的でした。(大名の経済力=軍事能力の把握) 戦国時代には、各大名が勝手に徴税したり新田の開発を行っていたために、誰も実際の姿を把握していませんでした。 これを信長時代から調査し始めて秀吉、家康と受け継がれていきました。 太閤検地の最大の特徴は度量衡を統一させて徹底したことです。 各戦国大名が使っていたバラバラの度量衡の単位を廃止して全国を単一の共通単位で田畑の広さを登録し直しました。 田畑の広さも実測したところと自己申請で決めたといころと混在していました。 この登録された田畑の生産能力に応じて等級分けを行いました。 この数字から計算された生産高を一応の目安としました。 これが大名の石高です。(実生産高ではありません) 実際の年貢の徴収は現在の基礎控除に相当する控除を行った上で、その年の作柄に応じて決まられました。 すべて帳簿上で行われました。 年貢の徴収対象は米のみでしたから、他の作物はいくら作ってもお構いなしです。 又、登録後に農民が努力して地味を向上させて生産量を増やしてもお構いなしでした。 新田も数年おきに調べるだけで、登録されない限りは無税でした。 つまり個別農家の収入をどのように考えるのかで税負担の多寡が決まります。 収入300万円換算としても登録した田圃からとれる米によるものがどれだけ占めていたのかで変わります。 秀吉の時代になって戦乱が収まると同時に農村は年々豊かになっていきました。 戦の度ごとに米をや労働力を強奪される心配もなくなり、年間に収める年貢の概略も見通せるようになりました。 武家というのは年貢として納められる米だけが頼りです。 その大切な米を作る農民を搾取して疲弊させるようなバカなことはやりませんでした。 戦後の社会主義カブレの人間がヨーロッパの農奴などの制度を無理やり当てはめて説明教育していただけです。 天候不順による飢饉は農民だけではなく武家も大名も直撃しました。 農民による騒乱(一揆)も少ない食糧の争奪戦です。 お互いに相手を潰すためにはやっていません。農民も絶対に刀などの武器は使いませんでした。 猟に使う火縄銃などはいくらでも持っていましたが絶対に持ち出しませんでした。 ヤクザ者の出入りではありません。 政治的意図を含んだ死傷者が出るような農民一揆は明治時代に入ってからのほうがはるかに多数勃発しています。 >農家は現在のように米や野菜を現金に変えてたのでしょうか?物々交換?? 必要に応じて現金に換えました。 農村では入手が困難な物品を運んでくる商人も、現金を受け取るよりも、都市部へもっていけば高く売れる品物で受け取る方を選ぶ場合もありました。 農村内で入手できるものは原則として自給自足でしたから現金の必要性は極めて低いものでした。 これが江戸時代の半ば以降となると急激に流通経済が発達して現金決済が定常化していきました。 同時に年貢に無関係な換金作物が大量に作られるようになり、農村は豊かになって行きました。 農村が疲弊したのは明治以降です。
補足
ご回答ありがとうございます。補足質問になるのですが「農村内で入手できるものは原則、自給自足で現金の必要性は極めて低い」とあったのですが、例えば鉄鍋や包丁などの調理器具、布団、衣類などの日常品も自給で生産してたのでしょうか? 落ち着いた感じのする江戸時代より信長~秀吉のいわゆる戦国時代に興味があるもので・・・ お暇なときにでも教えて頂ければ嬉しいです。
- tanuki4u
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http://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/shimobe/shimobechoushi04.pdf これによれば 四公六民 P10 黄金太閤―夢を演じた天下びと (中公新書) という本には 二公一民と書いてあったと記憶している この本では、高税率で 城郭建築やら大土木政策を行うことで経済が成長した。 単に黄金が鉱山から出たので黄金太閤となったのではなく、いわばケインジアン的な財政出動によって日本が景気良くなったから黄金太閤なのだという説明をしていた。
- あずき なな(@azuki-7)
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年貢の徴収量は国と石高によって違うので一概には言えません 300万円分だとしてもA国とB国では違いました 検地ってのは国の石高を正確に測って 年貢量を公平に近づけようってだけで まぁ いまで言う一票の格差と同じです 石高100万石の国と10万石の国で両方から50万石分徴収したら10万石の国は破綻でしょ? それに当時は現金は今みたいな価値はありません 確かに天正小判や慶長大判などは秀吉の時代に流通してましたが お金で物を買う という事が当たり前になったのは江戸時代に入ってからの事です 農家でも裕福な農民はお金を使って商人と取引してましたが 貧しい百姓は物々交換とかが主流だったみたいですね
- Nebu3
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年貢の銭 納が認められるのは商品作物栽培が盛んになる 江戸時代中期です。 太閤検地の歴史的意義の一つに全国の年貢徴収 基準の統一化にありました。全国の田を測量して 4段階評価し上田・中田・下田・下下田に区分し 対応する年貢を米納で課しました。 詳しくはなくてとても回答者の資格はないのですが、 秀吉が最終的に土地の中間寄生者を排除したので、 それ以前より年貢高は大名にとっては上がったはず。 納める農民側にすればどうだったのでしょう。もちろん 農民たちはまだまだ大名に抵抗する意思はありますので 様々な理由をつけて年貢の減免をかけて徴収者と争った に違いないです。で、次の江戸時代初期で農民の年貢率 が藩により違いはありますが3割~5割なので、豊臣 時代もそう変わらなかったと思います。ただ、江戸初期で 豊臣時代の2倍に新田が開発されたので年貢にどう影響し たのでしょうね。
お礼
丁寧に補足回答して頂きありがとうございました!!村単位といえど各分野、立派な産業がなされていたんですね。確かに田畑だけが食糧ではなく他に海、山、川、湖などたくさん滋養のあるものあったと思います。 そう考えると江戸期に発生した大きな飢饉もなんとか乗り越えられたのでは・・・?とまた疑問が疑問を呼んでしまいそうですが(^_^;) いずれにしても今のこの飽食社会、なんでも簡単に揃う世に生まれてきて良かったと再認識できました。 今回は全員にベスアン差し上げたい自分としては大変勉強になる回答の数々でしたっ!みなさまありがとうございましたー!!